冬満願~山城国・前編
【満願】神仏に日数を定めて祈願をかけ、その期限に達すること。
信長の怒りは凄まじく、巨椋池での一件のあと、京都では血の嵐が吹き荒れた。
三好星愴を仕留められなかった鬱憤を、手近な家臣たちに向け、また、星愴の間者と思しき者たちを次々と粛清していったのである。
「わたしたちに、八つ当たりされても困ります。待ちましょう、あの御仁のお頭が冷めるまで」
確かに約束はしたものの、気が変わって犬王丸の首まで狙われたら困る。
そこで桐峰は雅常の隠れ持つ家に、明那や初震姫たちと身を潜めることにした。しばらくはその隠宅と吉野を行ったり来たりして過ごした。
犬王丸と明那、その護衛の意味合いも兼ねて明榛を先に隠宅へと行かせた。
桐峰たちも遅れて合流したのだが、出迎えた明那が甲斐甲斐しく桐峰の世話をするのを見て、未だ彼らが夫婦という実感のない五鶯太は遅れた祝いの進物を差し出すと羨ましそうでもあった。
桐峰も明那も初震姫も五鶯太も、共に戦地を駆け巡った仲であり、初震姫と五鶯太とて、絆の深さからすれば夫婦となっておかしくないだろうに、この二人の間にはそうした気配が全く感じられないのだった。
「五鶯太、お代わりです!桐峰どのぐらい盛ってください」
「自分でやれ!て言うか食べ過ぎですよ初震さん!?」
もう、この先、自分は初震姫の小間使いとして一生を終えるのではないか。
そんな一抹の危惧を憶えないでもない五鶯太だった。
冬の京はしんしんと冷え込む。派手な吹雪はないが、気付くと足元から冷え冷えとした空気に包まれるのだ。
廂からどさっ、と積雪が落ちる音がする。桐峰の生まれ育った出雲は杵築の海風、吉野に降る雪、それらに比較しても寒さは勝るとも劣らない京洛の冬である。
更にはこの寒中に、信長の軍勢を借りて黒縄丸・三好星愴を討つ手筈となっている。
大金を投じて得た気に入りの小島を散々、荒らされた信長が、その首謀者たちをそのままにしておく筈がないのである。
人の気配がしない、と桐峰は思う。
本来なら賑わって然るべき都に、今感じるのはただ雪の気配だけである。
雪は寡黙にただただ降り積もる。
痛いほどの静寂。矛盾しているようだが饒舌な静寂。
今は昼間だと言うのに夜の気配を感じるのだ。
広廂にまで出た桐峰は、掌を伸べて落ちてくる雪を受け止めた。
それは瞬く間に桐峰自身の発する熱で融ける。
しかしまた、雪は降ってくる。桐峰の掌を埋めんとするかのような勢いで。
この異様な様はどうだ。
まるで人が雪と化したかのようだ。
今の洛中に主たるべきは人ではなく背後に闇を潜めた雪なのだ。
白い闇が大路を闊歩している。
桐峰はそんな風に感じる己を、あながち埒外でもないと考える。
「信長公に文を?」
「はい、そろそろあのお方も我を取り戻したでしょう。お願いできますか。二条御新造まで」
巨椋池に浮かぶ信長自慢の中州は惨憺たる有り様になった。恰好の隠れ家を失った信長は、今は二条御新造に住まっている。
初震姫から文を受け取った桐峰は、雪の積もる中を草鞋で歩み出した。
七条にある雅常の隠宅から二条御新造まで、遠い距離ではない。
桐峰は傘を差し、佩刀して懐には信長への文を収め、雪中をゆく。浄衣を着た姿は雪景色に紛れそうだ。
鈍色の曇天から雪は途絶えることなく降ってくる。
二条御新造は室町・御池・烏丸・二条の各通りに面する壮大な建物であったとされている。自分のように名も無き者が訪問したところで通してくれるものかと、桐峰は不安を覚えたが、名前と用向きを門番に告げるとすぐに控えの間に通された。一応、信長に名を憶えられているらしい。信長の私室と思しき部屋からは気のせいか微かに血の臭いがした。
さて気に入りの棲家を台無しにされた信長は三好の一族を根絶やしにすると言って息巻いていた。
魔王の怒りは当分、収まりそうにない。
自らも二条御新造から生きて戻れるか、と、桐峰が危惧した程である。
「主が使いか。初震に良い様に使われておるでや」
「血の臭いが致しますな」
信長の揶揄に取り合わず、桐峰はさらりと嗅覚に訴えたものを述べた。
信長は信長でそれに対し一瞬だけにやり、と笑ってまた元の仏頂面に戻ると、初震姫からの文を開いた。
信長に初震姫からの文を渡したは良いものの、当の信長はその文を目を眇めて一瞥した揚句、燭台の明かりで燃やしてしまった。
「目通りの願い、初震には承知、と伝えい」
未だ不機嫌極まりない顔ながらそれだけは信長は約して、桐峰はほう、と安堵の息を吐いて二条御新造を出た。
雪は変わらず降り続いている。
数日前には蒼褪めた光に包まれた腸、赤色の彗星があった。
三好星愴と音ノ瀬多香子、そして黒縄丸。
彼らがこの異常に関与していない訳はない、と桐峰も感じている。
明くる日、桐峰は初震姫、五鶯太と同道して二条御新造に再び向かった。
信長の部屋に入った途端、前回の比でない血臭がむっと押し寄せた。
見れば両頬から五寸釘を噛まされた生首が何とも無造作にころり、と転がっている。
三好星愴が阿波の三好笑厳の元に送ろうとした使者だと言う。
信長は三好に連なる者を片っ端から殺戮する積りのようだ。
部屋には形ばかりの宴席が設えられていたが、五鶯太は食欲が失せた。片や、桐峰と初震姫は構わずに黙々と食べている。
信長はその間も喚き続ける。
「うつけめッ、聞いておるのかや初震ッ!」
聴いていない。
それは桐峰の目から見ても一目瞭然である。
初震姫は凡そのことよりも食を優先する。
いわんや怒り狂う魔王においてをや、である。いや、常人であればここは魔王の怒りにひたすら平身低頭し、食事どころでないのであろうが、今の初震姫にとって、魔王は駄々っ子に等しき存在なのである。
等々と、我関せずと観察しつつも箸を休めないのがまた桐峰でもあった。要はこの二人、こと食において類が友を呼んだと言えるのである。
ようやく食の小休止に入った初震姫は三好笑巌の件を挙げ、信長を鎮まらせた。
このあたりの人心掌握術は桐峰の関心するところである。
「問題は再び三好の衆を、結託させてしまうことです」
長曾我部元親の存在は、今では三好にとって阿波の本拠を脅かす相手となる。つまり現状、その怯えを星愴に良い様に煽られ、また、嘗ての京の覇者であった頃の栄光を突かれ、信長に牙を剥く可能性もある。実際に牙を剥いた松永弾正を滅ぼしたは良いが、続いて三好の謀反ともなれば、京洛における信長の体面に大いに関わる。朝廷の公家たちこそは京に長く居座る狐狸妖怪の類なのであった。
合理主義者である信長の怜悧な頭脳は速やかに初震姫の言を「是」と判断した。
「我が織田家の総力挙げて、星愴を弑せん」
時に激情に流されることあれど、要所におけるこうした英断振りが信長をして天下人たらしめた、と言える。
「さすがは信長公です。されど」
「苦しゅうない。申せ」
「この王都でみだりに大軍を動かしたとなれば、御家の名折れになりましょう」
更に初震姫は京に信長配下、寡兵であることを遠慮なく指摘した。
その点は、桐峰も危惧していたところであるが、申せと言われただけで遠慮なくずけずけと信長の弱味を本当に言ってしまう初震姫の豪胆にはやや、驚かされた。桐峰も豪胆なほうではあるが、どうにも対する相手に譲歩しがちなところがある。それに比べて初震姫は桐峰以上に男勝りと言っても過言ではないかもしれない。
事実、信長は苦渋の顔つきになった。
天正七(1579)年は柴田勝家や明智光秀を始めとした織田家主力軍が日本各地に散在している時期であった。信長の子息・信孝、信雄が伊勢にいるのみである。
「信孝様、信雄様は軍備に時間がかかり過ぎましょう」
「ちょっと待て、お前、なぜそこまで知っておる?」
信長の胡乱な眼差しを、初震姫は一顧だにしなかった。
「この初震がどうにか致しましょう。矢銭のご用意は、ございますね?」
問うまでもないことだった。
京の公家が信長を重用して表面上、持て囃したのにも、信長の財力が大きくものを言っていた。
当然のごとく胸を張り首肯した信長に、初震姫は武器弾薬調達を請け負ったのだった。
(まさか…)
桐峰の脳裏に、一人の面影が浮かんだ。
信長との会見の後、二条御新造を出て歩いていた初震姫が言った。
「桐峰どの。わたしは所用がありますのでここで分かれます」
「ああ。気をつけて」
五条のあたりで唐突に言った初震姫に対し、桐峰はごく自然に応じた。初震姫の我が道をゆく性分が呑み込めるくらいには行動を共にしてきた。
初震姫と五鶯太の背中を見送り、桐峰は雅常邸へ足を進めた。
それにしても往来の人が少ない。嘗て荒廃したとは言え、これでも花の都である。だが桐峰は雅常の邸を出てからごく僅かな人数としかすれ違っていない。牛車は影すら見えない。一瞬、桐峰は、己が無人となった空の都を歩いている錯覚に陥った。
そんな桐峰に声を掛けた意外な人物があった。
「おや。見知った顔じゃな」
音ノ瀬多香子である。打掛を重ね着し、目もあやな艶やかさで佇む多香子は、ほぼ無人の通りの中、異彩を放つ花のようであった。
しかし多香子は一人ではなかった。
彼女の後ろには、七尺(約二メートル強)を超えているだろうという大男たちが付き従っていた。
長身の桐峰よりもまだだいぶ上背がある。上だけでなく胴などもかなり厚みがあり、全身が筋肉で覆われている様が窺える。何より桐峰を驚かせたのは、彼らの顔は一人で二つ、手足も一人で二人分ついていたことである。
肌は灰色で古代の鎧を纏う彼らが黙々と多香子のあとに並ぶ光景は圧巻だった。この古代の鎧は短甲と言い、鉄板を横矧とし、鋲や組紐、革等で綴じ合わせた物である。ほとんどが鉄板を組み合わせて作ったようだが稀に金銅板を併用したらしい。鉄板の組み合わせの原理によって、竪矧式と横矧式とに大別し、組み合わせに革紐を用いるか、鉄鋲を用いるかによって、革綴式と鋲留式とに分ける。日本では竪矧式は革綴に限り、横矧式には革綴と鋲留との両者がある。
何にせよ今時の甲冑を見慣れている桐峰には新鮮にも映る古風な出で立ちだった。
「ふうむ。よう見ればそなた、端正な面をしておるな。どうじゃ?雅常などに肩入れするのはやめてわたくしに就かぬか?悪いようにはせぬぞ」
つつぅ、と多香子の白い手が桐峰の顎のあたりを撫でる。
桐峰はその手をやんわり退けた。
「生憎と俺には妻がいる。…その化け物たちは何だ」
端から戯れだったのであろう、すげない桐峰の返事にも、多香子は含み笑いするだけだった。
「化け物とは言うてくれるな。両面宿儺であるぞ?」
両面宿儺とは仁徳天皇の時代に現れたとされる異形の鬼神である。
凶賊として討たれたなど諸説あるが、まさか多香子は眠れる鬼神をコトノハで起こしたというのか。
「……それ程、雅常どのを恨んでいるか」
きっ、と多香子の切れ長の眼が桐峰を睨む。
「言うまでもないわ。そなたはこれと決めた女子と難無く結ばれたゆえ、わたくしの無念も解らぬのじゃ」
「雅常どのはそのような御仁ではない。…おかしいと感じたことはないのか。そなたの恋が破れるまで、雅常どのは変わらず、多香子どの、そなたと親しく接していた筈だ。突如、そんなそなたの恋路を邪魔立てする理由がどこにある?落ち着いて理を考えれば解るであろう」
この桐峰の言葉に、多香子が目を彷徨わせた。
「…黙れ。星愴とて、わたくしの言い分を認めておる」
「雅常どのよりあんな生臭坊主の言葉を信じるのか。雅常どののコトノハより、星愴のコトノハのほうに信が置けるのか」
「―――――――そなたのコトノハは煩わしいばかりじゃ」
顔を歪めた多香子は桐峰から視線を外し、両面宿儺にコトノハを処方した。
「ゆくぞ。従」
コトノハを処方された両面宿儺らを従え、多香子が大路を闊歩する様は、桐峰に百鬼夜行を連想させた。
雪はまだ止みそうにない。
果たして桐峰の予想は違わず、初震姫はすぐに堺へと発った。
女海賊・夷空と交渉する為である。
初震姫はそこで武器弾薬、倭寇たちを集めるよう、信長からせしめた軍資金と引き換えに夷空に依頼したのだ。
夷空自身も雇い入れ、初震姫は京に帰着した。
晦日が近づくにつれて、京の町に異変が起こり始めた。
底冷え、と呼ばれるほどの冷えが鳴りを潜めたのだ。
降り続けた雪は止み、それどころかむっとした暑さが空気に入り混じり始めた。
初震姫と五鶯太は堺からまだ戻らない。
この頃には桐峰たちは既に雅常邸に居を移していた。
桐峰は雅常、明榛とともに顔を突き合わせ、異常気象の問題について話し合った。数日前までは欠かせなかった火鉢が、今では部屋の隅に追い遣られている。桐峰は襟元を寛げ額の汗を拭った。背中にも汗をかいている。これは尋常ではない。
「多香子や星愴が関わっておらぬとは思えぬ」
雅常は苦渋の表情でそう断じる。それは桐峰にも、明榛にも予想がついたことだった。
急な気温変化に、三人は着る物の生地を変えたりなどして対応せねばならなかった。
「音ノ瀬多香子か。妖艶な佳人であったが、さても恨まれたものだな、雅常どの」
明榛がからかうように流し目で雅常を見遣る。
唇左下の黒子と相混じり、そうすると独特の色香が出た。
雅常は嘆息する。
「一度こうと思い込んだらあれの思い込みを覆すは難しい。そもそもは素直な気性の女子であったのだがな」
その時、部屋の隅にいた明那が口を開いた。
「でもうち、あのおひいさんがなんや可哀そう…」
男たち三人の視線が明那に集中した。
「だって好きな男に嫌われてもうて、この京都を地獄に叩き落としたいくらい、全てが憎いんやろ?雅常さんのことも憎いんやろ?憎いって心は、毒やてうちは思う。毒を飲み続けるんは、しんどいで……」
それは女である明那であるからこその発言かもしれない。
桐峰らは互いに顔を見合わせ沈黙した。
埒外にも季節外れの蝉が鳴き始めても、彼らは黙考していた。
一人の哀れなコトノハ使いの女のことを。
寝苦しさに、明榛は目を覚ました。
隣の褥の犬王丸を見れば健やかに寝ている。その健やかさに安堵する。
塗籠(寝室・納戸として用いる)を出て広廂に出れば、僅かな夜風が心地好い。冬とは思えぬ感覚だが、明榛はそれがこの魔都なのだと割り切ることにした。通常の感覚で測ってはならないのだ。
黒く塗り潰された夜闇に、つい先日までは雪の白が浮いて見えたものを。
と、そこに淡い光が一つ、宙を浮遊しながら明榛の前まで来た。
まさかこの季節に蛍だろうか。いくら気温が高いとは言え。
それは正確には蛍ではなかった。
明榛の愛しい魂だった。
光は徐々に大きくなり、やがて人の形を成す。
「奈可どの」
今は亡き人の微笑に、明榛の胸が疼く。
「奈可どの…。何ゆえ自害されたのです。生きてさえいてくだされば、私はそれだけでも良かったものを」
口を突いて出たのは、自分でも女々しいと感じる恨み言だった。
この時代、夫君に殉じて死ぬ女性を称えこそすれ、責める謂れなどどこにもないのだ。
「明榛様…。わたくしは生きて貴方様と添いとうございました。けれどそれは夜露のごとく儚き夢でございました。雅常どののコトノハを服用せぬ道もございました。明榛様。されどわたくしは服用する道を選んだのでございます。天下安寧の為と思い…」
明榛がぐっ、と奥歯を噛み締める。
その安寧も、今や風前の灯なのだ。
「音ノ瀬多香子どのはわたくしとは違います。あの方は意に沿わぬコトノハに運命を翻弄され、恋を失われたのです。どうぞ多香子どのをお救いくださいませ」
「………」
「明榛様」
「確約は出来ぬ。まずは若君の御身こそ大事。されど、心には留めておきまする」
奈可姫はほう、とした安堵の息を吐くと、次第にその姿を薄れさせ、やがて消えた。
明榛が伸ばした手は空しく宙を掻いただけだった。
あとにはじっとりとした夜闇だけが残った。
数日後、夷空を伴い、初震姫と五鶯太が京に戻った。
その頃にはもう、京は真夏の様相を呈していた。
それもからりとした暑さではなく、どろりとして濁ったような油照り。
身体の随所に纏わりつくような猛烈な暑気である。
空には紫色の雲が垂れ込め、いかにも陰鬱であった。
「暑いですね…」
初震姫が半目で空を仰ぐ。
雅常邸でも桐峰たちが空を見ていた。
「こうしていると、やがて大雨が降ります」
雅常の言葉は的中した。暗雲が立ち込め、苛烈な雨が天より降り注いだのだ。轟音とともに稲光がいつ果てるとも知れず迸った。
「何が起きておるでや」
魔王信長もさすがに薄気味悪くなったようだ。不快そうな色を隠さない。
初震姫はいつもの軽口を言わなかった。
ただ一言、呟いた。
「こうなると、すでに遅かったやもしれません」
含み笑いも軽口もない、そんな初震姫の面持ちこそが、事の重大さを物語っているではないか?この暑気の中、五鶯太の背筋を冷たい汗が伝い降りた。
大雨が去ると暑気に刺すような冷気が入り混じり、人の臓腑を掻き回すかのような夕闇が現れ、逢魔が時に差し掛かった頃。
京の大路を異様な軍勢が行進していた。
先程までの気候にも匹敵する異様さの、その軍勢は巨躯の兵士たちの群れであった。
その背、およそ七尺を越えた大男たちが集っているのだ。
肌は灰色にくすみ、へしゃげている。特筆すべきは一人で二人分の顔と手足を持っていたことだ。短甲の鎧がかちゃりかちゃりと鳴る音が、まるで死出の楽想のように響く。
「両面宿儺だ」
桐峰が呻くように呟く。
「この両面宿儺を封じたのは、音ノ瀬の一族らしいのだ」
桐峰は雅常から聴いた話を語った。
「最早、本家の古老も知る者の少ない、旧い言い伝えだ。仁徳六十五年、武振熊率いる討伐隊の中に、卜占師として我ら、音ノ瀬の遠祖が参加していた、と」
その時、両面宿儺を封じたとされるコトノハは、後代の音ノ瀬当主よりどこかに秘蔵された。
「両面宿儺を連れた多香子に私は遭った。だが、まさか軍勢にするほどに、あの化け物がいたとは」
化け物の群れは凡そ二百。大剣二本に強弓を携えたこの化け物は、一体で四人分の働きはするだろう。
それを想像すると五鶯太などは足が震えた。
異形の軍勢は鳥辺山に向かった。その山のはるか上には凶星が輝いている。
星愴の居所はそこであろうと思われた。
「こうしてはおれぬ。あの化け物もろとも、鳥辺山を焼き討ちだでや。馬廻りの者どもを集めいッ!初震、己も出ぬとは言わさぬぞッ!」
信長は吼えると馬に鞭打って自ら先頭に立った。
何せ信長である。
相手が異形であれ、いや、異形であればこそ、先手必勝を仕掛ける腹積もりなのだ。
「我々はどうする」
桐峰の問いに初震姫は即答する。
「無論、出ます」
初震姫の言い分はこうだ。
織田の軍勢には夷空率いる傭兵部隊がいる。
自分たちは搦め手から、鳥辺山の三好星愴の首を一気に狙う。
二手に分かれて敵を仕留めようと言う初震姫は、武将並みの過激さだ。信長とさえ、競えるであろう鬼気迫るものが初震姫にはあった。
神懸かりのようだなと桐峰は思う。
そして懐かしい耳川の合戦を思い出したのだった。
今まさに、自分たちは再び、共に戦場を駆けようとしている。
桐峰は雅常邸へと急いだ。
初震姫の差配である。
雅常が今、両面宿儺を封じるコトノハを、古記録を遡り捜しているというのだ。
両面宿儺を目覚めさせるコトノハを多香子が処方したのなら、封じるコトノハも必ず存在する筈。
初震姫の推測は穿ったものだった。
(必ずやコトノハを見つけ、雅常どのと駆け付けねば)
初震姫は言った。
「ここが鍔際です」
信長の軍勢、兵五百に加え、夷空率いる倭寇鉄砲隊がいる。五鶯太の馬には初震姫も同乗した。
鳥辺野に向かう初震姫たちの目には目視し難いものが映っていた。
それは蘇った死人の群れ。
腐り落ちた皮膚を引き摺る者、片腕が骨だけになっている者、上半身がない者もある。
それらは血と死臭、腐臭を振り撒きながらいずこへ行くともなく彷徨っている。
外の騒ぎに邸を出た桐峰は目を見張った。
まず、雅常邸の門柱に噛りつく鬼がいるのである。
頬はこけ落ち、四肢は枯れ枝のように細く、腹が異様に膨れている。
餓鬼である。
道々にも餓鬼たちは溢れ、生者を見れば襲いかかりこれにむしゃぶりついている。
血と涎と肉が飛び散る。
まさに阿鼻叫喚の地獄絵図。
桐峰は堪らず、丹生で餓鬼の数匹を斬った。
けれど斬っても斬っても餓鬼は湧いて出る。桐峰に斬られた彼らは恨めしそうな目をぼとり、と地面に落とすと奇声を上げて消滅する。
しかし無数に湧いて出るそれらにきりがない。死者の群れも同じく。
或いはこの地獄絵図を打開するコトノハもないものか、と桐峰は頭の隅で考えた。
京洛は、地獄に堕ちた――――――――。
「小野桐峰。相も変わらぬ間抜け面よの」
高笑いとともに響いた高飛車な物言いに、桐峰は憶えがあった。
金糸の刺繍を施された小袖をしどけなく着崩し、手には朱塗りの半弓を構える。
化粧も念入りに施されたその顔は、忘れもしない、桐峰が斬った筈の橋姫だった。
しかしよくよく見るとその顔は蒼褪め、生きている人間のそれではないと知れる。
観察する間もなく、矢が桐峰目がけて飛来する。
咄嗟に刀で打ち落としたものの、数本が桐峰の身体を掠めた。
橋姫は、また、笑う。
美しい化粧が剥がれ落ち、橋姫の口から幾筋もの血の流れが伝い落ちた。
周りに集う餓鬼たちが、やんややんやと囃し立て、橋姫を援護するかのようだ。
桐峰は丹生を構えて橋姫に迫った。
刺突―――――――。
けれど橋姫は僅かに苦しげな様子を見せたものの、ぐふりと不気味な笑いを洩らすと、己を刺し貫く丹生の刃を掴んで見せたのだ。
確実に致命傷である斬撃に、橋姫は血の涙を流しながら笑っている。
「く…っ」
橋姫に通常では考えられない怪力で丹生を掴まれて、桐峰は身動きが取れない。
そんな桐峰にひょいと餓鬼の一匹が飛びつき、桐峰の肩に歯を当てた。
これには桐峰も堪らず、丹生を手放しそうになった時。
ひゅんひゅん、と風切り音が聴こえ、桐峰を苦境に立たせている橋姫と餓鬼の双方に矢が突き刺さった。
桐峰が素早く橋姫から間合いを取り、振り返ると雅常邸の門の真正面に、まるで邸の守り人の如く弭槍を構えた犬王丸が立っていた。
凛然としたその姿は、確かに京の覇者であった三好の嫡男に相応しいものだったのである。
「えやああっ」
犬王丸は気合とともに弭槍の上部の槍の部分を橋姫に突き立てた。
が、敵もさるもので、再び橋姫は足に刺された弭弓を掴み、あろうことか犬王丸に喰らいつこうとしたのである。まるで橋姫自身が餓鬼となったような在り様だ。
桐峰は犬王丸の襟首を掴んで引き寄せ、一端、門前まで退却した。
そこで明榛が血相を変えて邸内から出てきた。
「若君っ。無茶をなさる……!」
明榛は眼前の状況からあらかたの事情を察したようで悲愴な声を上げた。
「大事ありません。師匠、見ていてくださいましたか」
「ああ。ああ。よくやった、犬王丸。しかし危なかったぞ」
桐峰は誇らしげな表情の犬王丸を褒め、且つさりげなく諌めた。
明榛の後ろから、雅常も出てきた。
元来が公家育ちの雅常だ。往来の惨状を見て眉をひそめている。
「酷い有り様だな…」
雅常はしかし次の瞬間には平生の面立ちに戻るとコトノハを処方した。
「風塵」
雅常のコトノハの効能は顕著だった。
道々に毒の花のように沸いていた餓鬼たち、蘇っていた橋姫含む死者たちが、まさに風の前の塵のようになって消え去ったのである。
あとには腐臭や腐り落ちた肉塊などが残った。
一人立ち、残る女の名を雅常が呼んだ。
「多香子…」
両面宿儺を引き連れ、鳥辺山へと向かったのではなかったのか。
雅常の仔細をその目で検分する為に戻ったのか。
果たして多香子は柳眉をひそめ、口元を打掛で覆い言ってのけた。
「惨いことをするものよの」
「…一度は眠りし死者を再び起こすほうが惨いのではないか。桐峰どのも私も、彼らに為せるべきことを為したまで」
「さような詭弁でわたくしの恋も潰したかや」
「あんた、もう大概にせえや」
雅常の邸から出てきた明那が叫ぶと、多香子の不興げな有り様が増した。
「なんじゃ、小娘。そなたのごときが口を出す筋合いではないわ」
「多香子さん。あんたは可哀そうな人やな。一度は好いた男諸共、都を滅ぼそうてしてる。悲しい人や……。そないなことしても、いっこも幸せにはならへんのに」
明那の言葉に多香子が顔色を変えた。
多香子はしばらく明那を睨みつけると、コトノハを処方することもなく身を翻した。
「雅常様。鳥辺山でお待ちしておりますぞ」
道々に転がる肉塊をもものともせず、多香子は鳥辺山の方角へと去った。
鳥辺山でまた新たなる禍つコトノハが処方されるのだ。桐峰は戦慄した。
「雅常どの。両面宿儺を封じるコトノハは…」
雅常が雅やかに微笑する。
「見つかった。あれを唱えられるは私しかおるまい。そして桐峰どの。貴殿の竜笛の力、その際には必要なのだ」
桐峰は迷わず首肯した。
「是非もない」
多香子に利用される哀れな魂を、再び眠らせてやらねばならない。