春穀雨(はるこくう)~河内国
【穀雨】(春雨が降って百穀を潤す意)二十四節気の一。
軽く汗ばむ温暖さなのにどこか背中が粟立つ、晩春の夜。
備中国合の渡(岡山県高梁市)の緑深い地に、月が皓々と光を投げかけている。
そこに立つのは半月の前立て、鹿の角の脇立てを持つ兜の堂々たる戦武者。
更に天下五剣の一、三日月宗近を抜き放ち、白光に掲げる。
曰はく。
「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」
彼こそが尼子十勇士の筆頭、山中鹿介幸盛であった。
但し――――――――。
「もうその必要もあるまい、幸盛殿。尼子は潰え申した」
死して尚、忠義を示さんとする無類の男に、小野桐峰は穏やかに声を掛けた。
杵築大社(出雲大社)の御師(信仰普及員)としての資格こそ失くしたが、白い浄衣姿で未だ回国、商売の旅を続けている。
神官としての資質上、こうした怪異にも慣れている。御師でこそなくなったものの、迷う魂たちを導くのも己が役割と考えていた。
幸盛は驚くでもなく、知己であり、嘗ては共に戦場を駆けた桐峰を見遣った。
「久しいな、桐峰殿」
ちょっと往来で逢った、そんな風に挨拶され、桐峰は苦笑してしまう。
後に頼山陽に麒麟と称される男は、死んでも胆が太いようだ。
「何ゆえ、まだ惑うておられる。とうに往生されたと思っていたぞ」
「……我が石州大太刀の行方を知りとうての」
それは桐峰の大太刀・丹生より長大な刀剣である。
「三日月宗近があるではないか」
「石州大太刀が良いのだ、儂は」
まるで駄々っ子だ。桐峰は嘆息した。
今は大和国吉野で牛馬解体業を営む民の娘・明那を妻として暮らす桐峰は、陸路、海路を経て讃岐に赴き、道々、行商や祈祷札売りなどを行いながら伯耆国、たたら製鉄の盛んな日野川流域を目指していた。嘗て九州で共に戦った戦友・初震姫からは松永弾正久秀の係累に関する文が届いた。あちらはあちらでよく働いて務めを果たしているらしい。
それを読み、桐峰もまた此度の回国の旅に出たのである。
今宵の宿は頼久寺。現代には小堀遠州による枯山水庭園が残る、臨済宗永源寺派の寺である。
戦国武将・尼子家に忠誠を捧げた山中鹿介幸盛が、刺客により横死を遂げた場所の近くなのも奇縁だった。
ここのところ、幸盛の霊が彷徨い出ると里人たちが恐れていると住職に聴いた桐峰は、神官家の人間でもあり、幸盛の戦友でもあった手前、噂の真偽を確めに来たのである。
果たして噂は真実だった。
(しかし石州大太刀か…)
武人として、愛刀に拘る気持ちは非常によく解るが。
「今の持ち主に心当たりは無いのか」
「…三好の遺児の手に渡ったと、風の噂に」
(三好の遺児だと?)
今度こそ、桐峰は目を丸くした。
若江城主・三好義継は信長に刃向い自刃した。
三好氏は数ある戦国武将でも、京都に勢力を誇った名門だ。
梟雄として有名な松永弾正久秀が士官した家でもある。
六角氏や室町幕府将軍足利家との因縁も根深い。
よくある政略婚と言うもので、義継の正室は室町幕府最後の将軍・足利義昭の妹であった。
夫と共に自害したと桐峰は聴いていたが、子も確か落城の時に死んだ筈だ。
備中から河内国若江郡若江城には、信長がその後入城した。
到底、生き延びているとは思えない――――――――――。
だが桐峰は行き先を伯耆国から河内国に変えた。
幸盛には友誼がある。
宿でふと目覚め、横を見ると、豪奢な打掛姿の女性が、桐峰に対して頭を深々と下げている。月光がその身体を貫き通している。清々しくも美しい有り様だが。
吉野にいる妻の明那を思い出した。
胴丸(鎧の一種)を着けて旅をしろと口喧しい。剣客として名の知れた桐峰の身を心配しているのだ。
しかも悋気持ちだ。
今、ここにいたら眦を吊り上げるかもしれない。
吊り上がった鋭い目元も、赤茶けた髪も、明那のものであれば何でも愛しい。
しかし女には生者の気配が無い。推察するところ、高貴な亡霊だ。
「…夜這いとも思えぬが。俺に何用がおありか」
女が顔を上げた。
面長の、打掛の迫力に及ばぬ、どこか楚々とした風情の顔立ちだった。
懇願の風情で美女に見つめられては、桐峰とて強くは出られない。
「我が子、犬王丸をお守りくだされたし」
「犬王丸?」
「義継様との御子にござりまする…」
は、と桐峰は飛び起きて姿勢を正した。
「さればあなたは足利の姫御前であられるか」
「そは昔語りにて…。それより」
「―――――――遺児がおいでか。真に」
儚げに、潤んだ瞳の姫が頷く。
「落城の折り、身代わりを使い何とか落ち延びさせましたものを、先頃より命を狙われておりまする。或いは正体を知る輩に、利用されようとしておるのやも」
「…若君は大太刀をお持ちか?」
そこで姫が心持ち、首を傾げた。
そうするといかにも深窓の姫君という感が強くなる。
「犬王丸は城下の質屋に預けられておりますれば、身近に左様な物も、あるやもしれませぬが……」
「得心が行き申した」
桐峰は質屋の屋号と場所を姫から訊き出した。
朝から湿り気を帯びた空気の匂いがする日だった。
空気に寸毫のかさつきもない。
雨になるかもな、と桐峰は思う。
その質屋は中々立派な店構えだった。
商売人としての桐峰の目から見て、三好犬王丸は堅実な商売をする店に預けられたようだ。結構なことではある。だが立地はいかにも危険だ。
道向かいの影から店を見積もっていた桐峰の耳に、野卑な銅鑼声が飛び込んできた。
「おう、旦那はん。今日こそ石州大太刀を売ってもらうでえ!」
「せやさかい、あれは売り物やおまへんのや。堪忍しとくなはれ」
派手な出で立ちの――――あれが傾奇者と言うのか釣り合わない色柄の着物を身に着けた男たちが四、五人、店の前に詰め寄っている。
趣味が悪い、と桐峰はその色の継ぎはぎされた着物を見て眉をしかめる。
あれでは三文にもなるまい、などとつい商魂で余計なことまで考えた。
彼らの内の二人が、こっそり店裏に回ろうとしたのを見逃さず、桐峰は飛び出した。
が、先を越された。
桐峰に背を向け、編み笠を被り眼前に立ちはだかった男が、佩いていた大太刀を一閃すると、その二人は白目を剥いて道にどうと倒れたのだ。
剣筋は、桐峰であればこそ追える、という代物だった。
その刀身は桐峰の丹生の赤とは逆に、青々と澄んで美しい。
「なんやお前らあああっ!!」
色を成した残りの連中と、桐峰、そして青い太刀の男は対峙することになった。
が、物の数秒も経たぬ内に、桐峰が繰り出す刺突と、男の青い水の如き流麗な太刀捌きで場は鎮まった。
「亭主よ」
藤色の上衣を纏う男が呼びかける。思いの外、物柔らかな声だ。
「へ、へい。この度は危ないところをどうも…」
「あの御子息だが、早々に若江城下より遠ざけたが良かろう」
店の亭主がぎくりとしたのが、桐峰にも判った。
この男は、どうやってか知らぬが若君の素性を知っている―――――――。
そして桐峰と同じ懸念を抱いた。
「…時に奴らの言っていた石州大太刀だが」
今度は桐峰が語り掛ける。
「は、はい」
「〝本来の主人〟が取り戻したがっている。俺に預けてはくれぬか」
束の間、不審に探る目で亭主が桐峰を見た。
「取り戻したいと申すは…三日月の武人だ」
「――――――――へい」
この符牒で正しかったようだ。
鹿介は三日月に尼子の勝利を祈念した男だ。
これで鹿介も満足するだろう。
恐らく亭主は尼子と関わりのある者だったのだ。
そして、何の因果か三好の遺児を預かってさえいた。
男が編み笠をくいと上げると、唇の左下に黒子がある精悍な顔立ちが露わになった。
「ようやっと逢えた。〝切り峰〟。〝丹生の桐峰〟」
男が言い終える前に桐峰はざあっと間合いを取った。
そうせねば命が危うい、と本能で動いたのだ。
右手は丹生の柄にある。いつでも抜刀出来るよう。
十分に間合いは取った筈だった。
しかし次の瞬間、男は軽々と桐峰の間合いに踏み込んで青い刀を袈裟懸けに振るった。
退いて、こちらも刺突を繰り出す。
相手がいなし、ついに刃同士が大きな音を立て組み合った。いや、噛み合った。
赤と青がぎぎぎぎ、と互いに押す。色彩だけを見れば美しい好対照だ。
桐峰が左足で相手の脚を蹴りつけると、流石にぱ、と二人の間が開いた。
春の空の下、互いに額から汗を流している。
再び、火花が生まれる。
その寸前で、二人の間に割り込んだ身体があった。
現身ではない。
三好義継正室、足利の姫だ。
彼女は涙をはらはらと流し、桐峰が対峙する男にかぶりを振っている。
「おやめください、明榛様」
男の顔色が明らかに変わった。
「奈可殿………」
精悍な顔が複雑そうに歪み、沈黙すると、やがて刀を納めた。
ぽつ、ぽつ、と天から雨が降ってくる。
五穀を潤す恵みの雨が。
それは人を隔てぬ神仏の計らい。
或いは生と死をもであろうか。
やがて強い雨となり、姫御前の涙とも分たぬものにしてしまった。
濡れそぼった桐峰は、明榛、と呼ばれた男と、今にも掻き消えそうな姫が見つめ合うのを眺めていた。