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夏荷風~大和国

【荷風】蓮の上を吹き渡る風。


 文月の吉野山は、繁る緑が猛る程であった。

 桜の樹々の間から、空木(うつぎ)(卯の花)の白い花、下野シモツケの紅い花、また、名も知れぬ夏草が方々に伸びている。

 透明な清流の傍を野兎や狐が駆け、魚を目掛けて鷹が真っ直ぐに降下する。

 蝉を代表に虫たちも生を謳歌して、大から小まで命が栄えていた。


 そんな栄えの中に、桐峰とその妻・明那の暮らす家がある。

 桐峰の持つ大太刀・丹生(におう)を打った鍛冶師の(ひこ)()夫婦が、空き家を見繕い二人を住まわせるよう、集落の人々を説得してくれたのだ。

 この近辺に住まうのは、彦次を中心とした鍛冶師の集団と、明那の両親のように牛馬解体を生業としてきた集団だ。

 所謂、マタギ((また)())のような山岳狩猟民族の一種だが、移住ではなく、この吉野山に根付き定住して、吉野山と丹生都比売(におつひめの)(みこと)を信仰している。

 鹿も猿も兎も、熊も狩る。

 加えて牛馬解体の依頼も受ける。

 更には蔑視も受ける生業の家の娘である明那を娶ることに、桐峰の生家である杵築大社(出雲大社)の神官家は猛反対した。

 桐峰は家の反対を押し切り、勘当に近い形でここ吉野に明那と居を構えるに至ったのである。

 掘立小屋に等しい住居が並ぶ中で、彦次が桐峰たちにと宛がってくれた家は青々とした()(がき)もある、簡素だが質実な板葺の住居だった。

 里人らからも、彦次と、近くに庵を構える陰陽師である臥千上人の口利きゆえに不平は出ず、ことは穏便に運んだ。


 さてその庭で、木刀で素振りしている男児がいる。

 や、と掛け声を上げながら鍛練に励む姿は微笑ましいが、よく見れば脚の構えが不安定と知れる。

 生まれつき不自由な脚で生まれた男児は犬王丸―――――名門・三好家の亡き当主・三好義継の忘れ形見だ。


 激しい穀雨に打たれた明榛と名乗る武士を、義継室の霊が消えたあと、桐峰は犬王丸と共に近くの宿まで引き連れ、湯に浸からせ、着替えさせた。自分もそれに続く。そのあたりが如才ないのは幼少より商業、回国に携わってきた為と、桐峰の性分の為である。

 どうにも明榛は育ちが良いらしく、先程まで立ち合っていた桐峰が、甲斐甲斐しく動くのをさも当然であるかのようにゆったり構えていた。


「お主が若君を預かりお守り申すべし」

「なぜそうなる」


犬王丸を部屋の上座に据え、明榛と向かい合う形で桐峰は座った。

 三人の手には、宿から供された、梅干しを溶いた白湯がある。

 飲むと雨に打たれた身体の内が温められた。

 そうして一息ついたあと、明榛は頑として主張したのだ。

 この言い様に桐峰は驚いた。

 犬王丸とは袖触れ合う程度の縁である。

「お主の腕であらば若君を託せる」

「いや、待て」

 明榛の主張の強さに、桐峰は疑念を抱いた。

 犬王丸に掛ける明榛の情の濃さは並のものではなく、もしや、と桐峰が邪推するぐらいであった。

 それには気づかぬ様子で明榛がしみじみと語る。

「私は三好家とは縁ある者。若君の危急は見過ごせぬ。いや、若君は生きておられるだけでも危急と言えるのだ。詳らかに語らずともそれは察せられよう」

 滅ぼされた家の嫡男なのだ。

「無論、それは解る。が、貴殿がお助け申し上げれば良いではないか。三好家とも縁あらばこそ」

「そう致したいところだが、私は他に勤めがあるゆえ。忠義の心、お主ならば解るであろう、尼子の旧臣・小野家の四男坊」

 桐峰の鼓動がどきりと鳴った。

 恩ある尼子を救えなかった、否、最後は救おうとしなかったことは、今でも桐峰の心のしこりとなっている。

「つい先刻、斬り結んだ俺によく託せるな」

「私は己が認めた相手としか進んで刃を交わさぬ」

 そう見込まれても困るのだが。

 頭をよぎった邪推が、再び頭をもたげる。

 奈可姫は美しかった。

 明榛と名乗ったこの男も、精悍に整った面立ちをしている。

 犬王丸の愛らしい顔立ちが、この二人から受け継がれたものであるとしたら――――――――?

「これは忠義だ。小野桐峰よ」

 明榛が、桐峰の思考を遮るように唱える。

 ただの名目と聞き流せない重みのある声だ。

「三好は滅びたが、その嫡流の血筋は残っておる。私はそれを守りたいのだ。お主とて、尼子の生き残りがいたら眠る忠義の心を起こし、丹生を取って守るであろう」

 

 明榛の忠誠心に桐峰がつき合う謂れは無い。

 だが真剣な明榛の顔と、口調の傲慢に潜む懇願の響き、更には明榛の隣で不安気に瞳を揺らして自らの行く末の話に聞き入る犬王丸を見ると、無碍(むげ)に断ることは出来なかった。





 浅葱の上衣に柿渋の袴を穿いた桐峰は、腕組みして剣の鍛練に励む犬王丸をしばらく見ていた。

 白の浄衣は旅の途上だけ。家では色のある服を着て寛ぐ。

 御師として生まれ育った桐峰にとって浄衣姿は生業用であり、生きる為の戦闘衣と言えた。

やがて頃合いを見計らって犬王丸に声を掛ける。

「若君」

「師匠!」

 ぱ、と笑顔を咲かせて、犬王丸は素振りを中断した。

 額に汗が光っている。

「師匠は勘弁してくれぬか…」

「師匠も、何度言うても私を若君と呼び、名で呼んでくれぬではありませんか」

「そうは言うても身分がな…」

 頬を掻きながら桐峰が言うと、犬王丸がきりっと表情を引き締めた。

「三好家は今や無く、武道に身分は関係ございませぬ。あるのは先達と、それに教えを乞う者のみにて」

 生まれついての障害はあるものの、犬王丸は聡明な子供だった。

特に今のように己の考えを述べる時は、十歳という年齢より大人びて見える。

桐峰は微苦笑する。

「では犬王丸」

「はい」

「これを使ってはみぬか」

 そう言って桐峰が差し出したのは、半弓(はんきゅう)だった。

 通常の弓の半分程の長さの半弓であれば、座ったままでも射ることが出来る。

 白木の短い弓を、犬王丸が手に取る。

「これまでに扱ったことはあるか?」

「数回。なれど、本腰を入れて師に就いて学ぶ前に…」

 三好は織田と戦になり、三好の本流は滅び父・義継は死んだ。

 その嫡子として犬王丸は追われる身の上だ。亡き父母を懐かしむ暇とて無い。

 それを痛ましいと桐峰は思ったが、顔には出さなかった。

「なれば俺が教えよう。名手ともなれば戦働きも出来よう。俺が嘗て仕合った敵も相当な手練れだった」

「その者、師匠が斬ったのですか」

「…そうだ」

 『橋姫』と呼ばれる能面を被った男は、手練れではあったが血気に逸り過ぎる性分であった為に、それが命取りとなり桐峰に討たれた。

 だから半弓が剣に劣ると言う訳ではないが――――――――――。

 犬王丸は愁眉となりそうになる桐峰に、にこっと笑いかけた。

「流石は師匠。では、私は半弓も学びまする。剣も学びまする。他の飛び道具も、師匠の知る武道は何でも教えてください」

 健気な言い様だ。

「――――――相解った」

 それまで鳴いていた蝉が鳴き止み、びびび、と飛ぶ姿を二人が自然に目で追った時、家のほうから明那の呼び声が聴こえた。


「桐峰!犬王丸!昼餉やで」

「解った」

「はい!」


 桐峰と犬王丸はそれぞれ答え、汗を流すべく井戸に向かった。

 家の作りは基本的には彦次と歌の住まいと同じで、囲炉裏を中心に明那と犬王丸、桐峰は車座になって昼餉を食べる。

 犬王丸はまだ、こうした食べ方にも食事内容にも慣れないようだったが、三好家にいた時より食事が楽しいと言って、明那を喜ばせた。

 ただ、育ち盛りの子供と、育ち盛りをとうに過ぎたが自他共に認める大食漢である桐峰が揃えば、食糧を余計に調達せねばならず、それが悩みの種であった。

 今も凄い勢いで鮎の塩焼きを平らげていく夫・桐峰を呆れた目で見ている。

 このぶんではまた、桐峰に回国の旅に出てもらわねばならなくなりそうだが、それは明那とて寂しく、命を狙われているという犬王丸の面倒を、一人で見る自信も無い。

 考え物だ。


「おーい、桐峰はん。(たお)れ牛が出たで!」


 入口から食事をとる桐峰に呼びかけたのは、明那や桐峰と同じく、牛馬解体を生業とするこの村落の男だ。


「おお。今、行く」


 牛馬処理・解体に携わるゆえ、蔑視されてきた村の人間たちは、当初、余所者の桐峰に警戒の眼差しを向けた。

 それが現在のように打ち解けるまでには、時間と、桐峰と明那の努力が欠かせなかった。

 明那の両親も桐峰を援護した。

「今夜は牛鍋やな」

 犬王丸は箸を止めて目を丸くしている。

 まだ牛や馬を解体するという日常に慣れていないのだ。

 特権階級にあった者が、いきなり境界を軽々と超えた境遇に身を置くことになったのだから無理もない。

 桐峰がちら、と気遣う視線を犬王丸に向けた。


「我らは境界人なのだ、犬王丸。人々が考える〝こちら側〟と〝あちら側〟のあわいに立つ。――――――いや、もう境界を越えておるのであろうな」

「師匠は、御師でおられたのですよね」

「そうだ。御師もまた、境界人」

 犬王丸は利発そうな瞳に思案の色を浮かべた。

「境界を区切るものは、人の心でありましょうや」

「俺はそう思う」

「………」


 紫蘇の葉を散らした菜飯を掻き込みながら、桐峰は考える。

 この聡明な童が大過なく三好家の跡を継いでいたなら、良い領主になったのではないか、と。

 昼餉を急ぎ済ませ、土間の隅に立てかけてある山刀を手に、桐峰は外に出た。

 斃れ牛は二頭だった。

 二頭の躯の周りを村人たちが取り巻いている。

 吉野に遊山に来ていた、公家の行列の一部が横転したらしい。

 報酬は弾むので引き取って欲しいという願いに、村は一も二もなく応じた。


 桐峰は一頭を一人で引き受けた。

 頭部を切断し、四肢を落として皮を剥ぐ。

 言葉にすれば簡単そうだが、これを円滑にするには技術も膂力も要る。


 桐峰がこの村落に受け容れられた理由の一つは、さくさくとこの作業を一人で行う手腕を、村人が目の当りにしたからでもあった。

 あらかたの作業を終えた時、人の波が分かれる気配がした。


「器用なのだな。小野桐峰」


 明榛が進み出て、感心したように手を打った。


 

 犬王丸に再会した明榛は、囲炉裏横で片膝をつき、臣下の礼をとった。

「御無事で何よりです、若君」

「うん。師匠たちが、よくしてくれました」

「左様ですか。これよりは私が若君をお守り致しますゆえ」

「どこかに参るのですか?」

「とにかく、畿内を離れましょう。明日にでも」


 この会話を、やや険のある顔つきで聴いていた明那が、いよいよ眦を上げた。


「あんた、うちに泊まる積りか?」

「うむ。鄙の侘しい家に寝るもまた一興」

「何やてっ!?」


 明榛はどうにも人情の機微を疎かにすると言うか、ゆえにこそ押しが強いところがある、と桐峰は頭を抱えた。

 それから白湯を飲みつつ、明榛は犬王丸がどのようにここで過ごしていたかなど、詳しく知りたがった。

 聴かれるままに桐峰や犬王丸が答え、話題が半弓に移った時だった。

「半弓も良いが、(はず)(やり)のほうが接近戦にも使えますぞ。桐峰。このあたりに弭槍を置く家は無いのか」

「成る程、弭槍か。彦次どのの家ならばあるかもしれん」


 弭槍とは、半弓の上部に刃がついたもので、遠隔には矢で応じ、敵が迫れば槍部分で応じることが出来る。

 桐峰の丹生を打った刀鍛冶の彦次の家ならばあるかもしれない。

 早速、近所に住まう彦次の家に赴いた桐峰は弭槍を買い受け、その後は明榛と共に、陽が暮れるまで犬王丸に稽古をつけた。

 我が強く押しが強い明榛だが、意外にも教え方は要領を得ており、桐峰を感心させた。


 稽古をつける間も、明榛は犬王丸に慈愛ある眼差しを注いでいた。


 その稽古中、臥千上人が眞垣から顔を覗かせた。

「上人殿。どうなされた」

 臥千上人は吉野に住まう陰陽師である。

 先を見通す力に秀で、臥していても千里先のことが見通せるようであることから、臥千上人と呼ばれるようになった。

 桐峰も臥千上人の言葉に何度か助けられている。

「夜に気をつけよ」

 桐峰の表情が引き締まる。

「何事ですか」

 臥千上人の目が、弭槍の稽古をする犬王丸をちらりと見遣る。

「あの童は凶なり。火の臭いがする。良からぬ輩を、招き寄せたやもしれんぞ」

 それだけを告げると、臥千上人はさっさと踵を返し立ち去ってしまった。


 その夜、桐峰は寝ずの番をしていた。

 臥千上人の言葉が忘れられなかったからである。

 家の戸口に丹生を抱いて座り込み、空に散る星の数を数えたりなどしていた。

 だから、家の周囲に撒かれる魚油の臭いにも、火の気配にもすぐに気づけた。


 ――――――――村落に火が放たれたのだ。


「我ら悪しき芽を摘み取りに来た地獄の邏卒(らそつ)なり!速やかに三好の遺児を引き渡すべし」


 酷薄さを思わせる甲高い男の声が、村中に響き渡る。

 何事かと起きてきた人々は仰天し、消火に駆け回っている。

 満天の空を舐めんばかりの火勢である。


 明榛も澄行を手に出てきた。

 桐峰たちの家はまだ火が回っていないが、犬王丸は明那がどこかに上手く隠してくれた筈だ。


 火をつけた男たちは全部で十名程いた。

 中心にいる、先程大音声を発した男は長身痩躯で、柄の長い片鎌槍(枝が片方にのみある槍)を持って蛇のようにちろちろと長い舌を出している。

 金と黒の派手な柄が、着流し全体に踊っている。また、赤い帯を女のように前で華やかに蝶結びのようにして、余った布地を長々と垂らしていた。

「うぐぷぷぷぷ」

 これは笑い声らしい。これまた異様だ。

 何より、切れ上がった眦と目頭の間に収まる眼球の瞳孔は、まるで蛇のように細いのだ。

 薄気味悪い様相に構わず、桐峰は丹生を抜いた。

 明榛も抜刀する。

 朱い刀身と青い刀身が火明かりに照らされ、こんな状況でもなければ見る者を魅了するであろう美しさだ。


 すい、と明榛が敵のほうに間合いを詰めたかと思うと、もう二人を斬り伏せている。

 桐峰は片鎌槍の男と対峙した。

 男は蛇のように身をくねらせながら、桐峰に片鎌槍を繰り出す。

「うぐぷぷうはははあっはっははあっ!!石を、石を寄越せいっ。魔王から銀一万貫をせしめるんや!!」

「何の話をしているっ!」

 叫びながら桐峰はかわすが、鎌の部分が袖を裂いた。

 また、男が槍を繰り出す。

 金と黒、赤の布地は、男が動くたびに揺れる。

かわす一方では埒が明かないので、桐峰も刺突を試みるが、男はこれも身をくねらせながらいなして、槍先で受け流してしまう。

 蛇のような身ごなしには、攻守を有利に運ぶ狙いがあるのだ。

「今、遺児を大人しゅう差し出したら見逃してもええで?こっちは銭さえ手に入ればええんやさかい」

「冗談!」

 桐峰は相手の懐に入り、頭突きを喰らわせた。

「が……っ」

 それから素早く丹生で片鎌槍の刀身をからげて、相手の得物を取り去ってしまった。

 逃げようとする男の背に刀が生える。

 明榛が澄行を投擲(とうてき)したのだった。

 他の襲撃者も皆、明榛が斬っていた。

 その夜は消火活動に村落全体が大わらわで、ようやく作業が一段落した頃には空が白んでいた。


 早朝の山は夏でも冷える。

 まだ燃え残りのある村落に、乳白色の靄が立ち込めていた。

 事の元凶である蛇のような男は未だ息があり、麻縄でぐるぐると縛り上げられた。

 傷への考慮はされない。炎に見舞われた村人たちの敵意を思えば無理からぬことだ。

 男の身柄は、事情に通じていそうだと言うことで桐峰らに一任された。

 どん、と背中の傷を明榛が蹴り上げると、男の細い瞳孔が開いた。

「がぁっ」

「悪蛇太郎と申したな。成る程、名は体を表す。目当ては若君の命で相違ないか?」


 明榛が問い質すのを聴きながらそれは違う、と桐峰は確信していた。

 悪蛇太郎は斬り合いの最中、金が目当てだと散々吹いていた。


「あの遺児の、守り袋を魔王に渡すんや…」

「守り袋?」

 悪蛇太郎は憔悴して、口も軽くなっている。

「生きた欠片やと…。それを信長に渡せば、銀一万貫を貰う。そない約定になっとる。おっつけ、兵らがぎょうさんここに押し寄せる筈や」

「さしずめお前は、物見と称してその石とやらを分捕る料簡だったのだろう」

 明榛の指摘に悪蛇太郎は答えなかった。頭がかくんと前に垂れている。

「……事切れたな」

 口元に手をかざした桐峰が断じる。

 焼け残った家の中から、明那に肩を抱かれた犬王丸が恐る恐る出てきた。

「若君。守り袋とやらをお持ちですか?」

「あ、ああ。母上から頂いた物です。大切な」

「そうか。奈可どのから…」

 感慨深い表情の明榛に対し、犬王丸が、着物の上から懐のあたりをぎゅっと掴む。

 そこに守り袋が下がっているのだろう。

「さる僧侶より譲り受けたと聴きます」

「僧侶?」

 犬王丸が頷く。

「名を九品―――――――」

 桐峰がはっと目を見張る。

 思わず犬王丸の上衣に伸ばしそうになる手を、明榛に叩き落とされた。

「何をするか!」

「…すまぬ。しかしその九品と言う僧侶、俺の知る者と同一であればもうこの世にはおらぬ」


 犬王丸と明榛が怪訝な表情になる。

 表情が同じになると、桐峰には、やはり二人は似ているような気がした。

「九品…。言われてみれば私も面識はあるが、不思議な僧侶ではあったな」

 明榛が記憶を探る眼差しで語る。

 あれは夏。御所の廊下ですれ違った時、九品が明榛に言ったのだ。

〝女難の相が出ておいでですね〟

〝何?〟

〝せいぜい、奈可姫様の為、三好家の為に尽くされませ〟

 そうして暑い盛りに汗一つ浮かべず涼やかに含み笑いしたのが九品だった。


「耳川の戦で、俺が斬ったのだ」

「ふむ。話はあとだ。ともかく、ここを離れるぞ。兵が押し寄せる前に」


 明榛の独断に、しかし逆らう者は一人もいなかった。

 朝の白い靄を、澄んだ山間の空気が吹き流す。

 この靄に紛れて、桐峰は犬王丸と明榛、そして明那と共に下山することに決めた。



 


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橋本ちかげさんが描くアナザーストーリーはこちら→ 初震姫 斬人舞刀
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