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ゴルワード領に、橙の光が広がる。
太陽が地平線の向こう側に沈み一日の終わりを告げようとしていた。
リアン王子一行は日が暮れる前に領主邸を後にしていた。
若き王子の来訪を喜ぶと共にどうすればよいのかという迷いの海に身を放り投げていた。だから、王子が馬車へと乗り込む姿を見た時は思わず安堵のため息をついてしまった。
きっと気づかれていない。
いや、むしろ気づいて欲しかった。あの王子ならきっと見抜くだろうと思っていたが、それは自分の思い違いだったのか。
もし罰を受け罪を背負うなら己一人でいい。
妻も子供達も使用人も領民達にも誰にも背負わせはしない。
何年、何十年、そして何代目になろうともこの血に流れるのは遠い昔王に忠誠を誓った一人の商人の物だ。
ならば、血に従い生きるのが子孫の役目だ。
例え、それがどんな罪であったとしても。
もう、太陽はその巨体をほとんど隠し今や頭しか見せてはくれていなかった。
出かけていく自分を妻が随分と心配そうな顔で見つめていた。その表情を思い出すと胸が痛む。
一番上の息子はもう十四歳だ。彼にだけは話した。そうしたら彼は混乱を極めた顔をしたが、それでも母と弟妹を守ることを誓ってくれた。
本当は文句だって言いたかっただろう。怒鳴るほどの憤りだって感じていただろう。
まだ幼い息子に重い責任を背負わしてしまった事に一層罪の意識が身を蝕む。こんな父を息子はどう思っているのか。憎んでもいい、弱虫だと罵ってもいい。だが母の事だけは憎まないで欲しかった。
貯蔵庫から少し離れたところに小屋がある。
そこの扉を開けると古くなった蝶番が軋んだ音を立てた。それがまた心臓に悪い。
一見誰もいない、小さな小屋だ。
しかし、一部に敷かれている布を取れば、隠し扉が現れる。
扉を上に持ち上げ開けば下へと導く階段とその先に続く通路。
まさか子供の頃はわくわくして通ったこの隠し通路をこれほど悲痛な気持ちで通る事になるとは思わなかった。
少し歩けば扉が見えた。
ゆっくりとノックをすれば、手荒に戸が開かれる。
「よお、領主さん。遅かったじゃねえか」
「す、すまない。先程まできゃ、客人が来ていて…」
扉を潜った先には、見慣れた貯蔵庫の壁が見えた。
しかしその部屋は今は薄暗くロウソクが二、三本しか灯っていない。
その揺れる炎に照らされるガラの悪い男が五人、自分を下品な笑みを浮かべながら見ていた。
「おいおい、そんな客人より優先しなきゃいけねえもんがあるだろ」
「そうだぜ、領主さん。なんせ、あんたにはこの林檎園と住民達の命がかかっているんだからな」
誰かがそういえば誰かが低く笑った。
男達の名前は知らなかった。知りたくもなかった。そして自分がそんな男達に挟まれ縮こまっているのがなによりも情けなかった。
「た、頼む。金は持ってきた!食事も…だから、民には何も」
「わかってる、わかってるって。あんたが俺らの言う事聞いてるうちはなーんもしねえよ」
恐る恐る、懐から金貨の詰まった袋を取り出した。
この袋の金を満たすのに、どれだけ領民達が身を粉にしているのか。
男達が簡単に飲み食いしている物でどれだけ領民達を喜ばせる事ができるのか。
考えただけで力を込めた拳の爪が皮膚に強く突き刺さった。
袋を見るやいなや奪い取り中身を物色する。
炎に当てられる金色が自分の瞳に光を照り返した。
それが見ていられなくて、思わず目を瞑る。
「…足りねえな」
「……は?」
「だから足りねえって言ってんだよ。こんなはした金じゃなんもできねえ。倍は持って来い」
「な、何を言って…!今は不作の影響もあるし領民達も近づく冬に困っている!これ以上額を上げるわけには…」
そこまで言ってはっとした。
男達が笑いを収め、自分を見ている。
その目は確かに獲物を狩る獣の目だ。暗闇で光り、今にも食い殺そうとしてくる。
「…それじゃあ、いいんだぜ?おたくの領民達の村を一つ一つ襲って、女も金も食物も全部奪っても。もちろん命もな」
「そんな…!」
「手始めにこの村の人間でいいか。ついでに林檎園に火つけて大炎上とかな」
男の事が悪魔に思えた。こんな恐ろしいことを平然と言える人間が存在するのか。
殺され蹂躙される領民達も火を放たれ消えていく林檎の木々も見たくはなかった。
それらはすべて、父からそして祖父から、先祖から引き継いできたこの大事な土地をすべて無に返すというのか。
そんな未来は望んでいなかった。
道はまさに二つに一つ。
選択肢は与えられているようで、どこにも存在していなかった。
しかし、心のどこかでもうひとりの自分が叫んでいた。
それでいいのかと。そうやって、お前は子供達になにが残せるんだと。
そうだ。その通りだ。もしここでこいつらの言う通り金を差し出したとしてもそれで終わるとは限らない。むしろそれをいい気にして果ては子供達にまで危険が及ぶのではないだろうか。
だったら、いっそ…。
「…」
「ああ?なんだその目。文句あるってのか?」
「…」
「なんだったら、今すぐやってやってもいいんだぞ」
震える。
心だけではなく、足も手も身体も震える。芯から恐怖を感じていた。
それでも立ち止まるわけにはいかなかった。
「…と…る…」
「なんだと?」
「こ、断ると言ったんだ!下郎の者!」
「なん…!てめえ!」
生まれて初めてここまで大きな声を出した。
それに激高した男は懐からナイフを抜いた。あれで刺されるのか。きっと死んでしまうだろう。
遠くに思えたそれを気にする事はなかった。
むしろ、強く示した己の意思に歓喜の渦が巻き起こった。
「ただの貴族野郎が…!お前からやってやる!」
男がナイフを振るおうとする。
ああ、もうだめだ。すまないアイリス、私の最愛の人よ。すまない子供達、お前達を守ってやれなくて―
「そこまでだ」




