表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

僕を月まで連れてって

作者: 小川かいた

 私が今の職業に就くきっかけとなったある出来事があります。それは今から25年も前、私がまだ小学校の4年生だったときの夏にあった出来事です。その年はいやに暑い夏でした。ちょうど11年周期でやってくる太陽の活動期で、うだるような暑さが連日続いていました。

 その頃から私は天文に興味があり、誕生日に買ってもらった天体望遠鏡で毎晩飽きることなく夜空を眺めていました。といってもそれほど高価なものでもないので、見るといっても月ぐらいのものでしたが。

 そんな時ある人物と出会ったのです。名前も知らないおじさんだったんですが、その人は宇宙へ行くための自転車を作っていました。おじさんはそれに乗って月へ行くといっていたのです。


     ※     ※


 私はその頃、母に言われるまま塾へと通っていました。駅前の大きな進学塾です。母は私を私立の中学校へ行かせたいと思っていたからです。そんなわけで私は塾の、さらに私立進学を目指すクラスヘ入れられました。

 学校のある間は週に4日、学校が終わってから夜の8時くらいまで授業があったでしょうか。それでもまあ遊ぶ時間くらいは多少ありました。しかし夏休みに入って夏季講習というものが始まってから途端に遊ぶ時間なんてなくなりました。ほぼ毎日昼過ぎから夕方まで塾で缶詰にされ、週に1度のテストも高得点を取らなければならなくなってしまいました。

 周りの友達なんかは夏を思いっきり楽しく過ごしていましたが、私には毎週のテストのことで頭がいっぱいでした。私は正直疲れを感じていました。小学生で、と思われるでしょうがその頃はっきりと自覚できるほどストレスが溜まっていたのです。

 体もフラフラとし、心まですさんだようになったある日の塾の帰り、いつもの道が道路工事のために通行止めになっていました。迂回しなければならず、迂回する道にはかなりきつい坂があったのです。通行止めの看板を蹴飛ばしてやりたい気持ちをぐっとこらえ、渋々迂回路を取りました。

 へとへとになりながらもなんとか坂を登り終えて、そこで私はぐったりと道に座り込んでしまいました。少しだけ休んで帰ろうと思い、電柱に背をもたれかけさせてアスファルトヘ直に座り込みました。

 一息つきながら何かを見るでもなくぼんやりと辺りを見まわしました。今まで登ってきた坂道の向こうに夕日が地面の下に落ちていこうとしています。点々と街灯がつき始めました。そして潰れてしまって閉鎖されていた小さな工場に、明かりがついているのが目に飛び込んできました。はじめはそれにまったく気づかずやり過ごしてしまいましたが、はっと気づいてよくよく見てみるとその工場のシャッターが少し開いていたのです。

 私は興味を引かれてその工場を覗いてみようと思いました。疲れていたことを忘れたかのように嬉々として工場に近づき、そしてわずかに開いたシャッターの隙間から中を覗いてみました。

 工場の中は薄暗かったのです。僅かな西日と、そして裸電球だけが光源です。小さいように見えて意外と中が広い工場を照らし出すには弱々しい光源でした。しかしその中にある物ははっきりと照らされていました。

 裸電球の真下に、1台の自転車が置いてありました。しかしただの自転車ではありませんでした。そうですね、ちょうど人力飛行機のような形になっている、と言えば分りやすいでしょうか。鉄パイプで自転車の周りに囲いがしてあり、そこになにかビニールのような透明のものを貼りつけていました。そしてその自転車には、後輪と連結しているプロペラがついていたのです。

 その自転車を前にして、そして私に背を向けて一人の男性が座り込んで作業をしていました。ボロボロで煤けたシャツをだらしなく着て、下はパンツなのか短パンなのかわからないものを履いていました。そんなおじさんは翼に当たるらしい部分を黙々と溶接していました。

 人力飛行機のコンテストに出るつもりだな、と思いつつ私はそこを離れました。覗き見しているのをおじさんに見つかるのも怖いし、なにより遅くなってきたので母に叱られることを心配して、その日はそのまま家路を急ぎました。

 それから何日かたってテストで早く帰ることができた日があったのですが、その時また工場へと行ってみました。怖い気持ちの反面、あの人力飛行機がどんな風になっているかも気になっていたのです。

 工場のシャッターは以前と同じくわずかばかり開いていたのですが中には誰もおらず、それに人力飛行機らしいものにはブルーのビニールシートがかけられて見えません。私は妙にがっかりとしてもう家に帰ろうとしたときです。

「おい小僧」

 突然野太い声が背中から浴びせられました。驚いて振りかえると、あの時のおじさんが私を見下ろしていたんです。

「小僧、いたずらなんかしちゃいないだろうな」

「し、してないよ、そんなこと」

 私はおどおどしながらやっとそれだけ言えました。

「じゃあなぜ覗いてるんだ」

「あの、何を作ってるのかなって・・・」

「精密機械だから触るなよ」

 おじさんはそう言うとシャッターに手をかけ、一気に引き上げました。派手な音を立ててシャッターが開きます。そしておじさんはさっさと中へと入っていきました。私はその場でじっとしていました。

「なにやってるんだ小僧。見たいんだろ?」

「えっ! いいの!」

「特別に見せてやる。おれの自慢の相棒をな」

 私は嬉々として工場の中に入りました。西日だけが明かりだったので薄暗く、そして油や鉄の匂いで充満していました。工場の中は案外広いんですが、あんまり物はありませんでした。だから余計に広くて暗く見えました。

 おじさんが電灯に明かりを入れましたがそれほど明るくはなりません。シートがかぶさっているところだけが明るくなります。そしておじさんはそのシートに手をかけ、一気に払いのけました。ほぼ完成しているであろう人力飛行機が中から現れました。

 フレームもすべて鉄パイプで組んであり、コクピット部分には透明のビニールで覆われています。翼も鉄パイプの骨組みとビニールで作られていましたが、操舵できるような装置はついていませんでした。尾翼部分に大きなプロペラをつけていましたが、これもまた薄い鉄板で作られていました。かなり重たい機体です。本体の自転車についていたスタンドのみで支えられており、そこは今にも潰れてしまいそうでした。

 私は興味津々でそこらじゅうを見て周りながらおじさんに話しかけていました。怖さは消えてなくなっていました。

「ねえおじさん、どこが精密機械なの?」

「小僧には分らねえ所だよ。触るなよ」

「これでどこ行くの? なんかのコンテストに出るんでしょう?」

「月」

「へー、月かぁ。・・・月?」

 私は自分の耳を疑いました。小学生とはいえ、こんな人力飛行機で月へ行くなんて無理だってことは分っていました。ですから聞き間違いかと思った次に、勘違いだと思ったのは当然です。

「ああそうだ。月だよ。空に浮かんでる、あの黄色いやつさ。おれはあそこに行く。こいつはその為の宇宙船だよ」

「う、宇宙船・・・」

 勘違いでもなんでもなく、このおじさんは本気で宇宙に行く気なんです。しかもこの人力飛行機で。

「む、無理じゃないかなぁ」

「なに?」

「だって・・・重くない?」

「バカだなあお前。ちゃんと学校行ってるか? 考えても見ろよ。ジャンボジェットなんてこいつよりずっと重いのに空飛んでるんだぜ。ロケットやスペースシャトルだってこいつよりずっと重いんだぜ。こいつが行けないわけないだろ」

「う、うん・・・」

 おじさんの熱意はすごく伝わりました。それだけ本気だってことも分りました。でも、おかしい人だっていうこともわかりました。ただ私はこの人の話をもっと聞いてみたい、そう思っていたのです。

「おじさんおじさん、これで完成なの? すぐに宇宙行くの?」

「いいや、まだ完成じゃない」

 おじさんはそう言うとズボンのポケットからクシャクシャに丸められた紙切れを取り出しました。何かのチラシの裏に設計図らしき図面が書きなぐってありました。

「小僧知ってるか? 宇宙ってのはな、空気がないんだぜ」

「うん、知ってるよそれくらい」

「だからな、空気を持っていかなきゃなんねえ。それで入り用なもんがあるんだが・・・お前、風船持ってないか?」

「風船? ううん、ない」

「なんだい、役に立たねえなぁ。まあいいや」

 おじさんはポリポリと頭を掻きながら地面に座り込み、先ほどの図面になにやら書き込みはじめました。覗いて見てみるのですが、なにを書いているのやらさっぱり分りません。

「うーんと・・・おじさん、風船ってなんに使うの?」

「空気つめて持っていくに決まってるじゃないか。宇宙でおれが吸うんだよ。それと、地球から出るときにな、こう、浮きにするんだ」

「風船ならなんでもいいの?」

「ん? ああ」

「友達が持ってるかもしれないからもらってくるよ。どのくらいいるの?」

「そうさなぁ・・・10もあればいいか。計算上はな」

「うん分った。また今度持って来る。今日はもう遅いし、母さんに叱られるかもしれないからこれで帰るね」

「おう、気をつけて帰れよ。それと、なるべく早く……な」

「うん、それじゃあね!」

 帰ってから私は母におじさんと出会ったことを話しました。そしてひどく叱られました。母が言うにはおじさんは気が狂ってしまったというのです。

 昔はいい人だったそうです。自動車の部品を作る工場の社長で、小さいながらまあまあ繁盛していたそうです。が、バブルが弾けたときに多額の借金を抱え、親会社から縁を切られ、そのせいで奥さんと子供に逃げられ、しかも連日借金取りに追われていたそうです。それからはずいぶんと荒れていたらしく、それは近所でもかなり有名だったそうです。ある日忽然といなくなり、近所の人も安心していたらしいのです。

 母は私に、絶対近づいてはいけないと念を押しました。

 しかし私はおじさんと約束をしてしまった手前、行かないわけにはいきません。そんなわけで翌日、私は塾へ行く前に幼馴染の家に行きました。

 幼馴染で親友の高橋隼人。今でも腐れ縁が続いています。彼は当時からガキ大将で、周りの人間を引っ張るリーダー的な男です。確かにイタズラなどもしていましたが根はいいやつで、イジメはしませんでしたし、逆に助ける側に回っていたりしたものです。まあそのお陰で私もとばっちりを受けたりしましたが。

 その彼の家に行きました。すると彼はまだ寝ていたらしく、むすっとした表情で玄関口に現れました。

「なんだよ俊、こんな早くに」

「早くってもうお昼だよ?」

「午前中は朝なの。で、何の用?」

「あの……風船持ってる?」

「は? 何に使うんだ?」

「いろいろとね。10個でいいんだけど……」

「水風船ならあるけど……。ちょっと待ってろよ」

 彼はそう言ってヨタヨタと2階へ上がっていきました。ドタンバタンと大きな音がした後、彼が降りてきました。手にはまだ封の切られていない水風船の袋を持っていました。

「新品があったぜ。持っていきな」

「あ、ありがとう。ええと、お金……」

「バカ。オレとお前の仲だろ。タダにしといてやるよ。その代わりさぁ、ちょっと頼みたいことがあんだけど」

 来たか、と思いました。

「あのさ。お前、美紀ちゃんと同じ塾だろ? ちょっとさぁ、プールに誘ってくれないかなぁ。オレはいつでもヒマだからさ、いつでもいいからさぁ」

 彼はこの頃、綾野美紀という子にゾッコンでした。彼は女の子と普通には喋れるのですが、色恋沙汰はまったく不器用で、大体私が面倒見なければなりませんでした。このときもそうです。

「でも綾野さんも塾忙しいよ? それに誘う僕が行けないし……」

「なんだよ。じゃあ水風船返せよ」

「あ、いや……。分ったよ。とにかく伝えるだけ伝えるから」

「おう! 今晩電話待ってるぜ! 塾がんばれよ!」

 誘う本人が行けないのに、どうやって誘えばいいんだろうと思いながら、私は塾へ急ぎました。

 綾野美紀さんは私よりずっと頭のいい女の子です。塾では一番早く来て一番前の席に座り、必ずその日の予習をしていました。その日もそうでした。私は教室につくなり彼女の席に近づきました。

「あ、あの。綾野さん?」

「ん? あ、三宅君。どうしたの?」

「ええとねえ、あの……」

 綾野さんが不思議そうに私を見ていました。私はなんだか緊張して喉を詰まらせていましたが、ようやく言葉になって出てきました。

「あのさ、突然なんだけどさ。プ、プールに行かない? 友達だちと……」

「プール?」

「いやあの、友達に頼まれて……ね。僕は塾があるから行けないって言ったんだけど、友達が行こうって……」

「私も塾あるんだけど?」

「いや、あの……」

 と不意に背中を強く叩かれました。あんまり強かったので私は無様によろけてしまいました。振りかえるとそこには、学校は違うけれど塾で同じの加藤由里がいました。

「プール行くんでしょ! あたしも行きた~い!」

「ええっ!……。あの、誘ってない……んだけどなぁ……」

「こんなに毎日毎日勉強ばっかじゃ腐ちゃうよぉ。あたしも遊びたい、青春した~い! というわけでよろしくっ!」

「あの……加藤さん?」

「ねえねえ行こうよ美紀ちゃんも。一日ぐらい塾サボッたって平気よぉ。ね、行こうよ」

「そうねえ……」

「ああ、あたしを呼んでる声がする……。波の出るプール、大きなウォータースライダー……俊君! ほらほらあなたからももっとプッシュしなさいって!」

 彼女にはいつも押されっぱなしだ。彼女は別の小学校だけど塾に来た最初の日にたまたま席が隣になり、それで仲良くなったんです。というより仲良くさせられた、というのが正しいのでしょうか。気づけば彼女はいつも私の隣にいて、何の因果か中高と一緒になり、大学では学部こそ違えど一緒の大学で、そしてついに一つ屋根で暮らすようになったのです。まああの頃にはそんなこと想像もできませんでしたが。

「ねえねえ行こうよ、パァッとさ。ねえ?」

「ま、たまには息抜きなんてのもいいでしょうね」

「けって~! じゃあいつにしようか? できたら塾のある日がいいなぁ。日曜とかだとさ、ほら人いっぱいでしょ? 平日だったらきっと空いてるよぉ」

 予定は私抜きでどんどん進んでしまいました。


     ※     ※


 塾が終わって、私は例のものを渡すために早速おじさんの所に向かいました。その日はなぜか由里もついてきました。

「ねえねえどこ行くの? ねえねえねえ。ねえってば!」

「どこって……。この坂の上だよ? 届け物があるんだ。ついてくるの?」

「えー、この坂キツいから嫌だなあ」

 私はかまわずに登り始めました。由里は渋々といった風に後をついてきます。

 坂を登りきると、工場はいつものようにシャッターがあけられ、中にはおじさんがいることが分りました。私はシャッターの開いたところから声をかけました。

「おじさん。持ってきたよ、風船」

「ん? ああ小僧か。まあ入れや」

 おじさんはガラガラとシャッターを開けてくれました。中に入って目に付いたのは、くしゃくしゃに丸められた無数の紙切れが地面に散乱していたことです。

「どうしたの、おじさん?」

「ん? ああこれか。いやな、月までどうやって行くかってな。まあ軌道計算ってやつだな」

 私は適当に一つ紙切れを取って広げて見ました。そこには簡略化された月と地球の相関図。そしてその間に点線が描かれており、その周囲には読めない字や数字で細かく書き込みがしてありました。

「おじさん? これ帰りの道書いてないよ?」

「今考えてるんだよ。小僧っ子が余計な口挟むんじゃない」

「あ、それより風船風船。あの、水風船なんだけどいいかな?」

「水風船か……。まあなんとかなるだろう。ご苦労さん」

 おじさんはそう言って地面に座り込み、どこから拾ってきたのかみかんの空き箱を机にしてまた何やら蝶きこんでいました。

「ちょっと、ちょっと……」

 後ろから由里が呼びかけます。由里はシャッターの向こう、建物の影から手招きしています。私はひょいと建物から顔を出しました。

「俊君。ここの人ってアレじゃないの? 危ない人って近所で有名な・・・」

 そう言われて、自分のことではないのになんだか自分がけなされた気がしてムッとしてしまいました。

「少し変わってるけどいい人だよ」

 私はきっぱりと、落ち着いてそう言いました。由里は私がすごく怒ってるように感じたらしく、急にしゅんとなってしまいました。なんだか傷つけてしまったようで、少しばかり私も慌ててしまいました。

「おい小僧、お前の女か?」

「へっ?」

 おじさんが急にそう言って私の肩をがっしりと圖んできました。

「え、いやあの、おじさん違うよ。この子は友達で……」

「まあまあ。妬けちゃうねえ、こんなかわいい子とお付き合いできてなぁ」

 おじさんはニヤニヤと笑いながら私と由里を見ていました。

「あ、あの、あたし。帰ります。それじゃあ」

「あ、おいおい、嬢ちゃん……。いっちまった。せっかちだねえ、ジュースのひとつぐらいおごってやろうと思ってたのに。まあいいや。小僧、ちょっと手伝ってくんねぇか? この風船に空気いれるからよ」

 私は少しばかり由里のことが気になりましたが、どちらかというとおじさんの宇宙船のほうが気になってしまったので、少しだけおじさんを手伝ってからまっすぐ家に帰りました。

 それから私は毎日といっていいほどおじさんの工場へ遊びに行きました。ほとんどはちょっと立ち話して帰っていましたが、時々手伝ったりもしました。そんな風にして幾日か過ぎたある日、私が塾から出てきたちょうどその時、会社から帰ってきた父と鉢合わせになりました。

「お、俊じゃないか。今終わったのか?」

「あ、父さん。お帰りなさい」

「お前も大変だなあ、こんな時間までお勉強かぁ。遊ぶ時間はあるのか?」

「ううん。ないよ」

「大変だ。母さんもほどほどにしてやれよなぁ。勉強も大切だけど、遊びはもっと大切なんだからな。子供にとっては」

 うちの父もちょっと変わった人でした。遊ぶのが大好きらしく、僕もよくいろんな所へ連れていってもらいました。それがあんまり過ぎて、二人そろって母に叱られたりもしました。

「お、今日は満月だな」

 二人並んで歩いていると、父が空を指差して言いました。

「おい俊、あのお月様に人は行った事があるかないか。どっちだ?」

「ある、んでしょう?」

「お、さすが天文博士。詳しいねえ」

 私の天文好きは父の影響も大きくありました。

「ちょうど今から30年前の7月、アポロ11号ってのが月まで飛んでって月に降り立ったんだよ。そして第一歩。その時にこんな言葉がある。『私の一歩は小さな一歩に過ぎないが、人類にとって偉大な一歩である』ってね。テレビ中継されてたんだぞ」

「そうなんだ……。月に行くのってどのくらい大変なの?」

「かなり大変。すごく大変。そりゃあ大変」

「じゃあ自転車で行けるかな?」

「じ、自転車?」

 父は聞き返した後大笑いしました。まあ普通は笑うでしょうが。

「自転車は無理だな、ちょっと」

「でもこの坂の上にね、自転車で月に行くって」

「坂の上? あの変わり者のおじさんか」

「知ってるの?」

「少しだけな。あれはいつ頃だったかなぁ……まだおじさんが羽振りの良かった頃だな。たまったま駅前の飲み屋で知り合って。おじさんも父さんも星が好きで話が合っちゃって。あの時おじさん、今はちまちま自動車の部品なんか作ってるけど、いつか宇宙船作って月へ行きたいって言ってたなぁ……」

「そうなんだ。ふーん」

 それから何気なく歩いていると、父が突然歌を口ずさみはじめました。それは英語だったのでその頃の私には分りませんでしたが、とてもいい歌だなと思いました。それは『Fly Me to the Moon』だったのです。


     ※     ※


 次の日の朝、私は母にひどく叱られてしまいました。どうやら私がおじさんの所へ行ってることが父から漏れてしまったようでした。

「俊、言い付けを守らなかったでしょう」

「何の?」

「あのおじさんに近づいちゃいけない、てあれほど言ったでしょう! それなのにまた行ったんですってね?」

「ええと……、はい……」

「まったく……罰として今日は一日家にいて、しっかりと勉強しなさい。いいわね」

「え、ちょっと! 今日はプール……」

 私は言いかけて、内緒にしていたことを思い出しました。この日は塾を無断で休んでプールに行こうと決めていた日でした。

「何?」

「ううん、なんでもない……」

「分ったら勉強はじめなさい。母さんしっかり見張ってるからね」

 本当にこの日は弱りました。私が部屋から出られるのはトイレに行く時ぐらいなもので、あとはずっと部屋にこもって予習復習をし続けるはめになりました。当然電話なんてできるはずもなく、隼人に事の次第を連絡することができなかったのです。彼が怒っているのは火を見るより明らかでした。そして申し訳ない気持ちが1分ごとに募っていきました。 その日の夜、隼人から電話がありました。

『なんで今日来なかったんだよ!』

 第一声からこうです。相当怒ってるなということがすぐに分かりました。

「いやあの……いろいろあって……」

『いろいろってなんだよ!』

「あの、ええと……」

『お前が来なかったせいで一緒に来てた女子がブーブー文句言ってて、それで美紀ちゃんも今一つノッてなかったんだぞ! なんで来なかったんだよ!』

「でも……」

『でももへったくれもない! もうお前とは絶交だからな!』

 派手な音を立てて電話は切れました。相当怒っているようですが私にはどうすることもできませんでした。塾の行き帰りに寄って話をしようにも、母の目が厳しくてできるとも思えませんでした。

 翌日から私は、夏休みが始まった頃の生活に戻ってしまいました。ちょっとした冒険は終わったのです。私は失望と諦めを感じつつ、母には逆らえないのでただ塾と家の往復、そして勉強の毎日でした。塾では綾野さんは普段通り勉強していました。由里は私の横に座らなくなってしまいました。なんとなく寂しさを感じていました。

 ある日、トボトボと私が塾から家の方へ歩いていると、どこからか聞いたことのある声を聞きました。きょろきょろと捜してみると、あのおじさんがまっすぐこちらに歩いてくるのを見つけました。

「よぉ小僧! 元気だったか?」

 おじさんは相変わらずだらしない格好で、スーパーの買い物袋をぶらぶらさせていました。

「最近見なかったけど病気でもしてたのか? なんとなく顔も青っ白いしよ」

「ううん、大丈夫だよ。ちょっといろいろあってね」

「そうか。ところでよ、例のアレ、ついに完成したぜ」

「ほんとに!」

「おうとも。どうだ、見に来るか?」

 うんと答えようとした時、突然誰かにぐいっと腕を引っ張られました。見ると少し怒ったような表情の由里が、私の腕を引っ張っていました。

「な、何?」

「ダメ、こんな人と付き合っちゃ。だってプール来れなかったのもこの人のせいなんでしょ」

「ちょっと待ってよ……待って!」

 私はこのときすごく宇宙船を見たかったのです。そして思わず力を入れて由里を引っ張り返してしまいました。由里は小さな悲鳴を上げて尻餅をついてしまいました。

「ちょっと見に行くだけだから、邪魔しないで」

 私は由里をそのままにしておじさんの所へ戻りました。

「さ、行こ」

「おいおいいいのか? あのままにして」

「いいの! 元々お節介なんだ、あの子」

「でもなお前……」

「いいんだったら!」

「お、おい……」

 私は一人でずんずんと坂を登りはじめました。おじさんは少し躊躇して立ち止まっていました。

「おじさん、早く行こうよ」

 振りかえっておじさんの方を見ると、その少し向こうに由里の姿が見えました。心配したような、傷ついたような表情を浮かべ、とぼとぼとついてきていました。私は心にずきりと針で剌すような痛みを覚えましたが、それを無理矢理飲みこんでまた坂を登り始めました。

 あの工場に着きました。シャッターは全て開けられ、中の様子がはっきりと見て取れました。西日に照らされた工場の中央に、あの自転車宇宙船が立っていました。きれいに塗装までされており、いろいろと改造もくわえられているようでした。船体部分にはたくさんの風船が積めこまれています。

「うわぁ……」

「へっへっへ。どうだい、すごいだろ?」

「すごい、すごいよ! これで月までいくんだね」

「そうとも。それで食料買ってきたんだぜ。それと……完成を祝って乾杯しようと思ってな」

 おじさんは買い物袋からワンカップのお酒を取り出しました。

「おい、嬢ちゃんもこっち来いよ!」

 おじさんは缶ジュースを大きく振りながら坂の下へと声をかけました。由里が坂の中ほどあたり、電柱の影に立ってこちらを伺っていました。おじさんの一声に一瞬躊躇したみたいですが、由里はゆっくりと坂を登ってきました。

 ちょうどその時です。派手なエンジン音を響かせながら一台の高級車が工場の前に止まりました。そして中からいかにも怖そうな男がふたり降りてきました。

「いたいた、いたぜ、明地さんよぉ」

「あんまし手間かけさせんじゃねぇよ。捜すのに苦労しちまったじゃねぇか、あ?」

 男たちは私を押し退け、おじさんを取り囲みました。

「なんだお前たちか。帰れ帰れ、お前たちに渡す金なんてねえよ」

「んだとこの野郎。てめぇが金借りといて返さないつもりか?」

「借りた? 騏されて借金させられたんだろう。それにあんな利子誰が払えるってんだよ、この脳足りんめ」

「んだと、つけあがりやがって!」

 いきなり男がおじさんの腹に拳を叩き込みました。おじさんは激しくえずきながらその場に崩れ落ちました。男たちは容赦なくおじさんを蹴ったり踏みつけたりしました。

「や、やめろよ!」

 私は咄嵯におじさんをかばいました。しかし男の一人が私の胸倉を掴んで私を吊り上げました。

「なんだこのガキは?」

「やめてよ! 関係ないでしょ!」

 由里が慌てて駆けより、私を吊り下げている男に体当たりします。男がよろけた拍子に私は地面に落ちました。

「舐めたマネしてくれるじゃねぇか、ガキども! ガキだからって容赦しねぇからなぁ!」

「待ちなさいよ、あなたたち」

 不意に車の中から声がしました。甲高いけれど落ち着いた男の声です。車の後部座席の窓がゆっくりと開いて、中年男性が顔を覗かせます。

「カタギさんに手を出すなっていっつも口すっぱく言ってるじゃないの。ほんと申し訳ないねぇ坊やたち。うちのモンは血の気が多くって。だからおじさんたちのお仕事の邪魔はしないでね」

 その中年男性はそう言ってニッコリ笑いました。悪趣味な金歯がきらりと光ります。その男が車から降りてきました。服装もいかにも成金という感じを受けました。きっちりとオールバックに髪を整え、仕立てのよいスーツで身を包んでいました。

 男は倒れているおじさんの前まで来ると、きれいに磨かれた靴の先でおじさんのアゴを持ち上げました。

「ねえ明地さん。たとえどんな事情があろうともさぁ、人様から借りたものはきちっと返すってのが礼儀でしょう? あんたはいつも逃げてばっかり。そろそろ腹くくってもらわんといかんわけよ。目がふたつ? 腎臓も肺もふたつ。それにけっこう元気そうだから保険の掛け時だ。なあに保険料は心配いらんよ。うちがちゃぁんと最高級の保険に入っといてやるからさ。まぁとりあえずゆっくり考えておいてよ。あんなオモチャで遊んでないで、ね?」

 最初に出てきた男たちが工場の中に入って宇宙船に近づきます。

「なんだこりゃ?」

「アポロ14号って書いてあるぜ? バカじゃねぇの」

「ああっ!」

 男たちはいきなり宇宙船を蹴り飛ばし、辺りに落ちていた鉄パイプでめちゃくちゃに壊し始めてしまいました。

「ねえ明地さん。また来るからさ、書類持って。それまでにいろんなこと整理しといてよね。それじゃ。おいお前たち! 遊んでないで帰るぞ!」

「へい」

 そうして男たちは来たときと同じように派手なエンジン音を響かせて去っていきました。

「大丈夫、俊君?」

 いかにも心配顔で、由里が倒れた私を助け起こしてくれました。

「あ、ありがとう。僕は大丈夫……。それよりおじさん」

 私はおじさんに近づきました。おじさんはひとりでなんとか立ちあがり、服についたほこりを払っていました。

「大丈夫、おじさん?」

「ああ、これくらいなんでもないさ。あ~あ、せっかくの宇宙船が」

「完成してたのにね……。ひどいよ」

 おじさんは片足を引きずるようにして歩いています。ゆっくりと工場へ入っていきました。残骸になってしまった宇宙船をしばらく見つめていました。私はちょっと声をかけることができませんでした。

「潰れちまったな……。やり直しか」

 おじさんのつぶやきが聞こえてきました。

「やり直しって……また作るの!」

「当たり前だろうがよ。今度はもっといいもの作るぜ。こんなことぐらいでオレの夢が捨てられっか」

「おじさん!」

 私は慌てておじさんのもとに走り、ぎゅっと握手しました。

「おじさん、僕にも手伝わせて! そして僕も月まで連れていってよ!」

「よっしゃ! 一緒に作るぞ!」


     ※     ※


 それから私は朝晩おじさんの工場に通いつめました。設計の段階からあれこれと話し合い、すぐに設計図は完成してしまいました。次は材料集めです。鉄はおじさんの工場にたくさんあったのですが、すべて鉄で作ってはやはり重すぎるということで、船体は竹ひごを使おうということになりました。しかしそれを買う余裕はありません。

 そんなわけで私は思いきって隼人の家に行きました。

「ここに来んなよ。お前とは絶交しただろ」

「お願いがあるんだ、どうしても!」

「絶交したろ」

「どうしても竹ひごが、竹ひごがいるんだ!」

 隼人は呆気にとられ、それ以上言葉がでなくなっていました。

「おじさんが宇宙船作ってるんだよ。月に行くんだ、僕とおじさんで。でもどうしても竹ひごがいるんだ」

「う、宇宙船? 月へ行く?」

 私は黙ってうなずきました。

「おいおい俊、大丈夫か? 勉強のしすぎで頭おかしくなったんじゃねえのか?」

「大丈夫だよ」

「ん……まぁあがれよ。麦茶飲んで落ち着けよ」

 そうして私は隼人の部屋で1時間ほど、おじさんと出会って今までのことを話しました。隼人もおもしろそうだからと手伝ってくれることになりました。

「こないだはゴメン。こんなことがあって母さんに外出禁止って言われてて……」

「もういいよそんなの。それよりも竹だよ竹。学校の裏の竹林からさ、もらってけばいいんじゃないか? どうだ?」

「うん!」

 私たちはこっそり学校に忍び込んで竹を盗んできました。

 翌日から宇宙船の製作が始まりました。本体はどこからか持ってきたボロボロの自転車。それを鉄で補強するのはおじさんの仕事で、私と隼人は竹ひごを作っていきました。手は切り傷だらけになるし、たくさん失敗もしました。竹が足りなくなるとやはりこっそりと学校から待ってきました。

 製作が始まってから私は塾を休んでいました。それを心配してか由里と綾野さんが、ある日工場を訪ねてきました。事情をしってる由里はあきれ顔で私たちを見ていましたが、綾野さんには不思議な光景だったようです。

「なにやってんの?」

「宇宙船作ってるんだぜ」

 元気に答えたのは私ではなく隼人のほうでした。

「宇宙船? 自転車で?」

「そう。おじさんと月に行くんだ」

 私も恥ずかしげもなく答えました。

「ふ~ん、おもしろそうね」

 そう答えたのは綾野さんでした。私は意外な心持ちでしたが、隼人はそれを間いてとても嬉しそうでした。

「さっすが綾野さん! やっぱり分る?」

「でも手が傷だらけじゃない。ちゃんとバンソーコーはらないと、バイ菌が入っちゃうでしょ?」

 そういって綾野さんは隼人の指にかわいらしいバンソウコウをはっていました。

「むっ! 俊君、明日あたしもバンソーコー持ってくるからね!」

「う、うん……」

 そうして新しい仲間ができました。由里も綾野さんも毎日来るようになりました。さすがに塾を休んで、とまではいかないまでも塾が終われば必ず一度は顔を見せに来ていました。私が塾を休んでいる理由を風邪だと取り繕ってくれてもいましたし、時々おにぎりやお菓子の差し入れなんかも持ってきてくれました。

 そうこうしているうちに船体は完成し、あとは塗装するだけとなりました。竹ひごのボディー、それをラップで包んでいます。中にはヘリウムが詰まった風船が入っています。そして自転車の後ろには竹で作った大きなプロペラ。その下にジェットエンジンのつもりで消火器がついています。

 塗装はみんなでしました。女の子たちはかわいいイラストを。隼人は絵がうまいので宇宙船らしい色をつけていきました。そして全員の名前と、最後に宇宙船の名前『アポロ15号』とおじさんが書いて、遂に完成したのです。

「ありがとう、みんなのおかげで無事に完成した。ありがとう」

「よかった!」

「月に行くぞ!」

 みんなで派手に笑いました。みんなの笑顔はペンキで彩られていました。

「よおし、完成祝いにいっちょパアッとやるか!」

「おう!」

 アポロ……人が月面に着陸してから31年。人はみんなもっと遠くの宇宙を目指しています。しかし今ここに、月面を目指す宇宙船が出来あがったのです。この時の私たちはみんな、この自転車が月まで行けると信じていましたし、だからこそ完成したときは心の底から感勤したのでした。

 ですがその時、またあの派手なエンジン音が聞こえてきたのです。

「あっ!」

「どうしたんだ、俊?」

「前の宇宙船壊したヤツらだ!」

「なんだって?」

 案の定、あの車が工場の前に止まりました。

「おじさん、月へ行って!」

「おう!」

 おじさんはなんのためらいもなく宇宙船にもぐりこみました。

「隼人! おじさんが行くまでなんとかくいとめるんだ!」

「ラジャー!」

 そうして私は宇宙船の後ろに回りこみました。

「おじさん、僕が後ろ押すからペダルこいで! 坂を下って行くんだ! ちょうど今日は満月だよ!」

「よし! 俊、今度は必ずお前も月に連れていってやるからな!」

「うん、絶対だよ!」

 私は力いっぱい宇宙船を押しました。それと同時におじさんもペダルを精一杯こぎます。軽く作っていたつもりなんですが、それでもなかなかスピードが出ません。

「早く、来ちゃうよ!」

 由里が叫んでから、綾野さんとふたりで工場の隅に隠れました。

「くそっ! なんか使えるものは……あった!」

 隼人がみつけたのは、壊れて使えなかった消火器でした。隼人は消火器を掴んで、車から出てこようとする男たちにホースを向けました。

「頼む、出てくれ!」

 隼人がバルブをグッと握ると、祈りが通じたのか派手に白い粉をふきだし始めました。

「うわっぷ! なんだこりゃ!」

「ガキどもぉ!」

「行け!」

 ようやくプロペラが回り始め、自転車が動き出します。そして坂に来たとき、私はジェット代わりの消火器の安全弁を引きぬきました。坂で勢いづいた宇宙船はプロペラを回しながら駆け降りていきます。白い煙がその跡を残していきました。

「くそったれ!」

 突然私は突き倒され地面に転がりました。男が私を張り倒したのです。頭がズキズキと痛みましたが、私は必死におじさんの後姿を見ていました。宇宙船はグングン加速していきます。

「これ! カタギに手を出しちゃいかんと言ってるだろう! それよりも早く後を追わんか!」

「へ、へい!」

 男たちは慌てて車に飛び乗り、車は急発進して飛び出していきました。

「俊君! 大丈夫!?」」

 由里が私のところに駆け寄りそっと抱き起こしてくれます。隼人はもう出なくなった消火器を持ったままぼんやりと坂の下を見ていました。その横に綾野さんが立っています。

「なあ俊、あのおじさん月に行けるかなぁ」

「当たり前だよ。僕たち全員で作った宇宙船だもの」

「そうだよな。行けるよな」

「うん」

 私たちはみんな、空に浮かぶ満月を見上げました。



   おわり

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ