1.ハルノサイド
柔らかな陽の光と、不規則に訪れる揺れが心地よい。
平日の昼過ぎという半端な時間のせいか、わたしが乗り込んだ時には誰もこの車両には乗っていなかった。重い腹痛を抱えて学校を早退した身としては、がらんとした静かな車両も心地よい揺れも気が紛れてありがたいものだった。
学校の最寄り駅から二駅めで誰かが乗り込んできた。
痛みが引いてからずっと眠気がつきまとっていたわたしは目を開けるのも億劫で、その時はその存在を大して気にもとめなかった。
ドアが閉まり、また不規則な揺れが訪れた。
後から現れた乗客は幸いにも一人なのか物静かで、わたししか乗っていなかった時のように車内は静かだった。
(さっき乗ってきた人、説教くさいおっさんとかじゃないみたいでよかったな…この制服で昼間に歩き回ってたら何言われるか分かんないし)
微妙な評価の高校の生徒というだけで普段から色眼鏡で見られているのだ、体調の悪い今はあしらい切れない。
ささやかな幸運をぼんやりとした気持ちで喜んでいた。
しばらくして、次の駅に近づいているというアナウンスが流れた。
先程の乗客が立ち上がり、わたしの座る座席に近づいてきた。何駅か聞こえなかったが、きっとこちら側のドアが開くのだろう。
乗り込んでからずっと起きてはいたが、特段目を合わせる理由もないのでそのまま目を瞑っていることした。乗客はわたしのすぐそばにあるポールを掴んで立っているのか、閉じた私の視界にぼんやりと影がかかっている。
ふと、影が近く、濃くなったように感じた。何か理由は知らないが、乗客が足元を見ようとでもして屈んだのだろう。
そう考えていたわたしは、顔の近くにほのかな熱を感じた。間を空けずに顎の辺りに手の形の熱が現れ、顔を上向きに持ち上げられた。何か考える間もなく唇に何かが触れた。温かく、柔らかい。
「…ん、むっ」
思わず驚きの声が出そうになったが、それを発するための口がふさがれているので不発に終わった。呼吸を忘れ、息苦しくなる。
(何?新手の痴漢?)
再び思考し始めた時真っ先にその可能性を考えたが、すぐに断ち切られてしまった。車両が先程より少し大きく揺れ、止まる。顎と唇から熱が離れ、数拍おいてドアが開いた。
今度こそ目を開き、痴漢と思しき乗客の姿を確認した。
その乗客は既に背を向けていて、顔は見えなかった。しかし、わたしは別のところに気をとられていた。
揺れる艶やかなロングの黒髪。黒のセーラー服の大きな襟から白いスカーフがのぞいている。そして足元に茶色のローファー。背丈はわたしと同じくらい。
想定と全く違う『痴漢』の姿に思わず立ち上がることを忘れてしまった。その間に『痴漢』はコツコツとローファーを鳴らしながら小走りでホームに降り、改札の方へ駆けていった。
去り際にかすかにチリンと鈴のような音がした。
わたしは混乱していたのか、そのまま見送ってしまい、やがてドアが閉まった。電車が再びゆっくりと動き出す。
(さっきキスしてきたの…さっきの子?女の子が?それとも女装した男とか?痴女?何?なんなの?)
ますます混乱するわたしを乗せたまま、電車は加速していく。いつの間にか眠気はどこかへ飛んでいってしまった。