47
「よくぞ、ご無事で……!!」
耳元で囁かれたその声は、少し枯れていて震えていた。
どうしてだろう。
どうして彼はこれほど泣きそうになっているのだろう。
リアンにはよくわからなかった。
しばらくそうしたあと、ギルヴェールはリアンを開放した。
呆然と立っているリアンに綺麗すぎる礼をする。それがどこかおかしかった。
「…申し訳ございません。身の程をわきまえず、度を越したことを」
「…いや、それはいいんだが。どうしてお前はそんなに泣きそうなんだ?」
自然に生まれた疑問だった。
声は変わらずに平淡で変わることはない。まったくもって今まで通りだ。
それでも、ルドルフやマリアやギルヴェールが顔を真っ青にしている理由がよくわからない。
その言葉を聞いたギルヴェールは、針で刺されたような苦しげな顔をした。
「…その前に、私からも殿下にお尋ねしたい事があります」
「なんだ?」
「何故、助けを呼ばなかったのですか」
その問いはまっすぐリアンの胸を貫く。
何故?何故、何故…。
リアンは気づいた。
何故自分がこれほどまでに冷静でいられるのか。
何故物事のすべてが他人事のように感じられるのか。
「私は…それでよかったんだ」
殺されてもいいと思ってしまった。
過労死よりも暗殺者に殺された方がまだ花があるか、なんて冷静に考えている自分がいた。
どうでもよかった。ただそれだけだ。
「私は殺されてもいいと思ってしまった。そんなこと許されるはずがない。私が死んでいいときは国を守るときだけだ。それ以外で死ぬことなど許されないのに。馬鹿なことをした。すまない、ギルヴェール」
「…本当に、それが殿下の本心なのですか」
「…え?」
「『死ぬことは許されない』。それは本当に殿下が思っていることなのですか」
その言葉に息すら止まった。
すべての背景が消え去って目の前の男しか映らなくなる。
何を言っているんだ、ギルヴェール。
当たり前だろう、私はそう望んでいるんだ。
国のために、国民のために、国の未来のために。皆の幸せのために。
皆?
皆って誰?
望んでいるのは、本当に私?
それとも別の誰か?
それは…誰?
それは皆だ。
私以外の、みんな。
「…ぁ」
小さな呼吸音は随分と情けない音だった。
しかし、そんなことは気にならない。
気になるのは頬を伝う熱いなにかと、床に染みを作る雫のことだ。
これは一体なんだろう。
「ギル…ヴェール…」
「はい」
「わた、しは…」
次から次から熱いなにかが溢れ出る。それと同時に床の染みも増えていった。
どうしよう、早く止めなければ。止めてしまわないと。
でも、止め方がわからない。
こんなことは初めてだから。
「死ぬのが…怖かった…!」
そう言った瞬間、優しく腕を引かれ再びその胸へと飛び込んだ。
今度は緩く後ろに回された手が暖かくて、ぎゅっと彼の服を掴む。
「怖かったんだ…!足がすくんで…動けなくて…!喉が張り付いて…!」
自分の声が水っぽいことがわかる。でもそんなことに構っている暇はなかった。
ゆるゆると撫でられる髪から、ギルヴェールの体温を感じる。
そうだ。
私はずっと、頭を撫でてもらいたかったんだった。
「ええ、恐ろしかったでしょう。よく、頑張りましたね」
「私は…、私は…!」
「もう、なにも頑張る必要はないんです。あなたは自分の思ったように、泣いていい」
そうか。
私は今、泣いているのか。
ようやく実感できた涙はより一層溢れてきて、底を知らない。
今まで貯めてきたその分を一気に出し切っているのかと思うほど頬を伝っては床に落ちギルヴェールの胸元を濡らした。
この世に生を受けてから二度目の泣き声は低く低く、部屋に響いた。
それから泣き止んだのは随分時間が経ったあとのようにも思えるしすぐだったようにも思える。
部屋をランプの柔らかな橙色が照らす。
入ったベッドは自分が思っていたよりも小さかった。
右手のぬくもりに少しだけ力を込める。自分よりも幾分か大きいその手は肉厚で、肉刺が潰れて硬くなった手のひらだ。
「どうかされましたか、殿下」
「…いや、なんでもない」
ベッドの傍の椅子に腰掛け、リアンのなすがまま手を差し出しているギルヴェールの表情は柔らかい。一度も見たことがないほどに、目元が優しく細められていた。
「ギルヴェール、もしかしたら誰かから聞いているかもしれないけど…聞いてくれるか」
ギルヴェールがこくりと頷いたのを見て、ぽつりぽつりと語りだした。
自分の幼少期、父との関係、父が死んだあとのことを。
「“立派な王子”になろうとしたんだ。そうすれば、父が私を見て、頭を撫でて、褒めてくれると盲信していたんだ」
しかし、父王は死に自分は一度空虚になった。
空虚になった自分を再び満たしたのは、ほかならぬ“立派な王子”の努めだった。
しかし穴の空いた容器に注がれるそれは、中身が減ってもなお容器に注がれ続けた。
「…父が、亡くなる前に私に言ったんだ。『あとは頼む、すまなかった』と」
その時の父は、驚くほど弱っていていつもこの国の運命を握っていた手は白かった。
初めてまじまじと見た父の顔。きっと父も初めて娘の顔を見たのだろう。
自分の瞳を見て、髪の色を見て静かに目を閉じた。
「何故、今更謝るのだと。後を任せられるのは構わなかった。でも、父が謝ったことだけは理解できなかった」
「…前王はきっと、心のどこかで許されたかったのでしょうね」
「そうだろうな。私と…同じように」
今ならわかる。
父は、孤独な人だったのだ。
父に自分への愛情があったかはわからない。今となっては確かめる術もない。
それでも父は確かに母を愛していたのだ。国を、民を、自然を、すべてを愛していたのだ。
だからこそ、父は王でなければならなかった。
一人の人間である前に、王でなければならなかった。
愛する妻を亡くし彼に残されたのは己が王であるという事実だけだったのだから。
「それでも、あなたが孤独になる必要はない」
「ギルヴェール…」
「あなたには私がいる」
ただ短いその一言。
誰も今まで与えてくれなかった言葉を、彼は空っぽの器に放り込んできた。
それだけで、満たされる。
「…ありがとう…」
右手に確かなぬくもりを感じたまま、意識がゆっくりと暗転していく。
「傍にいます、いついかなる時でも」
だから、ギルヴェールがなんと言っていたか聞き取ることができなかった。
この二人、ここまで来たらある程度のイチャイチャがあってもいいと思うんですがそうならないのはギルヴェールが二十六歳にして精神が枯れすぎているからだと思います()
参考までに今更な年齢設定をさらすと
リアン 十七歳(もうすぐ十八)
マリア 二十四歳
ギルヴェール 二十六歳
ブラッド 二十七歳
レシム 二十歳
フェレス 二十二歳
前王シルヴァレス 享年四十歳
故王妃アンネリーヌ 享年二十六歳
騎士団長コンスタンス 四十八歳
宰相ルドルフ 五十六歳




