第三話
私の塾は週三回。月火木だ。
紗英は月火金。なので、水土日は図書館で勉強。それ以外は家で勉強だ。だから、大家が同席するのも、水土日。
そう思っていたから、金曜日、たまたま図書館に本を返しに行って、大家に鉢合わせしたときはびっくりした。
「紗英、金曜日は塾だよ?」
立ち竦んでいる大家に、苦笑気味にそう告げる。
大家は、ああ、とか、うん、とか曖昧な返事をもごもごした。
「聞いてなかった?」
「いや、聞いていた。桑田は月火木なんだよな」
「うん。他の曜日はバイトもたまに入れてるんだよね。今日はたまたま休みでさ、本、返しに来たんだ」
「そうか」
沈黙が流れる。
どうも、大家との会話は発展性がない。奴のボキャブラリーは、私を罵るときにのみ利用されるに違いない。
私は会話をさっさと切り上げて、本の続きを探しに行こうと、歩き出し掛けた。
すると、大家に腕を捕まれる。
予想もしていなかった事態に、思わず体をびくっと揺らすと、大家も慌てたように手を離した。
「わ、悪い! 痛かったか?」
「いや、痛くはないけど。……びっくりした」
捕まれた方の腕をさすりながら、そう返す。
大家は、メガネのブリッジを人差し指であげて、「悪かった」ともう一度言った。
「それで、何? また何か、用事があったんでしょう?」
大家を見上げて聞くと、大家はまた顔を背けてしまう。
それでも何とか、聞き取れる最小限の声で、「一緒に勉強しないか」と言ってきた。
「あ、そっか。席取りね。そうだね。トイレとか行きたくなったら、困るもんね。いいよ、私は勉強道具持ってきてないから、本読むだけだけど。……気、散らない?」
「いや、大丈夫だ。助かる」
私はちょっと感動していた。
何か、初めて大家とまともな会話をしているような気がしたからだ。
長いセンテンスは私ばかりだった気がするけど、それでも、言葉のラリーが続いたのだ。
これを進歩と言わずに、なんというのか?
密かに感動しているうちに、大家は小さな鞄を持って、席に移動し始めた。
しばらく、大家の字を書くささやかな音と、私のページをめくる音が、耳に痛すぎない沈黙を作っていた。
借りようと思っていた本を最後まで読み終え、ほぅ、と満足のため息をもらしたところで、いつの間にか私をじっと見つめていた大家と目があった。
大家は、私が初めて見るような、優しい笑顔をして片肘をついている。
一瞬、鼓動が跳ねた気がした。
「あ、ごめん。うるさかった?」
うるさいことなど何もありはしないはずだが、他になんとも言いようがなくて、裏返りそうな声を抑えて、何とか言葉にする。
大家は、夢から覚めたみたいに二度瞬きをすると、いつもの仏頂面に戻ってしまった。
しかし、その表情とは裏腹に、つむがれた声は優しかった。
「その本、面白いのか?」
「うん。すごく面白いよ。と言っても、児童書だから、あまり高校生にお勧めできるものじゃないけどね」
私はハードカバーの背表紙を撫でながら、本を見下ろす。豪華で重いハードカバーは、高校生の懐にも重すぎる。だから、読みたくなる度に図書館に通っていた。
「意外だな」
そういわれるのは、実は多い。
陸上なんてやってると、頭の中まで走ることでいっぱいだと思われているらしい。
でも、私は長距離走だったせいかもしれないけど、走っている最中にもいろいろと考えるし、妄想する。ついでに、あいている時間にはいろいろな本を読んでいるつもりだ。
「これでも、結構、文学少女なんだよ」
「いや、本を読んでいるのは知っていた。ただ……児童書を読んでいる、というのが意外だった」
私が肩をすくめて答えると、大家は意外なことを言い出した。
「ん? 何で知ってるの?」
「学校の図書室で、結構見かけた。いつも、文庫本を持っていたからな」
大家の仏頂面がまたほどけてくる。
柔らかい、晩秋の木漏れ日のような笑顔。
おどけたようにくいっとあげられたメガネが、きらっと光った。
「学校の図書室には、児童文学はないからね。教科書も重いし。借りやすいのだけ借りてるんだ」
「ホラーとかミステリーとか、海外物が好きなんだと思ってた」
それからしばらく、アメリカのホラー作家の本とか、フランスの古典推理小説とか、ひとしきり花を咲かせる。
ふと気づくと、もう昼に近い。今日は家で昼食を食べると伝えてあるから、遅くなると母が怒りまくるだろう。
「私、そろそろ……」
「桑田は何で走るのをやめたんだ?」
立ち上がろうとした姿勢のまま固まり、のろのろと大家を見る。
大家は面白がるでもない、好奇心からでもない、真面目くさった顔で私を見据えている。
もう少し茶化すような雰囲気でもあれば、私もそう応えるのに。
風紀委員の大家を久しぶりに見た気がした。夏休み中なんだから、休んでいればいいのに。
心の中でいろいろと答えをいじくり回すけど、風紀委員の大家がそれを許してくれそうにない。
私は椅子に沈むように座りなおして、ついでに大家から顔を背けた。
「高二の夏なんだ。まだ大会だってあったろう?」
私の渋る空気を一顧だにせず、追撃してくる。私はテーブルに突っ伏した。
「走ってるよ、毎朝。知ってるでしょう?」
「陸上部の話だ。毎朝走ってるなら余計、走りたいんじゃないのか?」
人の空気は読まないくせに、何故そういうところは気がつく?
頬をテーブルにくっつけたまま、セミがうるさそうな外を見やる。
去年はこんな炎天下でも、汗だくになって走り続けていた。
「……記録にならないんだよ。ずっと、突破できない壁があって、それを超えればいいとこ行くって言われて。
頑張っても、無理だった。
そうしたら、頑張りが足りないからだって言われた。
そうかもしれない……、そうじゃないかもしれない。
どっちだっていいんだ。ただ、走ってるのが苦しくなって、辛くって……。
私がいたスペースを下の子に譲ったの。
それだけ」
思いつくままに言葉を連ねる。
大家は黙って聞いていて、最後に「そうか」と呟いた。
「笑っちゃうような、どうでもいい理由だったでしょう?」
陸上部で私が何と言われているか知っている。「逃げた」だ。
そういわれると、そうなのかな、と思う。
逃げたつもりはなかったけど、「あいつは苦しいから逃げたんだ」と言われたら、それを否定することができない。
だってあの時、確かに私は苦しかったから。辛かったから。
タイムが縮まらないことではなく、「努力が足りない」と言われることが。
大家は何と言うんだろうと身構えていても、いっこうにしゃべり出す気配がない。
テーブルから顔を上げて大家を見ると、めがね越しの切れ長の目とぶつかった。
「大家?」
「あぁ、すまない。何と言っても蛇足な気がして、言葉を探していた。
ただ、……そうだな。残念だな」
「何が? 内申的に?」
こんな時期にやめたら、内申書に部活動を書けない、と先生に言われた。
そんなことのために走っていたわけじゃないんだけどな。
優等生の大家もそういうだろうか、と思って見返していると、大家はびっくりした顔をしていた。
「内申書なんてどうでもいいだろう? それよりも、桑田が走ると周りの空気が変わったから。
俺は体育は苦手だったから楽しさの半分もわからないんだが、桑田が走る姿は綺麗だった。
運動が大嫌いな俺でも一緒に走り出したくなるくらい……。
記録は残念だったが、俺の記憶には焼き付いてる。
夕焼けの中を走る桑田はとても綺麗だった……」
大家はしまい込んだ写真を探すかのように、目を閉じて、記憶を反芻しながら言葉を紡ぐ。
ピンとのびた姿勢。テーブルの上で組まれた骨ばった大きな両手。少し笑みをたたえた口元。
声を出す度に動く喉仏。
大家がようやく我に返り、切れ長の目をぱっちりと瞬く。
凝視していた私と目があって、途端に大家の首まで真っ赤に染まる。
でもそんなこと、私には指摘できない。だって、私も茹で蛸みたいに真っ赤になっていたから。
「ごめん! 私、家でご飯食べる約束してるから! か、帰る!」
がたがたと派手に音を鳴らしてイスから転げ落ちそうになりながら立ち上がる。
大家は自分の顔を片手で覆ってしまい、こっちを見ようともしない。
見られても困るけど!
警鐘がうるさいくらいに胸の奥で鳴っている。
ダメだ、これはダメな奴だ。
読み終わった本をひっつかみ、まだ顔を隠し続けている大家の挨拶も待たずに、私は走り出す。
そして、読み終わったばかりの本を借りだし、一目散に家に戻ったのであった。