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小さな猫は、呑気にもリアンの目の前で毛づくろいをし始めた。
その緩みきった自由加減に先程まで怯えていた自分がとてつもなく馬鹿らしく思える。掌にすっぽりと収まる頭部を撫でると、猫はますます緩んだ表情をした。
それにしても。
この猫はこの屋敷で飼っているのだろうか。これほど広い屋敷だし、猫を飼っていても気づかない可能性は高いがだとしたらこの子の寝床はどこなのだろう。
さすがに廊下に野放しと言う事はあるまい、とじゃれてくる猫の毛並みを堪能する。
生まれてこの方、猫や犬には庭に迷い込んできた時に触れ合った記憶しかない。馬と触れ合う事は許可されていたが、猫や犬を飼いたい等とは口にできなかった。
「ふふ、ここまで安心されるとやはりこちらも和むな…」
誰もいないのをいいことに思う存分戯れる。こんな姿はよもやマリアにも見せられまい。
ペロペロと舌で舐められる指の感覚のくすぐったさが新鮮だった。
「…ナー、カナー」
「なあ、もう帰ろうよ…お母様に怒られるぞぉ…」
「や!カナがいなきゃ、や!」
ふと、廊下の暗闇からそんな声が聞こえた。
反射的に立ち上がったリアンに驚いたのか、みゃあっと鳴き声が上がる。
「!カナ!」
「あ、走っちゃダメだよ!」
やがて暗闇から現れたのは幼い女の子と眉を困ったように下げている男の子だった。
予想していた通り、伯爵の子供達だ。おそらく二番目の男子と末の娘だろう。
猫を見つけた喜びからかリアンには気付かなかった。もう遠くへ行っちゃだめよと舌足らずに言う姿は微笑ましい。
そして安心するとようやくリアンの姿が目に入り、飛び上がらんばかりに驚く様子は思わず笑みがこぼれてしまう。
「え、っと…あの…」
「こんばんは。驚かせてすまない」
「おにいちゃん、このひとだあれ?」
「馬鹿っ昨日から王子様が来られているってお母様がお話していただろ!」
さすがに兄の方は知っていたらしい。妹の方は、あまり重大さがわかっていないのか首をかしげるだけだ。
膝を下り、二人に目線を合わせる。これほどの子供達相手ではまだリアンの方が高く見える。
「そんなに緊張しなくていいよ。こんな遅くに猫を探していたのかい?」
「カナ!カナっていうの!」
「この子?」
「そう!」
抱き上げた猫と共に屈託なく笑う姿は幼い。普段は触れない暖かさだ。
また顔の筋肉が緩むが、逆に兄の方は妹がなにか失礼がないか気が気ではないようだ。
「いつも君と一緒に寝るのかな?」
「そう!カナとおにいちゃんといっしょ!」
今度は兄の手を引っ張り猫と一緒に抱き抱える。気恥ずかしそうに視線を逸らしながらも、兄もその手は振り払えないようだ。
二人と一匹と寝ていれば、いなくなったことにも気づくだろう。
「カナがいなくなることはよくあるのかい?」
「ううん。カナ、いっつもあさまでねてる」
そうとなれば、今夜がイレギュラーだったのだ。
今度は兄の方に目線を合わせる。
「カナは、先程あの部屋から出てきた。あの部屋にカナのご飯があるのかい?」
「い、いえ。あそこは父様の仕事に関する物が置かれている部屋なんです。カナが入ると大変だからいつも締め切っているんですけど…」
今度は違う意味で顔が青ざめていっている。きっと二人が猫の面倒を見る約束なのだろう。カナを入れたとばれてしまえば、不可抗力でも兄の方が叱られてしまうに違いない。
申し訳ないが、この機会を利用させてもらう事にした。
「もう夜も遅い。二人共ベッドにお戻り。カナがいたずらしていないかは私が確かめておこう」
「…いいんですか?」
「ああ。子供はもう寝ないと、お母様に怒られてしまうぞ」
そう言って、二人はこくりと頷いた。
利用する事に少し胸が痛んだが、見ないことにする。
猫を抱え、手を振り兄妹と別れる。部屋まで送らずとも、兄がいるなら問題はないだろう。
「…さて」
立ち上がり、開いたままの扉を見つめる。
もう、一人でいる心細さなど消えてしまった。
「偶然か、運命か。もしくは…仕組まれているのか」




