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第一話

 「おい! 廊下を走るなと言ってるだろうが!」


 学校一の独身イケメン先生に、「急いで教材を持ってきて欲しい」と懇願され(少し大げさ)、私は張り切っていた。

 そこに冷水を浴びせるように、怒鳴ってきたのが大屋祐樹(おおや ゆうき)だ。

 足を止めて振り返ると、長身で威圧的に仁王立ちする、メガネの少年が立っていた。


 少し長めの前髪がメガネにかかっていて、その隙間から切れ長の目が私をにらみつけている。


 ワイシャツはきっちり首もとまでしめられていて、アイロンをかけたてではないかと思うほど折り目正しかった。


 私はわざとらしく足踏みを繰り返して、ふん、と鼻を鳴らして見せた。

 「大声を出すのは、かまわないんですかね、風紀委員様」

 大屋は、鼻白んだように言葉に詰まってから、「お前が小さな声で止まるものか」と言い捨てる。

 私に指摘されて気づいたその様子に、私はにんまり笑う。

 笑いながら、少しずつ大家から距離をとっていく。

 「生徒の模範となるべき風紀委員が、たった一人の生徒にかまけて、大声を出すのは宜しくありませんね~。なんて言うんだっけ? 本末転倒?」

 「だからそれは! つまり、こんな廊下で短いスカート蹴散らして……、桑田!」

 「もう、聞こえません!」

 十分遠ざかっていた私には、本当に大屋の声は届かない。

 辛うじて、名字を呼ぶ声が聞こえた程度だ。


 こんな風に、私と大家との日常は、叱声と反論のオンパレードだ。


 私だって、年頃の女の子だから、恋バナに花を咲かせたり、格好いい先輩に胸をときめかせたりしたい。

 事実、憧れの野球部の先輩の前では、一応、乙女らしく淑やかにしている(つもり)。

 小学校、中学校と、メンタリティの幼い男子どもから、「暴走列車」と呼ばれた日常は、高校ではなんとしても回避したかった。


 なのに、なのに!

 すべては大家の責任だ。

 何で奴は、私にだけあんなにうるさいのか!


 何でも恋愛に結びつける恋愛脳のクラス女子に言わせると、それは恋の仕業ってことになる。

 そのせいで、大家が私に声をかける度に、クラスの女子達は黄色い悲鳴を上げて喜んだ。

 正直言ってうるさい。


 でも、でもだよ?


 高校生にもなって、好きな女の子に意地悪する男子なんて、それが本当だとしたら、返って顰蹙ものじゃないだろうか?

 少なくとも私は、いくら奴からのこっち方向への感情が恋だったとしても、あの言動に同じ想いを返すつもりはさらさらない。


 もっと可愛らしい、眼と眼があっただけで頬を染めて、指先が触れ合ったらびっくりして一メートルくらい離れちゃうような、そんな初々しい恋をしたい!


 そのためには、大家に毎日怒鳴られ、それに勢いよく反論する余りに、「鬼風紀委員と、勢いだけの桃たろ子」なんて呼ばれていてはいけないんだ!


 私がそんな風に力説、いや、もはや演説と言っても過言ではない状況で拳を振り回していると、たったそれだけで夕ご飯まで生きていけるのか不安なほど小さなサンドイッチを租借した悪友が、口を上品に拭きながら、そっとため息をついた。

 「確かに、あなたみたいな子に恋心を、特にあの大家君が持つのか?  と言われれば、首を傾げざるを得ないわね」

 「ちょっと、その言い方は私に失礼だわ」

 三個目のおにぎりを頬張りながら、私はすかさず反論する。

 反論しながらも、この女はいつも何でこんなに淑女っぽいのか、とうっかり見ほれた。

 言い返された悪友は、こてん、と小首を傾げ、蠱惑的なぽってり唇で毒舌を吐く。

 「つむぎ相手に、失礼なんていったら、失礼って言葉が赤面して逃げ出すわよ」

 「紗英さえ、あんた、自分が可愛いから、何言っても許してもらえる、と思ってない?」

 片手の拳を握り、指をポキポキ鳴らしながら、笑みを浮かべてにじり寄る。


 園田紗英そのだ さえは、制服のスカートに散ったパン屑をぱんぱんと手で払うと、優雅に立ち上がって、私の鼻先に白い指先を突きつけた。


 「あら、違うわ、勿論。私は努力して、意識して可愛いの。いわば人工の美ね。あなたは天然。価値は貴女の方が高いわ」

 間近にある紗英の整った顔と白い指に、私は思わず赤面した。

 「わ、私の価値が判ってるなら、いいのよ」

 どもりながら、何とか胸を張る。

 紗英はまた艶っぽく笑った。

 「いろいろな意味で、本当に可愛いわ。大好き」

 紗英が私をふんわり抱きしめる。柑橘系のさわやかな匂いが鼻をくすぐった。シャンプーの匂いなのか。

 いちいち色っぽい悪友に当てられて、ドギマギする。

 「でも、その可愛らしさは私だけが知っていればいいの。ねぇ、紬、大家君には私から言っておくわ。紬が困ってるって。だから、紬は大家君が接触してくる隙を少なくするよう、少し乱暴な言動を改めましょうね」

 「う……うん、そうだね。もう少し……気をつける」

 「そうよ、いつか素敵な恋をしたいんでしょう?  未来の恋人にどこで見られているか判らないわ。ちょっと、お淑やかに、ね?」

 母や大家の言っていることと、多分、内容は違わない。違わないんだけど、紗英は、どういう言い回しであれば私が言うことを聞くか、と言うことを一番よくわかっている。

 おにぎりが入っていた銀紙をクチャっと丸め、決意を込めて私は大きく頷いた。

 「そだね。どこに恋が転がってるか判らないもんね。私、もう少し女の子らしくしてみるよ!」

 私はおにぎり三個分の銀紙を一つに丸め、思いっきり振りかぶって、教室の隅にあるゴミ箱に投げ込んだ。


 見事、フォールインワン!


 クラスでちらほらと昼食を食べていたクラスメイトから、感心混じりの「お~」と言う声があがり悦に浸っていた私の横で、紗英はひっそりとため息をついていた。

 「少しってどの程度のことを言ってるのかしら、この子」


 夏休みに入った。

 幸い、この夏休みに補講はない。私は頑張った。

 でも、高二の夏休みなんて、塾の夏期講習でつぶれる毎日だ。

 ずっと続けていた陸上も一学期で終わっている。

 走ることはずっと好きだったけど、記録には結びつかなかった。


 静かに胸の底につもった澱を振り切るように、毎朝、早朝にジョギングだけを続けていた。


 朝の五時と言う時間は、少し特殊だ、と私は思う。

 静かで、冷ややかだ。


 昨日の夜中までまとわりつくようだった湿気をまとった空気も、この時ばかりは心地よい風に変わる気がする。


 たまにすれ違う新聞配達員さんと、犬の散歩の人。

 顔見知りに頭だけを垂れて、校名の入った青いジャージで走り続ける。


 折り返し地点として設定しているのは、三十分ほど走ったところにある教会だ。

 日本の墓地とは違う、どこか明るい雰囲気の漂うお洒落な墓石が並ぶ景色は、まるで日本ではないように感じられて、少し異世界じみていて、私のお気に入りの場所だった。


 墓地の端っこまで来たところで、持ってきたスポーツドリンクでのどを潤し、ストレッチをして体をほぐす。


 首に掛けていたタオルで汗を拭っているところで、私は、思いも寄らない姿を教会の扉に見いだし、驚いた。。


 「大家!」


 よくよく考えれば、私はそんなことを大声で叫ばずに、息を殺していればよかったのだ。

 だけど、あまりにも予想外だったために、ぽろっと口からこぼれ出た。

 静謐な空気をまとうその場に、私の大声は見事に響いた。


 大家は、あからさまにぎょっとして私を振り返ると、体を強ばらせて立ちすくんだ。


 あぁ、……奴が自分取り戻す前に、走って逃げてもいいだろうか?


 しかし、ふと、思ってしまったのだ。


 今日の私は、大家に注意されるようなことなど、何もしていない。逃げる必要などない、と。


 そう、ここは大人の態度をとり、大家を翻弄して、奴に私への苦手意識を植え付けるとともに、自分の優位性を自分自身で確認すべきだ、と。


 「おはよう。珍しいところで会うね」

 顔を背ける大家のところに、ゆっくりと歩み寄る。

 「そう……だな」

 大家は、かすれたような声で答えた。

 その弱気な態度に、私は狼狽える。


 あれ?  本当にこいつは大家?  それとも、風紀委員の看板がない奴は、本当はこんな男だったのか?


 「こんな時間に、どうしたの?」

 自分のことを棚に上げて、そう問いかけてみる。

 大家は相変わらず、私の方を決して見ない。

 フレームなしメガネから見える瞼が、赤く腫れぼったくなっているように見えた。

 「泣いて……いたの?!」

 それこそ、声に出すべきではなかっただろう。

 大家は大きく背を震わせて、完全に背中を向けてしまった。


 これはダメだ。

 そう、見ていてはダメな場面だ。

 奴がどんなにいやな奴であったとしても!

 混乱した私もまた、顔を背けた。


 このまま立ち去るべきなんだろうか、どうするのが正解なんだろう。

 私は少し迷った後で、そっと囁くように言った。

 「何も、見ていないから。……ここには、誰も来なかったから」

 大家が身じろぎする気配を感じたが、また、私は走り出していた。


 今回は逃げているわけではない。

 これは、武士の情けだ!


 いつもはゆっくり三十分掛けて走る距離を、今日は二十分強と言う驚異のスピードで走り抜ける。


 ぜーはー息を切らした私は、起きたばかりの母がトイレから出てくるところに、玄関で行きあった。


 「……どうしたの? 雨でも降ってきた?」

 母の不審そうな表情にも、何も応えることができない。酸素、いまは酸素がほしい。

 玄関で靴を脱ぎ這いあがったところで、廊下の冷たさに体が喜ぶ。寝転がったまま、起きあがることもできない。

 「……廊下、後で拭き掃除してね。汗でべたべたになるわ。シャワーの用意はしてあげるから、さっさと入ってちょうだい」

 こくこくと頷いてみせると、母は呆れた様なため息をついて、私を跨いでリビングへと入っていった。


 これでしばらくは誰も来ないだろう、と、私は仰向けになり、灰色の天井を見上げた。

 キッチンから、トントントンと言うリズミカルな包丁の音と、鼻孔をくすぐる味噌のにおいが漂ってくる。

 廊下の冷たさも、少し汚れた天井も、おいしそうな朝食の音やにおいも、全部日常だ。


 だったら、さっき見た光景は、本当に日常だったんだろうか?


 少し靄の残る教会の階段に、黒い服……、恐らく学生服を着てたたずむ大家。


 黒いさらさらの髪が、たまに差してくる陽光に照らされ、銀色に輝いていた。


 それは、私を怒鳴りつけてくる嫌みったらしい男にはとても思えず、何だか、異世界の敬虔な司祭のようであった。


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