秋残炎~山城国
【残炎】秋になっても残る暑さ
錦秋の山城国――――京都において、殿上人たちの間で噂になっている女がいた。
傾国の美女もかくや、という女で、それより何より、女の発する言葉を聴けばたちまちにして彼女の虜となり、言いなりになってしまうというものであった。
その女・音ノ瀬多香子は悠然と脇息にもたれ掛かり、骨抜きにした男の一人が必死に己を掻き口説く言葉を欠伸混じりに聞き流していた。
打掛は蘇芳の、紅葉柄の物を纏っている。
(つまらぬコトノハじゃ)
貴族の一人に宛がわれた邸で、多香子は贅の極みを尽くした暮らしをしていた。
「多香子様。神祇官から御使者が参っております」
「またかえ。追い返しや」
朝廷の祭祀を司る神祇官には、多香子と同じ音ノ瀬の人間がいる。
言葉の意味と音色・コトノハを操る音ノ瀬一族本家の者が。
音ノ瀬一族は昔から連綿としてコトノハの力を操ってきた。
彼らは多香子がコトノハを濫用しているのを前々から咎め立てて煩いのだ。
(使えるものを使うて何が悪い)
金襴の打掛も香も、海老の舟盛、鯉の煎物、鶴煎物、種々の唐菓子などの品もコトノハを用いれば容易に手に入れることが出来る。
「多香子は存念を変えぬか…」
京洛の寝殿造の邸で、音ノ瀬家当主・音ノ瀬雅常は嘆息を洩らした。
些か癇が強そうだが如何にも端整な面の、柳眉をひそめる。
使い方次第で良薬にも毒薬にもなるコトノハは、恣意的に使用するものではない。
音ノ瀬の子供らは皆、そう言い聞かされて育つのだが、それでも欲に走る者はいる。
一族の当主であろうと完全にはそれを止められぬのが、人間というものの厄介さであった。
「多香子の放埓な振る舞いは私への当てつけでもある。あの女は昔の恋が破れたことを私の差し金と思うているのだ。事実は私の与り知らぬところで一族の者がやったことなのだが」
「何ゆえ、そのようなことを」
「その者は私の叔父でな。己が政界に出られぬことで、私を逆恨みしておったのだよ」
「…ご苦労が絶えぬな」
高麗端の畳ではなく、板張りの上の円座に座した桐峰が雅常に同情の念の籠った声を掛けた。京に住まう雅常と、出雲、大和が本拠地であった桐峰が知り合ったのは、先の吉野山における斃れ牛の一件がきっかけだった。
斃れ牛を出した、吉野に遊山に来ていた公家衆の中に、音ノ瀬一族の者もいた。
元来、律儀な性分である雅常は、礼状を桐峰に送ったところ、桐峰は京に向けて旅立ったと知らされた。元は御師で、今は牛馬解体の部落に住まうという桐峰に興味も抱いていた雅常は、一族の伝手を辿り、在京の桐峰と繋ぎを取って自邸に滞在させるに至ったのだ。
桐峰は単身ではなく、その妻である明那と犬王丸、明榛も同伴していた。
雅常は彼ら皆を快く邸に迎えたのである。
「しかし桐峰どの。何ゆえ、京に参られた?織田信長の追手から逃れる為であれば、京は危なかろう。三好の遺児を囲うておるなら尚更だ」
「信長公と、取引が出来ればと思うてな。懐に飛び込むのもまた、策の内だ」
ひっそりと笑う桐峰が、相当の剣の腕前の持ち主であることを、雅常は知っている。
それは明榛にしても言えることだ。
「二条御新造に参られるのか?」
信長が京における滞在場所としている邸である。
夏に改修が終わった。
「うむ」
「……くれぐれも気をつけられよ。何やら阿波三好家の動きも不穏であるし」
「不穏とは?」
「三好星愴という怪僧が信長から京の覇権を取り返そうとしていると」
「三好星愴…。三好家と繋がりがあるのか?」
「本人は名将・三好実休の子と自称しているようだがな」
御簾を揺らしながら、秋の風が吹き込んでくる。
その風に桐峰は、不穏なものを感じた。
「…奈可姫様には悪いことをした」
「どういう意味だ?」
「あの方が足利将軍家と三好家の鎹となる為、政略の道具として三好家に嫁いだのは、私のコトノハによる所為だ。当時、奈可姫様には想う男がいたらしいのだが、それをコトノハで無理に説き伏せた。そうした結果、あの方は三好義継と共に自害された…。京洛の為と思って為したことだが、思えば罪なことをしたものよ…」
奈可姫の霊魂が涙を流し、明榛を止めたことを桐峰は思い出す。
やはり奈可姫と明榛は恋仲であったのか。
桐峰の心中は複雑であった。
そしてそうなればいよいよ、犬王丸の父が誰かという疑惑が、頭をもたげてくるのである。
「三好星愴…?」
唐菓子の団喜を齧りながら多香子が問い返す。
団喜とは餡を包まない饅頭のような菓子であり、多香子はそれを三つも四つも平らげていた。
「そう申す者が目通りを願い出ております」
「何者じゃ」
それが…、と女房が言い淀む。
「得体の知れぬ僧でございます。右目が赤うて、大層、不気味な形をしております」
「ほ、それは面白い。よかろ、会おう」
「よろしいのですか多香子様…っ」
「構わぬ、東対に通しておけ」
多香子は夕刻になるまで対面を焦らしに焦らした。
男相手にはよく使う手である。
(成る程。異相じゃな)
女房の言った通り、右目は炯々として赤く、禿頭で身に纏う墨染め衣もどこか赤黒い。体格はがっしりとしていて、肌は赤銅色に焼けている。並の女では怖じるところを、多香子は恐れ知らずに、星僧の風体をつくづくと眺めた。
星愴は大人しく多香子の目に晒されるままになっている。
「して、わたくしに何用じゃ?」
「星の尼御前が散り申した」
「何?」
男の突飛な発言に、多香子は呆気に取られた。
この男はもしや気でも触れているのではあるまいか。
「先の大友と島津の戦・耳川の戦いで、星より我ら同胞を呼ぼうとしておられた尊い御方が、初震姫と申す歩き巫女と、小野桐峰と申す御師によりその尊い志を打ち砕かれ、御落命された由」
「それとわたくしに何の関わりがあるかや」
「小野桐峰、この洛中に参っており申す。多香子どののコトノハとやら申す不思議の力を以て、彼の男を討っていただきたい」
「切」
多香子がコトノハを処方すると、星愴の右頬が切れた。
「それをしてわたくしに何の得がある」
高慢な多香子の物言いに、星愴はべたりと唇に己が血を塗りつけながら答える。
さながらそれは血の紅であった。
「血を好まれるお姫様。星を呼び寄せる夢を共に見とうはござらんか。狂騒を呼ぶコトノハを、拙僧にご披露してくださらんか」
「………何じゃと?」
「赤い雲が押し寄せ、吾輩の同胞共が降りて人の世を惑乱する。その、在り様を見とうはござらんか?阿鼻叫喚の、絢爛たる地獄絵図を」
「――――――面白い」
多香子の瞳がぎらりと光った。
「星愴とやら。実に面白きコトノハじゃ。相解った。小野桐峰とやら、コトノハの餌食にしてくれようぞ」
星愴に部屋を宛がったのち、多香子は一人、朱塗りの盃を傾けていた。
思い出すのは遠い日―――――自分がまだ小娘だった頃の話だ。
日頃は記憶の海に沈めているのに、今日は浮かび上がる思い出がある。
星愴のコトノハに影響されたのか。
あの激烈なコトノハに、初心な時代を思い出すのも面妖な話ではあった。
あれも秋だった。
宮中に女房として出仕していた多香子は、涼しげな風貌の若い公達に心を奪われた。
しかし身分に差があり過ぎた。
相手は内大臣の令息だったのだ。
悩んだ末に多香子は、コトノハの力を用いることにした。
叶わぬ筈の恋を成就させるコトノハは、しかしたった一句がすり替えられた為、相手には届かず、多香子の恋は叶わなかった。
内大臣の令息が通る広廂の傍の御簾の内から、時を見計らって多香子はコトノハを処方した。
〝恋ひしき吾が背 なぞ振り向かざらん 紅匂う紅葉の如き心に〟
そう、コトノハを処方する筈だった。
だが〝なぞ振り向かざらん〟に被せて〝なぞ振り向かん〟というコトノハが覆い被せられた。
これでは恋の成就とは逆を望む意味になる。
「恋しい貴方。どうして振り向くことがあろうか、いや、ない。紅の美しい紅葉のような心に」
多香子の渾身のコトノハが、無残にひっくり返されてしまったのだ。
内大臣の息子は不快な音を聴いたとでも言いたげな表情で御簾の前を通り過ぎて行った。
「さすがは京の都だな」
蒸し鮑、魬の切り身、茄子と瓜の香の物、茹でわかめ、蕪の羹物などに唐菓子や酒の並んだ夕餉を見て、桐峰が唸った。
尤もそれに同意したのは明那だけで、犬王丸と明榛にはそう珍しい食事でもないようだ。
「音ノ瀬家は栄えているようだな」
そう評する明榛の言に皮肉を感じるのは、奈可姫と引き裂かれた恨みがあるからか、と桐峰は推し量った。
音ノ瀬の一族が使うコトノハという力に、そこまでの効能があるとしたら脅威だとも思う。濫用すれば権力を恣に出来る。
「音ノ瀬多香子とやらが邪心を抱いたままなら、早晩、天下の乱れる元となろう」
口に盃を運びながら明榛が続ける。
「コトノハとは摩訶不思議な力なのだな」
実際にその効力の程を目にしたことのない桐峰には今一つその力が測り兼ねた。
明那と犬王丸が先に寝所に出向いた頃合いを見計らって、桐峰は明榛に切り出した。
「明榛どの。そろそろ腹蔵ないところを聴いておきたいのだが」
「何だ」
明榛は桐峰の問いを推測した様子で応じる。
「雅常どのが言っておられた、奈可姫と恋仲であった男とは、貴殿だな?」
「………」
「そして犬王丸の父親も――――――」
「そこまでだ、桐峰。それ以上は口に出すな」
明榛の制止に、桐峰は己の推測が当たっていたことを知る。
「私の名は足利明榛。室町は足利将軍家の分家の者だ。奈可殿とは幼馴染みだった」
片や足利本家の姫、片や傍流と言えど、幼い子らの交わりには周囲の大人たちも寛容だった。しかしそれは二人が年頃になるまでの話だった。
奈可姫と三好義継の縁談が持ち上がった時、奈可姫は泣いて明榛に懇願した。
〝私を連れて逃げてください〟
しかし音ノ瀬雅常がコトノハの力を用い、二人の仲を阻んだ。
〝伏してお願い申し上げまする。その恋を忘れ、三好家に嫁いでくだされ〟
処方されたのはごく率直で、しかし強いコトノハだった。
恋を忘れることは出来なかったが、奈可姫は義継に嫁ぎ、しばらくして懐妊が判った。
「……桐峰。何も言うてくれるな。特に若君には」
「――――――承知」
「それより、音ノ瀬多香子もだが、三好星愴という曲者の動きも油断ならんぞ」
「雅常殿も言っていたな。三好実休の子だとか」
「三好実休の御落胤。らしいな。明の女と実休の間に生まれた異端児で、目に天より降ってきた赤い石を埋め込んでいるとか。お主が斬った九品とも関わりがあったようだ。先頃から放っていた細作の調べによると、どうも今、京にいるらしい」
その天より降ってきた赤い石、という件で、桐峰は赤震尼を連想した。
恐らく赤震尼を生んだと同じ石のことだろう。
「信長から京の覇権を取り返そうとしていると聴いたが真か」
「そうらしい。と、すれば信長の敵。敵の敵は味方となれば良いがな。ああ、信長は今、二条御新造にはおらんらしいぞ」
「何?」
「何でも巨椋池の中州に隠密裏に構える別荘があり、今はそちらに在するとか」
その隠密裏の情報を、知り得る明榛の耳目となる細作は余程優秀らしい。
「では明日は巨椋池くんだりか」
「そうなるな」
寝所は桐峰と明那、明榛と犬王丸の二部屋に分かれていた。
と言っても二組の境を壁代で隔てただけなので、互いの動きや物音は判る。
犬王丸はもう寝ていたが、明那はまだ起きていた。
勾欄の近くまで寄り、月を観ている。
「明那。起きていたのか」
「うん…。なあ、また何か危ないことになるん?」
明那の懸念顔に、桐峰は申し訳ない気持ちになる。
どうも騒動に巻き込まれやすい己の性分が、明那をも引き摺り込んでいる気がするのだ。
「明日、信長公に目通り願うことになった。手筈は雅常殿が整えてくれる」
「………」
今や天下に覇を唱えようとする信長に逢うことがどれだけ危険な賭けか、解らない明那ではない。
「それが犬王丸の為になることなんやったらしゃあないな」
明那が、犬王丸が寝ている方を振り返って言う。
慈愛に満ちた口調だった。彼の世話を焼く内に、母親のような情が湧いたのかもしれない。
その柔らかな表情を見ていると、桐峰の胸も和んだ。
「うちらもいつかあんな子供を持つんやろか」
明那が少し俯いて言う。明那は自分と添うた為に家から勘当された桐峰に、自責の念を抱いている。せめて子が出来れば、桐峰の家にも面目が立つのに、と密かに思っていた。
「明那と俺は共白髪だ。先は長い。きっと子も生まれる」
「ん……」
正面を向いた明那に、桐峰は月光の下、口づけた。
明くる日、夜も更けた頃に桐峰は明榛と雅常、犬王丸と明那と共に邸を出て巨椋池まで出向いた。明榛は出る直前まで犬王丸を伴うことを渋っていた。今も難渋の面だ。
守り袋のことを差し引いても、三好の遺児である犬王丸を信長の面前に晒すことは危険極まりない行為であると考えるのは自然だった。桐峰にも、その危惧には同意する思いなのだ。
しかし雅常に宛てられた信長よりの文には、必ず犬王丸も同伴のこと、そうでなければこの会合自体を無いものとする、としたためられていた。
これでは犬王丸も連れて行かざるを得ない。
「承知であろうが、桐峰。いざとなれば若君の御身は我らがお護りするのだぞ」
「ああ、解っている」
くどい程にこの遣り取りが明榛と桐峰との間で繰り返された。
そして下京の雅常の邸から徒歩で巨椋池に浮かぶ中州の対岸に至った。
松明一つを掲げた闇の中、微かにぽつりと火の点のようにも見えるそれが、信長のごく近臣でも知る者の限られた別荘なのだ。火が浮いているように見えるのは、島で篝火が盛大に焚かれている証だと、桐峰たちを乗せた小舟を漕ぐ男が言う。
彼の名立たる織田信長に待ち構えられているという姿勢を現前と示されることで、桐峰たちにも身が引き締まるものがあった。
楕円形の小島の半分は篠で、船着き場は一つ。
島に近づくにつれ、鼻腔をくすぐる甘ったるい芳香は、金木犀だ。
湿った土に群れるような香りが強烈だ。
火明かりに照らされて金の小花が爛漫と咲き乱れる様が見える。
風流な鈴虫の音がするかと思えば、比較して如何にも鈍重で威圧的な牛蛙の声もする。
島に着いて他、聴こえるものと言えば信長配下の甲冑の音ぐらいだった。
何より桐峰たちは、初めて見る金木犀の可憐にして旺盛なる様に圧倒された。
大陸渡来のこの花は、当時、一部の僧侶や富貴の者しか目にしたことのないものであった。
黄金色の具な小花の群れる在り様に、一同は魅了された。
「黄金色の花か。芳しい香りだな…」
その一枝に手を添えて桐峰が言う。
やや遅れて、また舟が着岸した。
それに乗っていたのは、懐かしい顔だった。
耳川の戦いを共に生き抜いた、初震姫と五鶯太だ。
雅常は今や四国を手中に収めんかという勢いのある長曽我部元親から、星振大社の巫女が来る旨の文を受け取っていたらしい。
「初震さん、俺だ。久しいな。聞いての通り、どうも、厄介なことになっている」
それから桐峰は、赤震尼を生んだ凶星の化身とされる三好星愴についての説明を求めた。
犬王丸が持つ守り袋に入った石が、狙われる所以を知りたかった。
初震姫は語った。三好星愴が京に再び凶星を呼ぼうとしていること。
彼の男の壮大な野望のあらましを。
「恐らくは犬王丸どの、あなたの持たされた守り袋の中には、上古に飛来した凶星の欠片が封じ込められているはずです」
犬王丸は桐峰に促され、守り袋から取り出した欠片を初震姫の手に渡した。
初震姫は安堵の息を吐き、封印の健在であることを請け負った。
「この凶星の欠片は元々、我が音ノ瀬一族が、封印のコトノハをかけてその瘴気を閉じ込めていたものなのです」
雅常が言い、欠片を裏返すと、そこには血錆びた釘のようなもので刻みつけた見たこともない不可思議な文字があった。
「これを読み、効力を発揮できるのは音ノ瀬の血統に限ります」
「つまり音ノ瀬一族でなければ、封印を解くことは出来ない、という訳ですね?」
五鶯太が問うと、雅常は頷いた。それならばまだ安心出来る。例えば雅常が封印を解こうとすることなど有り得ないからだ。そんな大望を抱くのは、余程に暗い邪心を持つ者に限られるだろう。
「とは言え、油断は出来ませんよ、五鶯太。これが狙われていた、と言うことは、星愴は音ノ瀬一族がこれを封じていたことも、調査済みということ。必ず何らかの手を打ってきましょう」
雅常も初震姫の懸念と意見に同意の声を上げる。
「確かにそのへんについては、私も今一つ気懸りが…」
「王都に堕ちる凶星は、万余の軍勢よりも威力を発揮しましょう。その際に星愴は用意していた軍勢を上げ、織田どのよりこの京都を奪い取る腹積もりです。当然、織田どのにも手を貸していただきます。然様に桐峰どのも心得て、よろしく頼みます」
「いや、こちらこそ、忝い」
船着き場の竹藪を抜けると、桐峰たちはそれまでより圧巻の金木犀の群れる林に迎えられた。植林には莫大な散財を為したことだろう。信長とは己が好しとするものには金銭を惜しまない人物だった。彼に殺されかけたことのある初震姫は、その人となりをよく知っている。
信長が住まうには侘しい、小さな佇まいの邸の庭に桐峰たちは通された。
濡れ縁に異様な存在感を放つ柿の樹が植え込まれ、庭には能舞台がある。
煌々とした篝火を受けながら、どこかつまらなさそうに柿の実を齧る痩身の男がいる。
赤と黒の奇抜な着流しを纏うその男こそが、織田信長であった。
「お久しく、安土様」
嘗て自分を殺しかけたことのある信長に、初震姫はさらりと挨拶する。
そんな彼女に信長は、悪童のような笑みを見せた。
「九州まで苦労。彼の地での顛末、まずは物語せえ。ここは俗界にあらず。余計な辞儀合いは無用だでや」
放胆な者同士の遣り取りだった。
初震姫は臆することもなく、求められるまま九州への旅について語った。信長が執着した不吉な茶碗・鬼室の正体と、凶星の申し子、赤震尼の顛末――――――。
信長は黙してこれを聴いた。
「かくて、赤震尼は耳川にて絶えました。ですが、その脅威は絶えた訳ではありません。今は脅威は三好家にありまする。安土様はかの三好実休義賢どのに遺児ありとて、暗躍せし、奇僧をご存じにてございましょうや?」
「知らいでか。星僧なりしとて、京公家のみならず西の毛利家にも通ずる喰わせ者だわ」
信長は初震姫が差し出した長曾我部元親の書を広げ、目を通しながら話した。
「成る程。元親めが、この信長を相手に小癪なる物言いをしたるものだでや。されど阿波三好めは、丁度我に助けを求めてきおるでや。高知の大蛇のめの魂胆げに恐ろし、ゆめゆめ油断為されますな、とな」
「三好笑巌どの(三好康長、長慶の叔父。実休に仕え、織田政権では四国政策を担当した)も、『星愴』の二字を聴けば、黙っておられませぬでしょう」
そして初震姫は次に黒縄丸という男の話をした。彼の男は土佐の地で暴虐を恣にし、一度は初震姫が斬った筈だが、星愴の怪しげな祈祷によって蘇ったのだと言う。桐峰には俄かに信じ難い話だった。そして黒縄丸は既に、星愴と共に京に潜伏している可能性が高い、と初震姫は語る。桐峰は話を聴きながら思う。初震姫の語ることは常に桐峰の常識の範疇を超えて壮大なものだ。そしていつしか自分はその渦中にある。赤震尼の時もそうだった。不思議な巫女だ、と改めて感じる。
「あの二人の野望は嘗ての太守、三好長慶公以来の三好家の復権です。このままでは信長公、あなたの命も間違いなく狙われましょう」
初震姫の微笑に促され、桐峰が口を開く。
「俺と初震どのが、その野望を喰い止めよう。信長公、あなたにはその代り、ここにいる犬王丸の一命、救っていただく」
当初は犬王丸の持つ守り袋の欠片と、犬王丸の身の安全を取引しようと考えていた桐峰だったが、星愴の存在を知るにつけ、この考えに至った。
犬王丸の名に、信長の眉がぴくりと動く。
「己があの三好義継めが遺児かや。ふん、見れば賢しらなる面構えをしておるだわ」
次に信長の目はぎょろりと桐峰に向いた。
「して小野桐峰、あの九品とか申す売僧を斬り、初震めと鬼室を葬ったるはうぬか。初震、己同様、剣の腕は立ちそうではありそうだでや」
検分するような信長の視線を桐峰は真っ向から受けた。
「信長公、返答や、如何に」
「良かろう。あの赤目坊主、うぬらが斬ったる暁にはこの小わっぱめの命一つ、目こぼししてやってもええだわ。されど胆に銘じておけ。行く末、この織田信長に叛く男におい育ったるその時は、その首、胴を離るると思え」
ほほう、ほほう、と鳴く梟の声に信長の冷淡な声が響く。
ぐ、と奥歯を噛み締めた犬王丸の左右両側を、桐峰と明榛が庇うように立った。
「公の狙いは犬王丸の持つ凶星の欠片であろう。徒に幼い命を脅かすものではない」
その時、庇われた犬王丸が信長に向かって訴えた。
「母上はこの石の為に運命を狂わされたのですか。それならば二度とそのような悲劇、招いてはならぬと存じまする!信長公、伏してお願い申し上げまする!」
信長は双眼を細めて犬王丸を検分するが如くに見つめた。
初震姫が口を開く。
「星愴めが狙いの本願は、この都に赤震尼を産みしあの凶星を再来させることにござりまする。もしそれが万一、犬王丸どのの手から奪われ、凶星が墜ちるとなれば、王都、悉く灰塵に帰するは、必定でございましょう。これは戦になく、天がもたらしたる災厄に他なく。都に凶星降らば、王都の命運は再び尽き、四百年の悪縁を、再び呼び覚ますこととなりましょう」
「で、あるか」
神妙の色を帯びた声を発した信長を、桐峰は真剣に凝視した。
応仁の大乱により荒廃した都の零落ぶりは目に余るほどで、信長はその財力と武力を以てして久しい安寧を京にもたらしたのである。それを無に帰すどころか一層の災禍に見舞わせるという話を聴けば、信長も心中穏やかならざるのが道理であった。
「恙なく、首尾よう、やれるのであろうがや?」
慎重に信長は念を押す。放胆にして豪気と見える覇者・織田信長だが、その一挙手一投足には常に細心の注意が払われている。であればこその、天下人であった。
初震姫がさらりと頷くと、それに伴い垂髪の黒髪もさらりと流れた。
「してのけねば、なりませぬ。それが我らの使命でござりますもの。ねえ、桐峰どの」
「ああ、やるしかない」
桐峰堂々と頷く。明那が不安そうにこちらを見たので、その右手を握り、軽く目配せする。
(大丈夫だ)
先の耳川の戦いで、激戦の最中、凶星の申し子・赤震尼がもたらす災厄を喰い止めた桐峰と初震姫の瞳に曇りはない。戦友と呼んで差支えない絆が二人の間にはあった。
「災厄を取り除きましょう。但し、信長様の織田家が為になく、この日の本が遍く民の為に」
「俺もその為に尽力しよう」
「ふふん、吹くわ」
初震姫の皮肉に臆することなく桐峰も同意し、信長はそんな二人を興に乗ったように笑い見遣った。
「されど道理だでや。人間五十年、まず我が滅べど、この王都は千代に残るであろうがや」
乾いた口調に、桐峰はふとこの覇王の孤独を思った。
今や天下に最も近いと言える立場にある信長だが、彼は自らの終焉をも既に見据えているような気がした。
そんな桐峰の感傷に添うかのように、信長が初震姫に星震舞を所望した。金襴もかくや、と思わせる南陽の花の、きんと冷えた夜気に芳香が立ち上る中の舞いは、この世のものとも思えぬ舞踊ではあるまいか。
初震姫に龍笛の伴奏を望まれた桐峰は、快く頷いた。杵築大社の御師の家に生まれたる者、即興で龍笛を奏するくらいの教養はある。
抜かりないことに、信長の小姓に手渡された龍笛の吹口に唇をあてがう。
ぴいーーーーーーーっと甲高い、龍の鳴き声をも思わせるような音色が生じる。
二度とは訪れない至上の時となった。
秋の夜。
焚かれた煌々とした篝火より時折り火の粉が華やかに散り、金色の小花と入り乱れる。
その中央、舞台に立つ初震姫の翻る裾はそれら金の、或いは赤の濃やかな彩りを従えるようであった。金木犀の甘い、甘過ぎる程の芳香までをも、初震姫の舞いが纏い、操る。
龍笛を奏しながら、桐峰は、鼓を打つ五鶯太が、自分と同じく初震姫の舞いに魅入られているのを見て取った。
龍が鳴く。
一層、甲高く、類まれなる巫女姫に敬意を表するように。
桐峰は自らも龍笛の音に乗り、天高くを飛翔している心地になった。
この、小さな中州の島の、これまた小さな舞台の上に、天上天下の全てが凝縮して在る。
そんな一幕となった。
孤高の主・信長がこの舞いに無聊を慰められぬ筈はない、と桐峰は思った。
全てが格別の、秋のひと時であった。
そんな趣に水を差す気配を感じ、桐峰は笛を吹くのを突如として中断した。五鶯太もそれに気付く。金木犀の林から現れ出た巨躯が、そこに在った。しかもそれは今までの初震姫の舞いと笛、鼓の創り出した華やかにも幽けき空気を汚すかのような禍々しいものだった。
「いやあっはっはっはっ!見事っ、御見事っ!」
雷鳴のように無粋で野太い快哉に、そこにいた誰もが眉をひそめた。明那が咄嗟に犬王丸の前に出る。
「あなたが三好星愴ですね?」
初震姫が問うまでもなかった。左目に赤い石を埋め込んだ男が、この日の本に二人といようか。
「いかにも!吾輩が、三好星愴であるっ」
得々として厚い胸を張り、星愴が答える。彼には坊主という印象が無かった。身に纏う赤黒い袈裟は星愴を僧侶と言うより人喰い虎のように見せ、そちらのほうが正体であると言われたほうが余程に納得出来るような風体だったのだ。
「堪能致した。さすがは九王沢が吉星の申し子たる巫女、幽世をたゆたうかのごとき死出の舞いであったわ。あの世の入り口におられる御歴々の死出の餞には、如何にも出来過ぎておる」
ここで狼狽えるでも怖じるでもないのが信長だった。
「ふん、己めが実休が遺児を騙りたる売僧めか」
信長は腰の刀を抜いて突きつけた。だが丸腰の星愴は両腕を広げ、これ見よがしに首を傾げて見せる。人を小馬鹿にした態度であった。しかも相手は信長である。
恐れを知らぬ、と桐峰は思う。それを言えばここに集う顔触れはそれぞれが恐れ知らずと言えないこともなかった。
「お初にお目にかかりまする、織田信長殿。このたびは室町以来我ら三好一族が差配せし、王都を日頃お預かりくださり、如何にもご苦労様にござります」
人を喰ったかのような物言いが、信長の神経を逆撫でしたことは一目瞭然だ。
「増上慢めが、身の程をわきまえい。三好孫次郎(長慶のこと)めは、最早おらぬでや」
「はははははっ、今更言わでものことをっ!叔父御如きがそれほど恐ろしゅうござったかっ!」
「ほざけっ」
信長の合図と共に、金木犀の森から鉄砲足軽たちが、逃げる隙もなく長筒を構えた。
「季節外れの虫けらめが、火に迷い込んだだわ。己の餞に、鉛玉を残らず喰わせてやろうわ」
「の、信長公っ」
初震姫や桐峰たちがいるのにも構わず、信長は腕を振り下ろした。
明榛が咄嗟に犬王丸に覆い被さり、桐峰が明那の前に出る。
「撃てえいっ!」
しかし銃声は鳴らず、束の間、場は無音となった。信長の号令が掛かった瞬間、足軽たちは撃発するどころか、両腕をぶらりと下げて銃を降ろしたのだ。ある者は、銃を取り落とし。
何が起こったか判らぬ桐峰たちの耳に、その声は響いた。
「嫋」
この場にそぐわぬ、妖しく艶めかしい女の声だった。
「これは、コトノハ…?」
心を絡め取られ、骨抜きにされた足軽たちの中から進み出たのは、茜色の蜻蛉を染め抜いた打掛を纏った女だった。濡れたように艶やかな、瑞々しい垂髪が花の香りを振り撒く。
「そなたは、多香子っ!」
音ノ瀬雅常が、愕然とした声を上げる。
「お久しく、御本家の雅常様」
手にした金木犀の花の枝を弄びながら、多香子は鼻を鳴らした。
「はははっ、よくご存じの御方のようで雅常どの!音ノ瀬の多香子様に、コトノハの力を貸して頂いておりまする。多香子様は吾輩の企みを、愉しみになされている様子」
「星愴どのはわたくしに佳きコトノハをくだされた。凶星、火の雨となって大地に注ぎ込み、王都焼けてそのさま阿鼻叫喚…とは、げにおかしけれ。ここは、この多香子のコトノハを貸すより他あるまい」
多香子は美しい眦を決すると、雅常を睨みつけた。
「わたくしの恋うるコトノハを弄んだ恨み、忘れたとは言わせぬぞ」
「待て。それは私の存念ではない。当時、権力を恣にせんとした叔父が私への逆恨みで為したこと!」
「言い逃れのコトノハとは聴き苦しや」
多香子は眉をひそめ、端から雅常の言い分を信じないようだった。
「音ノ瀬の一族が、まさか…」
凶星の欠片の封印は、音ノ瀬一族だけにしか解くことは出来ない。しかしその音ノ瀬のコトノハを操る一族に、星愴に加担する者が現れたのだ。
「桐峰殿、すぐに犬王丸殿たちを守って早く逃げてください」
緊迫した声で初震姫が言った。
「あの女が音ノ瀬の一族なら、ここで凶星の封印を解かれてしまいます。私と五鶯太でここは喰い止めます。とにかく早く!」
「愚物どもめがっ!逃がすかあっ!」
星愴の大音声が炸裂した時だった。
島そのものを揺るがすかのような轟音が立て続けに起こり、業火が金木犀の林を焼き払った。熱い風が桐峰の頬を撫ぜる。金襴たる小花たちが、如何にも無残に炙られ、焼かれる。その頃、軍船が織田の船団を割って、大砲を撃ち込んできていた。
凄まじい炎が豪奢に咲き乱れていた花林を焼く様は地獄絵図を彷彿させる。そんな場合でもないのに、桐峰の胸に花を哀れむ気持ちが湧いた。
「見よやっ!これが王都が末路ぞ信長っ!」
狂ったような星愴の開催が、爆煙と炎の盛る音の中、張り裂けるように響いてくる。それはまるで自らが天下に大号令せんとするかのような威勢であった。いや、星愴が描く図はもっと恐れ知らずだ。彼は天を滅ぼしたあと、後の世の創造を夢見ているのである。
「切」
多香子がコトノハを処方すると同時に、犬王丸が首に下げていた守り袋の紐が切れ、突如として吹いた一陣の風がそれを多香子の手にもたらした。
にやり、と多香子が笑う。
「いけません」
初震姫が多香子の元に駆けようとするのを星愴が阻む。
「多香子っ、莫迦な真似はやめよ」
「ふふふっ、雅常殿、貴方に言えた義理ですかっ!?」
手に持つ金木犀の花枝に守り袋を引っ掛け、多香子は薄笑いする。
「貴方が私から奪ったコトノハで救うた筈の足利家が滅び、今また、私のコトノハで都が滅びる。我がコトノハを欺いた報いよ。良い気味じゃ。待てや、凶星もたらす災いのコトノハをっ!ああ胸が好く胸が好く」
多香子は完全に悦に入った様子で、己の言に酔い痴れている。
「そなたはそれで良いのか」
明榛の言葉に、多香子は興に水を差された面持ちになった。
「何と?」
「一度はこれと想うた者も都と共に滅びるのだぞ?それで良いのか」
明榛は噛み締めるように二度、繰り返した。
「私なら出来ぬ。例え引き裂かれた相手であっても、嘗ては確かに恋い慕っていた者の不幸を願うなど」
「――――――…」
言葉を返さず明榛を見つめる多香子を、星愴が急かす。
「多香子様!はよう封印を解くコトノハをっ」
「売僧め、この信長が自ら手討ちにしてくりょうっ」
刀を振り上げる信長の勇ましき咆哮も、砲火に揉み消される。
「応援せえやっ!狼煙を上げるでやっ、三好が死に損ないに、目にもの見せてやるでやあっ!」
小姓の制止も聴かず、信長は爆炎の中の星愴目掛けて殺到していこうとする。桐峰の目にも無謀と判る行いだ。だが無謀を無謀と考えないのが、この覇王・信長なのだ。強い矜持と自負に裏打ちされ、彼は今ここに在る。
「初震っ、続けや」
「心得ています。されど安土様、ここは、私たちに任せて頂きまする」
初震姫が言い終わらぬ内、星愴が島に引き入れた軍兵が暴れ出す。いずれも、素肌に胴丸具足を着け、剽悍に長けた、海賊上がりの三好の残党であった。彼らは室町以来の桁外れに大きな長太刀を携えている。
しかしそんな彼らも、丹生を手にした桐峰、澄行を手にした明榛らの敵ではなかった。生半な男であれば持つのさえ危うい大太刀を、彼らは事もなく己の手足のように繰り、三好の残党らを斬った。
更に初震姫はふんわりと舞うように殺気めいた男たちの身体の筋を断ち、血潮を撒いた。
初震姫は頻りに信長をここから逃すよう、小姓たちを急かした。
結果として信長は単身、逃げた。
これには桐峰も明榛も呆れ顔となった。斬り捨てた男たちの躯を足元にして茫然とする。
しかし信長の身を案じるようでいた初震姫はその実、彼を星愴率いる軍船の囮にしようという魂胆だったのである。
「あのくらいで死ぬ御仁ではありますまい」
派手に銃火を上げて星愴の軍兵と戦う織田の船を、火明かりの中に見物するが如く眺めながら、初震姫はちゃらっと忍び笑いした。赤と黒の色彩の中、浮かび上がる白い面の悪戯めいた表情はそのまま彼女の放胆を表しており、桐峰は呆れつつも可笑しく、頼もしく思った。彼女こそが、彼の耳川の戦いで、赤震尼という大敵を共闘して討った類稀なる巫女剣士なのだ。それを目の当りにしたことのない明榛は、異様なものでも見るような目つきで初震姫を凝視している。奈可姫のような女性をよく知る明榛に、初震姫のような女の存在は埒外とさえ思えるのだろう。
「しかし初震さん、このあとはどうする」
「逃げますよ」
「逃げるって…でもどこに!?」
問うた桐峰にさらりと答える初震姫だが、逃げ場があるとも思えず五鶯太が叫ぶ。
その時、並み居る星愴の軍兵たちが突如上がった銃声と共にばたばたと斃れ伏した。
その銃を操る銃兵たちを率いていたのは。
「また貸しだぞ!」
何と夷空だった。彼女は桐峰、初震姫らと耳川の戦いに参陣して赤震尼の野望を挫いた一人である女海賊だった。普段は専ら博多から堺の湊で暗躍する倭寇たちの女頭目だ。今この場において、これ以上心強い援軍はない。
「明王朝に仕えていた、よく当たる風水師様を紹介しますよ」
如何にも胡散臭い言葉に夷空が胡乱な目を向ける。それは桐峰たちも同様だった。
「星愴たちも信長公を追ったでしょう。さあ、行きましょう」
軍船同士の衝突と爆炎は遠ざかっているようだ。今が脱出の好機だろう。
しかし。
駆け出そうとした桐峰らの前に、五鶯太と年齢が同じくらいに見える少年が立ち塞がった。
「初震、若返って己を縊れるが我が果報よ」
「黒縄丸!?」
それは四国から初震姫を追ってきた怨念の化身・黒縄丸であった。初震姫は確かに、土佐において悪行の限りを尽くしていた壮年の黒縄丸を斬った。それを星愴が蘇らせ、黒縄丸の星愴への心酔は極まった。そして今や黒縄丸は星愴によって若返り、凶暴な残忍さ、以前にも増して盛んな有り様を今になって見せつけるのだった。
「はははっ、まずは手土産ぞ、初震」
醜悪な笑顔の少年は、灰で固めた黒縄を、林の中に張り巡らせている。そしてそこからは異様な臭気が、縄から垂れた白い滴と共に立ち込めていた。
「臭水か!」
石油のことである。当時は北陸・越後で僅かに産出し、燃える水と謂われた。
黒縄丸は、初震姫たちの退路を断つ為だけに、石油を染み込ませた黒縄をそちこちに仕掛けていたのだ。
「さあ燃えて果ていっ、凶星の再来を阻む者共っ!」
誰もが黒縄丸の異様な迫力と、周到な仕掛けに言葉を失う中、それまで桐峰らの戦いを見守るだけだった雅常がすい、と前に出た。
彼は涼やかな声で、古今和歌集の一首の下の句を諳んじた。
「置きまどはせる白菊の花」
彼が詠じた瞬間、黒縄丸含め桐峰らの足元に、白菊の形をした霜の花が咲き誇った。
それは臭水を臭気ごと封じ込め、あたりの空気を瞬く間に清浄化した。
(これがコトノハとやらの力か)
桐峰は驚嘆したが、呆けている場合ではない。雅常が作ってくれた脱出の機会を逃す手はなかった。
「おのれっ」
退却しようとした桐峰らに、更に黒縄丸が追い縋ろうとする。
「縛」
これもまた、雅常の放ったコトノハにより、黒縄丸は金縛りにあったように身動きが取れなくなった。あとはもう確認する間もなく、桐峰たちは夷空の船に乗り込んだ。