チェシャ猫のように笑いながら
「みんなの中には、チェシャ猫がいる」
不思議の国のアリス、この物語を正確に覚えている者はいるだろうか。
一度は絵本を読んだり、何世紀もまたいで二次創作された物語を、私たちはたくさん見ているはずなのに。
例えば、トランプの兵隊さん。
ハートの女王さま。
あるいは、チェシャ猫。
有名であるはずの『不思議の国のアリス』は、ぼんやりとしか覚えていなくて、まるで子供の頃だけの『夢の世界』に感じたことがある。
「あなたの中にも、チェシャ猫がいる」
私は『占い師』の前にいる。
占い師にしてみれば、目の前にいるのが私かもしれないが、そんなのは関係ない。
「あなたは死んだ」
「え?」
「ほんの少し前、覚えてない? 特急列車に撥ねられて、それはもう盛大に死んだのを」
「ぇ……」
この占い師は何を言っているのだろう。
そもそも、私はなぜ"彼女"を"占い師"だと思うのか、真っ白で何もない空間に、机と水晶があって、顔が見えないように仮面をしている。
いつもの私なら、彼女に突っかかって『何を言っているの? この詐欺師!』とでも言い返している。
それなのに、心の中では彼女の言葉を否定できない。
強い不安と、ぐっと抑えるような葛藤が残っている。
「嫌! それ以上は聞きたくないっ!」
「――」
怖いはずなのに、目を閉じきれず、唇の動きが視界に入ってきた。
『さいごのことば、とどけてあげる』
「なにを……」
人は誰しも、死ぬ間際に迷い込む場所がある。
それを過去の偉人は『不思議の国のアリス』に書き記した。
臨死体験で"戻ってきてしまった人"が見る、夢の世界。
まだ死んでない、限りなく死が確定した者が見る不思議な世界。
――これを見たら、あなたは引き返せない。
「ぁ……」
私はその扉を見た時、吸い込まれるように足を運んだ。
その先にあったのは、一面に茨が咲いた道だった。
抜けた先には、玩具の兵隊とトランプの子供たちがパーティーをしていた。
「ようこそ、アリス。あれ? アリスじゃないの? まあ、いいよ。こっちに来て、一緒にケーキを食べようよ」
「美味しそう……」
上品に盛り付けされたケーキと、カップには琥珀色の液体が注がれている。
ハートのティアラを着けた女性が、ひとくちに切り取った白いふわふわを口にしていた。
「ああ! 美味しいわ! 誰か、この味を一緒に楽しんでくれる者はいないのかしら?」
私はいつの間にか裸足になっていて、よく見ると目の前は茨の絨毯に代わっていた。
「痛っ」
植物に、赤い液体がべっとりと塗りつけられる。
私の通ってきた道は、薄くペンキを塗ったように、赤い線状の足跡が付いていた。
(体のちからが抜けていく……でも、これで)
「ようこそ、お嬢さん。一緒にケーキを食べましょう」
「はい」
女性に誘われて、食べたケーキは極上だった。濃厚な口どけ、少し前まで冷やされていたのか、クリームには弾力がある。
私は痛みなど忘れ、ただケーキを食べていた。
「おかわりはいかがですか?」
玩具の兵隊さんが、替えのケーキを持ってきてくれる。
(あれ、私は何を――)
はっとしたように、私は足の痛みを自覚した。
私の後ろには、ものすごい量の血が流れていて、足はずたぼろになっていた。
そこには、真っ赤な花が液体を啜るように咲いていて、足跡は小さなお花畑に変わっていた。
「あ――」
胸が苦しくなる。
私はケーキのお皿に、気にせず突っ伏していた。
「ぐうぅ」
誰か助けて、そう思って女性の方へ手を伸ばすと、ただ含んだ笑みを浮かべて楽しそうに見ているだけだった。
(ああ、苦しい)
そう思っていると、トランプの子供たちが私を担いで、そのまま――。
私を池に放り投げた。
「最後の晩餐は、いかがだった?」
「ごぼ……ぐぁ……」
見ると、周囲にはサメが群がってくる。
そんなに大きくなくて、私の腕と同じくらいの大きさ。
それでも牙は鋭く見えて、私の足から流れる血の匂いに誘われて、周囲を旋回するように泳ぎはじめる。
(このままじゃ死ぬ!)
必死に岸へたどり着こうと泳ぐけど、小さなサメは噛み付いてくる。
(痛いっ苦しいっ)
負けるものかと、必死に抵抗していたら、最後に掴んだ砂のような手触りは、岸に手を伸ばした証拠だった。
「はぁ……いぎぐぁ……くる、しい。いたい」
満身創痍で辿り着いた陸地は、ただ最初に出会った占い師がぽつんと立っていた。
「私を、どうしたいの!?」
「……」
「ねえ……ぐっ……答えてよ! 私がなにをしたっていうのよ!?」
ここは地獄なのか。
占い師は最初に、私が死んでいると言っていた。
それならここは地獄なのか、せめてその答えだけでも教えて欲しかった。
信じる神はいないけど、様々な宗教に描かれる『地獄』という場所。それはきっと、人が生きていた間に重ねた業を、清算させる場所なのだろう。
(でも、私には心当たりがない)
「ここは、自殺しようとした者がくる、最期と同じ状態まで魂を痛めつける場所」
「自殺? 私が?」
そもそも、私は自殺しようとした記憶がない。
占い師が言うように、特急列車に撥ねられた記憶すらない。
「強い衝撃を受けたとき、ひとはそれを忘れようとする。だから思い出さなくてもいい」
「なにを……」
「私の役割は、ただ最期に想いを伝えたい誰かへ、伝言を届けること。枕元に立って、記憶に残らないかもしれない『夢』に、メッセージを届けること」
「……」
「もう時間がない。これが最期のチャンスだから。貴方はもう、体がぼろぼろになって、左手に至っては感覚がない。気付いてた? それ」
私はそのときはじめて、自分の左手が存在していないのを自覚した。背後を見れば、赤い液体を溶かしながら、水の中に浮いていた。
「この後、その体と顔、すり潰すような地獄が待っている。その前に、私があなたの最期、届けてあげる」
玩具の兵隊さんと、トランプの子供たちは、船で私を追いかけていた。
(私の最期……それは)
全てを思い出していた。
なぜ自殺したのか。
私が今、どうなっているのか。
占い師の瞳を見つめれば、現実の私が見えた。
電車に撥ねられ、なのに即死したわけでないが、体は吹き飛ばされて酷い有様になっていた。
生きているのが奇跡なくらい、鼓動は少し前に止まっているのに、まだ頭だけが思考を続けている。
「――」
「確かにあなたの言葉、受け取りました」
その後、私という存在は、泡のように消え去った。
占い師は仮面を外した。
そのにあったのは、たったいま消えた少女と、同じ顔だった。
「私が代わりに、伝えてあげる」
不思議の国のアリスは、誰の中にも広がっている。
自分の都合で死んでいった身勝手な魂を裁く地獄。
それでも救いが無い訳じゃない。
アリスという少女がいて、最後の叫びを伝えてくれる。
それで未練が消えないけれど、少女が最期に浮かべた表情。
アリスには、その境遇に挑もうという、強い笑顔に見えていた。
託せる誰かかがいるならば、人はどんな境遇にも笑顔で立ち向かえる。
死ぬ前にそんな人物がいれば、きっと少女は死なずに済んだ。
――同じ笑顔を作り、伝えるべき伝言を思い浮かべながら、少女は誰かの枕元へ立ちに行く。
チェシャ猫のように笑いながら。