第六話
老婦人の丁寧な感謝をいただき、謝礼は丁重に辞退した。
こちらこそ申し訳ない、と頭を下げる。大切なハンドバックは持ち手が取れて無残な姿になってしまっていた。
大家は頬の確認に整形外科に行く予定があるから、万一に備えて連絡先だけ交換しておく。もっとも、万一があったとしても、それを償うのはあのひったくりであって、このおばあ様ではない!
その点は大家の意見も一致していた。
当たり前じゃないか、という大家のセリフはまさに私の考えていたことでもあり、思わずハイタッチを交わす。
上品に、おばかな高校生を見守っていた老婦人は、最後に爆弾発言を残していく。
「お似合いのお二人ね。お幸せに」
深々と頭を垂れる老婦人に、私は曖昧に微笑むにとどめた。その横で大家が、重々しく頷く。
老婦人が背を向けたところで、私は大家の靴をこれでもかと体重をかけて踏みにじった。
「なにを安易に頷いてんだ!」
「じゃあ、何か? あの人の言葉を遮って、まだ付き合ってません、とでも言えばいいのか?」
痛むつま先を押さえてうずくまりながら、大家が私を見上げる。
「何よ、その『まだ』って!」
「まだはまだ、だ。これからがある……多分」
「やめて!」
今度こそ私は大家を遮り、拳を大家の胸に叩き込んだ。絵に描いたような文系少年は、胸を押さえて咳き込む。涙ぐんで私を見返してくるが、こっちはそれどころじゃない。
「こんなところ紗英に見られたら!」
「私がどうかしたの?」
一番いてほしくないところに、紗英がふらりと現れる。
今日は何か? 児童文学的に言うところの、ベッドから降りる側を間違えた日?
厄年にはまだ早いはずだけど、厄日?
あわあわしている私を他所に、紗英はうずくまる大家を哀れみを込めて見下ろす。それを見上げる大家は苦々しそうだ。
「大丈夫? 紬の拳って結構重いらしくて、私のストーカーを一撃で撃退して、過剰防衛で警察に怒られたくらいよ?」
ふふん、と鼻で笑って、楽しそうだ。
その斜に構えた姿が、返って胸にくる。
大家が二股をかけようとした瞬間に居合わせてしまったんだ。辛くないはずがない。
私は紗英を正面から抱きしめ、背中をなでた。
「紗英! 紗英! 大家は私が矯正してみせる! 大丈夫、まだ道を踏み外したばかりだから、きっと、大丈夫だよ!」
「道を踏み外したの? 大家君?」
紗英は抱き返すように私の背中に腕を回しながら問う。
「よくわからないけど、シルバーアクセつけて、ちょっと腐ってきた感じ! 夏休みに羽目をはずした優等生の見本みたいに! でも、根は真っ直ぐなんだよ。今は気が違っちゃってるけど、すぐに真っ直ぐに戻るから! だから紗英、諦めないで!」
「そうなのね。腐っちゃったのね。もとよりあまり鮮度がよくない感じだったけど。そう、腐っちゃったの。シルバーアクセつけて……へぇ、ふぅん」
ん? 紗英の様子がどこかおかしい。二股かけられて、悲しみをこらえている、という風情がない。
私が固まっていると、立ち上がった大家が、紗英から私をぺりっと引きはがした。
「ちょっと、何するの? 友人間の親睦を深めてるのに、邪魔する気?」
紗英がとがった声を張り上げ、大家を睨みつける。
大家も負けじと紗英を睨みつけた。
「女同士でもセクハラは成立するんだ。いいから、桑田から離れろ」
「あら、失礼ね。私たちは無二の親友同士なの。お風呂だって一緒にはいるし、お布団だって一緒に寝るのよ?」
紗英はべぇっと可愛らしく舌をつきだして、私の腕に豊満な胸をぎゅむっと押しつけてくる。
はっきり言って至福だ。
中年おやじのように目尻を下げていると、大家が絶望しきった目で私を見下ろした。
「桑田、おまえは男より女の方がいいのか?」
咄嗟に、それがどういう意味か判断できず、首を傾げる。
何に対して、男女に優劣を付けているのか、見当もつかない。
「桑田の恋愛対象は、男か? 女か?」
私がハテナを頭にとばしているのを見て、大家が言い方を変える。
私はますます首を傾げた。
「は? 私のレンアイタイショウ? どういう意味?」
「だから、おまえがつき合いたいと思うのは、男か、女か!」
しびれを切らしたのか、大家がやけくそ気味に大声をだす。
「どっちかというと男だけど。そこら辺の男よりは紗英の方が遙かに大事。だから、紗英を傷つけるなら、私が許さないから!」
腕にひっついている紗英をかばうように、紗英の前にでると、大家がまたも絶望しきった目で私を見下ろしてくる。
何なんだ、君は。
この混乱しきった場をどうしようか考えている隙に、紗英がゆっくりとしゃべり始めた。
「うれしいわ、紬。本当、泣きたくなるくらいうれしいの。
……だからもう大丈夫よ。本当のことを言って?」
幼子をあやすように、私の腕に抱きつきながら、紗英が私をのぞきこむ。
茶色と言うよりも、さらに薄い琥珀色の虹彩が、間近で私に問いかける。
唐突にフラッシュバックする深夜の記憶に、私はさらに混乱した。
「ねぇ、紬。大家君のこと、好き?」
「うん。好き」
「さ、紗英! あ、あれは! 人間として、人間としてだから!」
紗英の両肩を掴んで主張する。すると、紗英は寂しそうに笑って、首を横に振った。
「私、紬に謝らなきゃならないことがあるの。私と大家君、つき合ってないわ」
「はぁ?????」
愕然として紗英を凝視したけど、紗英は瞬ぎもしない。
慌てて大家を振り返ると、大家は力強く頷く。
私はもう一度、「はぁ?」を繰り返して、へなへなと床に座り込んだ。
脱力している私に、紗英がことのあらましを説明しだす。
大家が私をずっと気にしていたこと。私も大家を気にしているように見えたこと。
何がきっかけかはわからないけど、大家が私に接触しようとしたので、それを阻止ししたこと。
「大家君が本当に紬のことを好きなのか確認したいから、しばらく三人で一緒に勉強しましょう、と言ったのよ。
大事な紬を変な男に近づけたくないから、って。
でも……こんな格好の紬をちゃんと紬だとわかった上で、いつもの紬がいいなんて言うんだから、合格させるしかないわよね。
それに、紬をちゃんと守ってくれたわ」
今朝、うちに来る前に大家も、映画館の前に呼び出してあったらしい。
そして、タイミングを見計らった紗英は、私を一人にして柱の陰からこっそり見ていたのだとか。
ナンパ男とのやりとりには笑ったし、ひったくり犯を追いかけたところではさすがに青ざめたらしい。
いい気味だ。こんなに私を疲れさせたんだから、紗英も少しくらい疲れればいい。
「紗英……あんた……」
「一発くらいなら、殴られる覚悟、あるわよ。でも、嫌わないでくれるとうれしいわ」
両手を胸でくみ、祈るように私を見つめてくる紗英。
雨に打たれる花のようだ。
「紗英、目ぇ、閉じて」
「おい、桑田……」
「大家は黙ってて」
そっと目を閉じた紗英と唇をかみしめる私。
間に入ってこようとした大家をすかさず牽制し、私は大きく深呼吸して、手を持ち上げた。
「……紬?」
「言ったでしょ? そこら辺の男より、紗英の方がよっぽど大事。他人で一番大事な人だよ。
これは私を騙した罰。次回からはちゃんと言って」
紗英の小ぶりの鼻をつまむと、紗英はいつもの斜に構えた笑みではなくて、少し涙の滲んだヘニャっとした笑顔になった。美人はどんな顔をしても美人なので、ちょっとイラッとしたことは内緒だ。
笑顔を交わしていると、それを邪魔するように咳払いが聞こえる。
見ると、腕を組んで仁王立ちした大家が、呆れたように私達を見下ろしていた。
「話はついたのか?」
「ええ、そうね」
紗英が目尻をハンカチで抑えながら答える。
「うん」
上機嫌に返事をした私を、大家は目を細めたままため息をつく。いつものメガネがないからか、直視しづらい。
大家じゃないけど、いつもの姿のほうがいいってことは確かにあるらしい。
「次は俺だ」
大家は強引に私を大家の方に向き直らせると、逃さないとでも言うように両肩をきつく掴んでくる。
「な、なんの順番待ち?」
「先ほどの質問に答えてもらってない。
男と女、いや、俺と園田、どっちを取るんだ?」
「紗英」
ノータイムでそう答えると、大家はがっくりと膝をつき、紗英は爆笑した。
「ばかじゃないの? そんな聞き方、答えなんて、決まってるじゃない?」
紗英が息も絶え絶えに言うと、涙を拭って息を整える。
「え? なに? なんか間違ってた?」
「本当に紬は可愛いわ。
違うのよ、紬。大家君が聞き方を間違えたの。
彼はこう聞きたかったのよ。
男として付き合ってもらえませんか、って」
「へ?」
間抜けに聞き返しているうちに、紗英は大家の前まで行くと、うなだれひざをついたままの大家をつま先で小突いた。
「順番を間違えるから、こういうことになるのよ。先に言うこと、あるでしょう?」
大家はばつが悪そうに紗英を見上げ、次いで、顔を真っ赤にして私を見上げた。
「その……だな。まず誤解を解いておきたい。俺は一夏の経験とやらはしていないし、これはシルバーアクセサリーではない」
シャツの中からごそごそと銀色のチェーンを引っ張り出す。
その先には小さな十字架と磔にされたイエス・キリストがいた。
「これは祖母の遺品なんだ。先日、一周忌を迎えた。……朝、おまえに会った日だ」
予想外におばあちゃんっ子だったようだが、大家のイメージにはきっちり合っている気がした。一夏の経験よりも。
ちなみに、十字架は学校には着けていっていないらしい。着替えの度にからかわれる中学校時代があったため、高校に入ってからは休みの日以外は家に置いておくのだという。
「へぇ、苦労したんだね」
心のよすがとしての十字架を置いていく、というのは、信仰を持つ人にとっては辛いのだろうな、と思ってそう口にする。
大家は表情をゆるめて、手に持っていた十字架を胸に垂らした。
「桑田はあの時、俺を見なかったことにしてくれた。その……嬉しかったし、やっぱり桑田がいいな、と思ったんだ」
十字架を放れた手が、そっと私の頬にふれる。私は固唾を飲んで、間近に迫った大家を見上げていた。
「学校でも、桑田はいつも真っ直ぐで一生懸命だ。おまえ、俺のこと嫌っていたろう?」
くすっと笑って大家が言う。私は正直に頷いた。
「口うるさいからね」
「だと思った。俺はずっと気になってた、去年の高体連でおまえが走るのを見てから、ずっと。
その……おまえのあ……足とか、ほかの奴に見られたくもなかったし……」
「私のことが好きだから、苛めてるんだと思ってたよ」
「そんなガキじゃない!」
勢いよく反論するが、すぐに真っ赤になって困った顔をする。
「いや……そういうのも……あったかもしれない。……ほかにどうやっておまえに関わればいいかわからなくて」
大家の常にない態度に、私の体温もぐんぐん上昇する。
視界の端にうつる紗英が親指を立てていい笑顔を見せてきた。左手には何故かスマホが握られている。
勘弁して! 羞恥プレイすぎる!
「ねぇ、論旨が曖昧! この小論文、何枚になる予定?」
場の空気にいたたまれなさ倍増で、私は悲鳴を上げるように、大家に問いかける。
大家は怒鳴るように答えた。
「あ、あと一行だ!」
「おぅ! 来い!」
まるで野球部のバッテリーである。
ロマンティックさのかけらもない中、それは言い放たれた。
「好きだ、つき合ってくれ!」
「了解した!」
後に紗英はこのときのことをこう語った。
「すぐにちゃかしちゃう女の子と、優等生と言うよりは単なるヘタレの男の子という組み合わせは、ある意味不毛だな、と思いました。
お互いに、ロマンティックな雰囲気にならないのは相手に原因があると思ってるんです。
私に言わせると、お互い様だろ、という感じ。
でも裏を返せば、本当にお似合いの二人ってことです。
これからも仲良く喧嘩していただければ、と思っています」
披露宴の席で友人代表としての祝辞とともに、ご丁寧に保存されていた貴重映像を上映された私たち二人は、しばし立ち直れないほどのダメージを負ったのであった。
これにて完結です。




