第二話
夏休み中、もう、朝のその時間に教会まで走り込むことはしなかった。
多分、大家もその時間に教会を訪れることはないだろうけど、私の方も用心した方がいい、と感じた。
何かが、私に、「もう大家と会わない方がいい」と忠告していた。
何か、取り返しのつかないことが待っている、そんな気がした。
そんな風に気遣って見せたのに、運命とは斯くも無情なものである。
私はあっさりと大家の正面に立っていた。
紗英につき合ってやってきた図書館で、ばったりと。
紗英は行きたい大学があるとやらで、論文テストのための傾向を調べようと、過去のその大学の情報をたくさん調べていた。
私も、いつも家の机で過去問ばかり解いていると、気が滅入ってきてしまうので、紗英につき合って図書館まで来ることにしていたのだ。
私は、紗英が本を持ってくるまでの席確保役だ。
この時期、涼しい図書館の机は、夏休み中の小学生から高校生まで雑多で、よい席はあっと言う間に占拠されてしまう。
そこで、まずは私が席を取り、紗英が本を探す。紗英が席に戻ってきたら、今度は私が本を探しに行く、と言う流れだ。
戻ってきた紗英と軽く手を合わせて、私が席を立つ。
まずはトイレに、と書架から離れようとしたところで、書架の陰から出てきた人に軽くぶつかってしまった。
「あ、すみませ……ん???」
「申し訳ない……!」
謝罪の言葉が口の中に消える。
息を飲んだ相手の声にはじかれるようにして見上げると、すぐ間近に大家が立っていた。
すぐに気づかなかったのは、私服だったからだろう。
涼しげな水色のTシャツに、白いチノパンをあわせている。
目を合わせづらくて、少し目線を下げていると、Tシャツの襟元から、銀色のネックレスがちらりと見えた。
堅物風紀委員がアクセサリー?
それとも、一夏の経験でもして、趣旨替えをしたのか?
急に、大家が見ず知らずの人になったみたいで、胸の奥が疼く。
「久しぶり。まさか、こんな所で会うなんてね」
なかなか大家が口を開かないから、私から話しかける。
そう、私は大人の女なのだ。学校の因縁も、教会のあれも、決してこだわらない。
しかし、私のそんな覚悟を踏みにじるように、大家は大きな手で自分の顔半分を覆い、私からあからさまに顔を背けている。
ぶつかるほどだから当たり前なんだけど、間近にいると大家は大きかった。
父さんよりも少し大きいくらいか。
サラサラの長めの黒髪から覗く耳が少し赤い。外から入ってきたばっかりなんだろうか。
ジト目で見上げていても、大家はいっこうに口を開かない。
あまりの感じ悪さに、私は顔をしかめた。
「じゃねっ!」
私は当初の目的通り、トイレに向かおうと背を向けた。
「待てっ! ……、いや、待ってくれ」
いきなりの命令口調に私がきっとにらみ返すと、大家は心細そうに言い直した。
「何よ?」
「この後、時間、あるか?」
大家の口はまた手で覆われていて、とてもくぐもっている。開いた方の手は盛んにグーパーを繰り返していた。
何だ、こいつは?
大家のあまりの挙動不審っぷりに、私はひどく不安をあおられる。
「何よ、何かあったの? ……差し歯でも抜けたの?」
おばあちゃんが口を押さえているときは、大抵入れ歯がずれたときだ。
流石に、この若さで入れ歯はないと思ったから、気を使って差し歯と言ってみた。
だが、大家は私の親切をドブに捨てる。
「んなわけないだろっ!」
顔を覆っていた手をはずし、思わず怒鳴った大家の口の中に異常は見受けられなかった。
「じゃぁ、何よ? 私、何か怒られるようなこと、した?」
首を傾げると、大家はまた私から顔を背ける。
どんだけ失礼なんだ、てめぇっ!
怒りにプルプル震えていると、ふわっとした声が背後から響いた。
「紬ったら、こんな所で何してるの? あれ? 大家君?」
紗英は、私と大家を見比べると、暫し大家の顔をじっとのぞき込んだ。
大家は完全に背中を向けている。
私はピン! とひらめいた。
あぁ、なるほど。ポンと、拳をもう片方の手で包み込む。
「大家、それは遠巻きすぎるぞ」
「……? なんのことだ?」
「紬? どうしたの?」
「大家、好きな子は直接アプローチするもんだよ。将を射んとせば先ず馬を射よ、ってのは、女の子に対しては二流の対応だよ」
私がにやにやして言うと、大家は口を覆っていた手をおろして、あからさまに不機嫌な顔をした。
照れ隠しか、それとも不器用なのか……。後者だろうな。
私は、紗英の後ろに素早く回ると、彼女の背をぐっと押して、大家の前に立たせた。
先ほどまでの私のポジションだ。
ふっふっふっ。ここは私が世話焼き婆ぁになってやりましょうかね。
「私はこの後、用事があるからさ。失礼するわ。後はお若い二人で」
「お若いって、あんたも同じ年じゃない」
紗英が呆れたように呟く。
「待てっ、おい!」
「まぁ、いいわ、私も大家君にはお話があったのよ。じゃぁ、紬、またね」
慌てる大家の腕に、白いノースリープワンピからのぞく真っ白い腕を絡めて、紗英がにっこりと微笑む。
あれ、紗英も……そうなんだ?
私はちょっとびっくりして、……びっくりしすぎて跳ねた心臓の音を隠すように胸を押さえて、急いでその場を去る。
「おい、桑田!」
大家のすがるような声が聞こえたが、こんな絶妙なお膳立てを生かせないようなヘタレでは、この先が思いやられる。
私は目に焼き付いたような絡まる白い腕を見たくなくて、図書館の司書さんに非難がましく睨みつけられながらも、ほとんど全力で荷物をとりに戻り、風のように去って見せた。
その後、二人の間でどういうやりとりがあったのかはわからないが、一番わからないのは、今の状況だ。
一緒に勉強するくらいだから、きっと二人は出来上がったんだろう。
でも、どうして私まで、二人に挟まれるようにして、机に張り付いていなきゃならないんだろうか……?
私は、図書館の日が射さない場所にある丸机について、右に紗英 、左に大家がいて、それぞれカリカリとシャーペンを動かしている。
紗英からは、この日もいつもどおりに図書館で、とメッセージが来ていたので、いつもどおり二人だけなんだろうと思ったんだけど。
何故か、先に大家が来ていて、私を見ると片手を挙げてきた。
流されて、なんとなく片手を挙げて私も挨拶をしたけど、後ろから来た紗英にタックルをかまされて、それに文句を言っているうちに、三人でいることはうやむやになっていた。
解せぬ。
会話らしい会話もなく、勉強ばかりが進んでいく。
私が本を探しに言っている間に、紗英がトイレに行った。
確かに、こういう時に三人目がいるのは非常に便利だ。
便利なんだけど……解せぬ。
大家が席を立ったタイミングを見計らって、私は紗英ににじり寄る。
「ちょっと、これ、どういうこと? 何で三人なの? 私、完全におじゃま虫じゃない!」
「大家君がね、三人がいいんですって。それに、私と紬だけだと、どうしてもおしゃべりが多くなってはかどらないじゃない。大家君がいると、めちゃくちゃはかどってるから、ありがたいわ。バイト代払ってもいいくらいよ」
紗英は、癖のある髪を耳に掛け、シャーペンを指先でくるくる回してみせた。
夏休み期間中のみ限定、と嘯く色鮮やかなネイルがまぶしい。
「あんたはそれでいいわけ?」
つきあい始めなんて、二人っきりでいたいものじゃないんだろうか?
言外の私の疑問にも、紗英は肩をすくめるだけだ。
よくわからない。わからないなりに、これはダメなパターンじゃないか、と思った。
つまり、大家の方が告って、紗英は「つき合ってやっている」と言う状況なんだ。
大家は確かに口うるさいけど、しっかりと筋の通った、卑怯の欠片もないまっすぐな奴だ。
普通に考えれば、紗英が大家を拒む理由はない。
でも、紗英はどうも大家の気持ちをまっすぐ受け止めていない。
それはきっと、紗英の容姿のせいなんじゃないか、と私は勘ぐっている。
紗英は見目可愛く、女の子の理想の女の子のようだが、実は計算高く、常に理性的だ。
その砂糖菓子みたいな容姿に引かれて来る男どもに、いままで、ろくな奴がいなかった。
そして、容姿と中身の乖離に気づくと、その最低な野郎どもは、二股とかフェードアウトと言う方法で紗英から離れていく。
まるで、紗英が傷つくことはない、と思っているかのように。
そういうバカどもに、私はいままで何度、紗英の代わりに報復したかわからない。
廊下の途中でひざかっくんしてやったり、授業中に寝ているのを承知で先生が指名するよう誘導したり。
そんな涙ぐましい努力を見て、紗英は笑いながら涙を流すのだ。
面白すぎて、受ける、と。
その涙が、本当は傷から流れたものであると、私は知っている。
実は人一倍気が強い紗英が、素直に泣けなくて、トイレで涙を拭っているのも知っている。
「大家は、いままで紗英がつき合ったバカやろうどもとは違うよ」
そっと囁くように言ってみる。
伺うように紗英を見ると、紗英は驚いたように目を見開いてから、泣きそうに顔をゆがめて笑った。
「うん。そうじゃないかな、と思ってる。……だから、確認したいの。もう少し、私のわがままにつき合ってもらってもいい?」
ふわふわの巻き毛が、肩の上でさらさらと揺れる。
私はそれを眩しく思いながらも、頷いた。私が一緒にいる理由はわからない。でも……。
そっか、紗英も違うことはわかってるんだ。そう考えるとうれしかった。
これは、お試し期間なんだろう。
お試しが終われば……。
何かが胸を刺す。痛い……ような気がする。
いや、気のせい、きっと気のせい。そうじゃなかったら、さっき食べたサンドイッチが悪くなっていたかのどっちかだ。