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だから彼は機嫌が悪い





桜井愛花という女が嫌いだ。

隣のクラスの女子生徒であり、紫緒の友人。性格は朗らかでのんびりとしているが、意外としっかり自分の意見を持っており、何より泰成のあの容姿と相対しても物怖じしない度胸は評価に値する。それどころか、自分から積極的に泰成に関わろうとしているとか。

その容姿もまた、柔らかで好感を抱かれやすいものだ。あまり敵を作らないタイプだろう。


けれど俺は、桜井愛花が嫌いだ。理由など至極単純明快。紫緒が彼女を気に掛けるからだ。それも、時には俺の事以上に。

みっともなく、醜い嫉妬である事は重々承知だ。他意なく紫緒と友人付き合いをしている桜井からすれば、いい迷惑だろう。けれど、子供染みた俺の独占欲は、紫緒に俺以外の人間を優先される事を許容できない。

紫緒だけがいれば良い。だから、紫緒にも俺だけのものでいて欲しかった。









五歳を迎えた時点で、周囲を取り巻く全てが憎らしくて仕方が無かった。理由なんて、どこにでもあるような有り触れた、甘ったれた理由だった。

俺からすれば古臭いという言葉を『格式』と言って誤魔化しているだけだが、そこそこの家柄であるが故に子どもらしい我儘は一切許されなかった。


父は厳しく誇り高い人だった。篠宮家の人間として相応しくない振る舞いをする俺を、息子として認めていない様子さえ見て取れた。父から出される課題をこなせない俺に、何一つ期待など寄せない人だった。

母はまるで人形のように感情を見せない人だった。当然のように俺に意識を払う事もなく、ただ父に黙々と付き従う。笑う事も泣く事もなく、困らせないで、とじっとこちらを見下ろすばかり。母が俺に情を向けた事は無かった。


また、そのような家柄であるが故に、周囲は俺を遠巻きにし、わずか五歳の子どもに対しご機嫌を窺うような真似ばかりされた。家の使用人も同様である。

目に見える範囲が世界の全てであった子どもにとって、それだけで何もかもに苛立ち、憎らしさを覚えるには十分だった。もっとも、父にとっては、それだけを世界の全てと感じてしまう度量の小ささもまた、篠宮家の人間として相応しくは無かったのだろうが。


そんな中で、唯一の例外だったのが、宮下家の人間だった。媚を売ろうとするでもなく、恐れて避ける訳でもない。あくまで俺の意思を尊重した上で、子ども扱いをしてくれた。

その中でも、泰成は特にお気に入りだった。子どもの頃から鬼のような顔をしていたものの、性格はあのお人好しのままで。変な所で自分の容姿を気にしている泰成が自ら近付いてくる事は無かったが、俺の事を真剣に案じ、気に掛けてくれている事は幼心に分かっていた。


だからこそ、五歳の誕生日に泰成の妹である紫緒に引き合わされたとき、無性に腹が立って仕方がなかった。

それを正直に表現する事も伝える事も、今となっては気恥ずかしくて出来ないが、当時の俺はぎこちない関係ではあったものの、泰成の事をそれこそ兄のように慕っていた。そんな中で現われた、本当に泰成を兄に持つ存在など、嫉妬の対象でしかない。


更に言えば、その今にも泣き出しそうな情けない顔がひどく疎ましかった。弱々しく、守られる事しか知らない子ども。それを許されているという事が、妬ましくて仕方がなかった。

池に落としたのは衝動だった。蹴り落として、周囲の大人が慌てて彼女に手を貸そうとする様子を、ざまあみろ、と思いながら眺めていた。


しかし、てっきり大声を上げて泣きわめくかと思った彼女は、大きな目をまん丸とさせてこちらを見上げてきた。助けようとする大人など欠片も目に入らないように、ただ俺だけを見詰めたかと思うと、


『きゃああああああああ!』


悲鳴を上げた。しかしそれは、池に突き落とされた衝撃によるものではない。途端に目を輝かせ、胸の前で指を組み、その全身で歓喜を表現して上げられた悲鳴だった。まるで欲に眩んだようなその目は、とても四歳児がするものではなかった。

その異様で奇怪な光景に恐怖すら抱いた俺は、両手を伸ばす紫緒に背を向け、全力で逃げ出したのである。









その日以来、毎日のように紫緒は俺の前に姿を現した。

鬱陶しい、と言葉で拒絶しても、無視をしても、突き飛ばしても、紫緒は変わらずへらへらとだらしない笑顔で俺に纏わりつく。


『斎さま、斎さま』


その上、繰り返し俺の名前を呼んでは、一人で幸せそうに悦に入る。認めたくないが、そのあまりに無気味な様子に、当時はわずかな怯えを感じていた。

紫緒は鬱陶しいほど図々しく俺に纏わりついたが、不思議と俺の苛立ちが限界を迎えるその直前で、すっと距離を置く。何度も怒鳴りつけて追い払ってしまおうとは思ったのだが、その為にいつも怒る時機を逸していた。

いつしか、完璧に拒絶をする機会を無くし、気付けば誰よりも長く共に過ごすようになっていたのである。


『斎さまは、世界一です!素敵です!』


紫緒は、まるで天下でも取ったかのように諸手を上げてそう繰り返した。趣味なのだろうか、と思うほどむやみやたらと俺の事を褒め称えた。おそらく、未だ紫緒の事を疎ましく思っていたあの頃、それでもそばに寄る事を許していたのは、彼女が俺の機嫌を読む事に長けていた事もあるが、それ以上にこのどうしようもない自尊心が満たされたからなのだろう、と思う。


何より、紫緒の言葉には嘘が無かった。俺の事を過剰に評価するが、それはお世辞ではなく、心から口にされていた。その陶酔しきった目が、本心であると語っていたのだ。


『あなたは、素敵な人です。ただ、その心のままで、素晴らしいあなたです』


紫緒は、まるで自分の事のように俺の事で一喜一憂した。俺が侮られれば、俺よりも早く怒りを露わにしたし、蔑ろにされれば、その瞳にじわりと涙を浮かべ、抱きしめる。

初めは、拒絶しようと暴れた。同情して馬鹿にされているような気がした。同時に、知らないその温もりが未知で、恐ろしくすらあった。


『あなたがあなたでいてくれるだけで、愛する人が必ずいますから』


けれど、声を上げる事すら無く、まるで大人のように静かに涙を流す姿に、だんだんと抵抗出来なくなった。一体他の誰が、こんな風に俺の事だけを想って泣いてくれるだろうか。それが奇蹟のような幸福であると、幼すぎたあのときですら直感できた。


紫緒の涙、一滴一滴が、想いの形のように思えた。その涙の数だけ、自身の価値を確信出来た。子どもの小さすぎるその背に、同じく短く小さな手を回す。そのときの満たされるような気持ちは、俺だけのものだった。


『………うん。俺には紫緒がいる』


それだけで良いと思えた。他には何もいらないとさえ思った。初等部への入学よりも早く、

俺の世界の中心に、一人の女の子が立った。









そのときから、俺は紫緒と共に過ごす事だけを考えた。

一緒にいられれば幸せだった。優しくすれば、嬉しそうに笑う紫緒に満たされた。小さな身体で懸命に俺を抱きしめようとするその幼さが、嬉しかった。


小学校へ入学する頃には、両親の事も冷静に見られるようになっていた。父は、篠宮家を盛り立てる事にしか興味の無い人だった。言いかえれば、篠宮家を盛り立てさえすれば、それ以外の事に口を出さない人だった。

だからこそ、俺は紫緒を生涯手離さない為に、父の出す課題に必死で取り組んだ。父の求める跡取り息子の姿を体現して見せた。けして、父に邪魔をされないように。どんなに疲れてしまっても、心配そうに俺を案じる紫緒の顔を見れば、何も苦ではなかった。


紫緒を一生手離さない為に、手堅く最も分かりやすい手段は『結婚』する事である。小学校に入学する時点ですでにそれを目論んでいた俺に対し、紫緒の母は自ら協力を申し出た。曰く、


『紫緒を篠宮家の奥方に相応しい淑女に育てて見せますわ』


との事。見た目こそ楚々とした貴婦人といった様子だが、紫緒だけでなく泰成まで恐れる彼らの母は得体の知れない微笑みを浮かべていたものである。

それ以来、紫緒の『花嫁修業』と呼ばれるものが始まった。紫緒は泣きべそをかきながら取り組み、時には逃げ出そうとしていたようだが、巧みな彼女の母は、見事に退路を塞いでいたものである。


『私がこれを出来るようになったら、本当に斎さまが喜んで下さるんですか?』


正直、今にも泣き出しそうな顔で縋られたときはもう良い、と言ってしまいたくなった。しかし、父に紫緒との結婚を認めさせるには、俺だけじゃなく紫緒もまた篠宮家に相応しいと思わせた方が得策である。その為、そういう訳にもいかないと肯定すれば、紫緒は衝撃を受けて項垂れたが、そのすぐ後には真っ直ぐに背を伸ばし、それなら頑張ります、と気合いを入れた。

俺の為なら、と頑張ってくれるその健気さが何よりも可愛かった。


紫緒は奇跡的に可愛らしい容姿をしていた。泰成は完璧に父親の遺伝子のみを引き継いで強面だが、紫緒は女性らしい母親の容姿を引き継いだ。多少、おっとりした印象の母親と比べると釣り目がちで凛とした面立ちだが、十分可愛らしい範囲である。

そんな紫緒に、時折ちょっかいを掛ける馬鹿がいない訳でもなかったが、そういう馬鹿には一生紫緒には近付きたくない、と思えるような忠告をしておいた。お陰様で、比較的平和な初等部生活を送れたと思う。









紫緒は時折、眩しそうに目を細めた。

例えば、日暮れ時の帰り道で燃えるような夕日の中、まるで何かを懐かしむように、焦がれるように。住宅街を歩く際、民家から漏れる明かりや夕飯の匂い、賑やかな笑い声を聞いては、どこか心細そうに目を細めた。今にも泣き出してしまうのではないかと思った。


『時々、不思議に思うんです。どうして、私はここにいるんだろう、って。全部、私に都合の良い夢のような、そんな気、が……』


紫緒は、純粋な疑問のように静かに呟いた。そんなときの彼女はどこか遠くを見ていて、妙に大人びたその横顔は、俺の事すら目に入っていないようだった。俺はその顔が、大嫌いだった。今にも紫緒がどこかへ行ってしまいそうで、今にも脆く崩れ去ってしまいそうで。


『そんな事、考えなくて良いんだ。紫緒は、俺のそばにいれば良いんだから』


この手の中をすり抜けて行ってしまうのではないか、という不安感から彼女の手を掴めば、紫緒はようやく俺に焦点を合わせ、へらりと笑う。


『斎さま。斎さまがいるから、私はこの世界を信じられます。触れた手がこんなに温かいのは、きっとこれが現実で、本物だから、ですよね?』


泣きそうな顔で問いかける彼女を、幼いながらに抱きしめようとすれば、紫緒は縋りつくように力を込めて俺に抱きついた。

時折、遠い目をする紫緒が、何か不安を抱えている事は分かっていた。その言葉が何から生まれて来るものなのかは分からないままだけれど、紫緒が欲しいのは安心なんだと感じていた。

だから、何も怖い事は無いのだと、そう伝える為に俺はただ、彼女の背に腕を回した。









中等部に上がると、紫緒が不安な顔を見せる事もほとんどなくなり、代わりに不機嫌な顔をよく見せるようになった。

良家の子女令息が通うその学校では、早くから結婚を意識して良縁を探す者も少なくない。おそらく、親からもそうするように教え込まれているのだろう。それによって、一応古くから続く名家と言われる篠宮家の跡取りである俺は、嫁ぎ先として申し分ない相手と目されていた。初等部の頃から家格目当てに近付く女生徒はいたが、その人数が中学生になって急増したのである。ちょうど、男女共に色恋沙汰に興味を持ち始める時期でもあった。


俺には紫緒がいたので全く興味はなかったのだが、不機嫌そうにする紫緒を見るのは正直気分が良かった。嫉妬してくれているのだと思った。それだけで俺の安い自尊心は満たされた。


『浮気はダメです!』


そんな事を言う紫緒をなだめながら、そんな心配はいらないのに、と思った。俺は紫緒しかいらない、紫緒しか見えない。もっとも、妬かれるのが嬉しくて、それを口にした事はなかったが。

周囲で一気に恋愛が盛り上がるにつれて、自然と俺もそういった方面に興味を持ち始めた。肉体的にも男女差が現われる時期だった。気付けば俺の背も伸び、骨格も男性のものに変化していき、対して紫緒の身体は女性らしい丸みを帯びて、俺からすれば華奢で折れそうなほどか弱く見えた。


男女差を意識するのに伴い、当然のようにそういった欲望も俺の中で急成長した。キスがしたいし、当然それ以上の事だってしたいと思った。彼女の全てが欲しかった。

中学生の頃に、一度だけそういう意図を持って紫緒に触れようとしたが、生憎そのときは断られてしまった。


『こっ、こういうのは!まだ、早い、ですっ!』


紫緒曰く、そういう事は高校に進学して仲を深めてから、という事らしい。

彼女の意思を無視して無理矢理事を進めるつもりもなかったので、そのときは我慢する事にした。どうせ、紫緒は俺のもので、時が経てば戸籍上でも自分のものになる。いずれ手に入るものに対し躍起になるほどせっかちでも無かった。


要するに、余裕を気取って構えていたのだ。紫緒がけして自分のものではないのだと気付く事もなく。









そうした、自分自身の思い込みを全て裏切られたのは高校の入学式だった。そのときの俺の感情は、一言で表現出来る。


ふ・ざ・け・る・な


こちらが十年かけて育んできたと思っていた関係は、紫緒にとっては存在すらしなかったらしい。俺一人が勝手に焦がれて、求めて、飢えていただけ。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。自分の盲目的な愚かしさが憎らしくて仕方が無かった。

もういっそ中学生のあの頃、変な余裕を持たずに押し倒してしまえば良かったのだ、と悔む日がくるなど思いもよらなかった。


おまけに紫緒は、高校入学して以来、俺以外の人間―――主に桜井愛花を気に掛けるようになった。初等部、中等部の頃も、紫緒はそれなりに友人を作っていたが、あんな風に目を輝かせる相手は、桜井愛花が初めてだった。

子供染みた嫉妬心である、という事は重々承知だった。けれど、紫緒の気持ちが一切自分に向いていなかったと知った今、友人に向ける関心さえ惜しいと思った。

もういっそ手籠めにしてやれば良いんだと、一切の気遣いや遠慮を振り払う事に決めた頃だった。


「きゃああああああああああああ!」


スーパーの帰りにコンビニに寄る、と紫緒が言いだしたその日、俺は初めて彼女にこの手を振り払われた。外で待っていたのだが、いつまで経っても戻って来ない為に、店内まで迎えに行ったのだ。

そして、俺が紫緒の手を掴んだ瞬間、何故だか潤んだ目で見上げられたかと思えば、紫緒は真っ赤になって絶叫し、俺を拒絶して走り去ってしまった。


「…………………………………え………?」


あの俺を見てはにやにやとしていた紫緒が、俺の手を振り払う。そんな事は考えた事がなかった。紫緒はどうやら俺の容姿がいたく気に入っているらしく、よくうっとりとしていたのに、俺の顔を見て悲鳴を上げられた。


何故だ。こんな事は一度も無かった。初対面の時の黄色い悲鳴とも違う、あんな、化け物でも見たかのような激しい悲鳴。

現状が理解できずその場に立ち尽くした。追いかける事などとてもじゃないが出来なかった。それほどに混乱していたのである。


ようやく動き出せるようになり、思わず鏡で普段と変わりない自分の姿を確認してから帰路につく。

きっと何かの間違いだったのだ、と言い聞かせながら帰宅した。しかし、そんな俺の願望も虚しく、何故か俺よりも遅くに帰りついた紫緒は、俺を見ると今にも泣き出しそうな赤い顔で逃げ出すようになっていた。


これまで全く考えた事も無かった紫緒に避けられるという現状に、想像以上の衝撃を受け、俺には彼女を問い詰める事も出来なかったのである。








読んで頂きありがとうございます。

書きながら、斎が紫緒を好き過ぎて初めて少し、可哀相になりました。どうやら私にもまだ、罪悪感というものがあったようです。


今がチャンスだと知る由もない斎は今、割と真剣に、ショックを受けています。ちなみに、チャラ男は全力で息を潜めています。関わりたくない。


最後に一つ。

手篭めだとか押し倒すという行為は、合意かコメディーのみ可です。良い子の皆はそこの所守ってくれますように!←



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