だからお兄ちゃんは口数が少ない
斎様は完璧な御方である。
学問に秀で、武芸に通じ、器用で何事もソツなくこなす。大衆を見渡す目を持っていれば、些細な変化を見逃さないきめ細やかな感性を持つ。おおよそ完璧な人間と言えるだろう。これに加えて容姿まで端麗なのだ。奥様の美貌に旦那様の精悍さを兼ね備え、絶妙な塩梅で成り立っている。
唯一の難点を上げるとすれば、少しばかり横暴で我儘、唯一と決めたもの以外への容赦のなさ。要するに性格だった。
「何なの、馬鹿なの。おまえの妹は頭おかしいんじゃないか」
春から三人で暮らし始めた3LDKのリビングで俺は組み伏せられていた。より正確性を喫すならば、床に倒されてその背中に斎様が座っていた。彼らが幼い頃には、斎様や紫緒の子守りとして椅子役もしていたが、さすがに高校生男子に乗られた上にぐりぐりと体重を掛けられるのはただの嫌がらせでしかない。
俺は彼の言葉に、溜息交じりに答えた。
「馬鹿ですよ。どうしようもない馬鹿なのは周知の事実ではありませんか」
ついでに変態で在る事を、幸いな事に斎様はご存知ないのである。
正直な気持ちを言えば、斎様には同情する。
幼い頃から、あれだけ真っ直ぐな好意を浴びるように向けられて、絆されるなという方が無理がある。更に言えば、幼少期の斎様は器用ではあったものの、今のように飛びぬけて優秀だった訳ではない。常に結果だけを求めるご両親に失望を向けられるのは必然だった。
そんな中で、他の誰よりも自分だけを見て、そんな自分を全肯定し、万感の信頼を向けてくれる対象を、どうして邪険にし続けられるだろうか。それを求めて、一体誰が責められるというのだろう。紫緒の好意はまるで毒のように斎様を侵食した。
二人が出逢った当時、十三歳だった俺は、まだ何も気付かずにただ安堵していた。生まれた当時から知っているからこそ、斎様の現状には胸を痛めていたし、それまで溌剌としていた妹が四歳を迎えて急に情緒不安定になって心配していた。当時すでに斎様はかなり難しい子どもに育っており、紫緒は常に何かに怯えた様子で、自身の顔が凶悪であると自覚のあった俺は、とてもじゃないが安易に二人に近付く事も出来なかった。
そんな中で、母が二人を引き合わせる事を提案した。二人とも大人ばかりの環境で生活していたので、同い年の友達が出来れば良い変化も起きるのではないかと期待したのだ。二人とも五歳になる事もあり、紫緒が篠宮家に挨拶に向かうタイミングとしても良かった。
その結果、フィーバーした。つい先日まで常に泣きべそをかいていた妹が、喜びの歓声を上げた。実に異様な光景だった。斎様に池へと落とされて呆然としたかと思えば、諸手を上げて歓喜した。俺は妹の変化を喜ぶよりも、その激変に恐怖した。池に落とされた際に頭でも打ったのかと思った。
紫緒はそのときから、急に性格が固定された。四歳児とは思えないくらいに自分の意思をしっかりと持ち、泣く事もほとんどなくなった。代わりに、斎様へ異常な執着を見せ始めたのである。
人間不信、というよりも蔑ろにされた事で反抗期を迎えていた斎様にどんなに邪険にされても、紫緒はしつこく食い下がった。むしろ邪険にされるとニヤニヤするほどで、ねちっこい視線に俺の方が怯えた。時々ハアハアと言っていたような気もする。
その割に紫緒は五歳の少女である事を思えば、不思議なくらいに察しが良く、どんなにしつこくしていても斎様が限界を迎える寸前ですっと引くのだ。その為に斎様は紫緒を拒絶するタイミングを逃し、いつの間にか紫緒の存在を許容させられていた。
そして、何よりも我が妹の性質が悪いと思う所は、その愛情が本物である所だった。自分勝手に斎様に付き纏うようでいて、確かに誰よりも彼を想っていた。
斎様を侮られれば憤り、蔑ろにされればまるで彼の代わりというように涙を流す。声を上げる事もなく、ぽろぽろと溢れる涙はまるで大人のようだった。
『紫緒が、おそばにおります。あなたは、とてもすてきな人です。かならず、わたしが斎さまにふさわしい幸せをあげますから』
紫緒はそう言って斎様を抱きしめた。彼がまるで怯えるように暴れたのは始めの内だけで、やがて抵抗を止め、次第に自ら腕を回すようになり、最終的には涙を流す紫緒を斎様自身が宥めるようになっていた。
『いいんだよ。おれには紫緒がいるんだから』
二人が小学校に入学する頃には、斎様にとって紫緒は特別な存在へとなっていたのである。
二人はどんなときも共に過ごすようになっていた。紫緒は『自分が斎様を幸せにする』と言って憚る事は無く、斎様もまた『紫緒がいればいい』と臆面なく口にするようになっていた。
この頃から、斎様は人生の比重を紫緒に傾けるようになる。小学校に入学した時点で、斎様は紫緒を永遠に手離すつもりなどなかったのだ。今思えば、とんでもなくマセた子どもだった。
篠宮家は代々続く名家である。旦那様は誇り高く厳しい方で、何よりも『篠宮家』の繁栄を優先する方だった。その為に結果を出せない斎様は蔑ろにされていたのである。
旦那様は、旦那様にとって不出来な斎様の生活を完璧に管理する。当然、唯一の跡継ぎである斎様の将来の花嫁もご用意するつもりだったのだろう。それを斎様もよく理解していた。
だからこそ、斎様は結果を出した。紫緒と息抜きをするとき以外は血の滲むような努力をし、旦那様から出される課題に完璧に応えた。
それにより、斎様は旦那様に意見する権利を得た。結果が全ての旦那様だが、結果さえ出せば誰よりも公正で寛容だった。斎様は篠宮家の跡取りとして完璧で居続ける事で、紫緒を花嫁に迎える権利を手に入れたのである。
それに合わせて、我が家一恐ろしい母が斎様の計画に乗った。まだ小学校低学年だった紫緒への花嫁修業を開始したのである。その上、紫緒は子どもとは思えないくらい要領が良いので、指導する母は留まる事を知らず、小学校を卒業する頃には、紫緒はどこに出しても恥ずかしくない、それこそ篠宮家の花嫁に相応しい淑女に仕立て上げられた。その本性、変質的な性格以外は。
家事炊事はもちろんの事、裁縫や着付けに茶道や華道。俺だったら逃げ出す。というか、紫緒自身も逃げ出そうとしていた。ただ、母を恐れて叶わなかっただけで。加えて言えば、母の『斎様も喜んで下さるでしょうね』の一言でぐずりながら頑張っていた。可哀想に。
誰もが二人の将来を信じて疑っていなかった。俺自身、二人はあれよという間に二十歳前後で結婚させられると思っていた。
俺だけが真実を知ってしまったのは、二人が中学校に入学したときの事だった。
その頃、紫緒は荒れていた。
初等部から持ちあがりで中等部に入学したのだが、周囲が途端に色気づいてきたらしい。元々、初等部の頃から家柄、能力、容姿共に非常に優秀だった斎様は早熟な女子生徒に目を付けられていたらしいが、その人数と周到さが急激に増したらしい。紫緒はそれを撃退する為に、常に気を張っていた。
対照的に、斎様はいたく機嫌が良かった。紫緒が自分の事で必死になる事が嬉しかったのだろう。嫉妬されている、と思っていたのかもしれない。
俺は、自宅で疲れた溜息を吐く妹を慰めようとした。どんなに魅力的な少女が現われても、斎様の目にはおまえしか映っていない、とそんな事を伝えようとしたのだったと思う。
『早く高校生になりたい』
しかし、俺が口を開くよりも早く、紫緒はぽつりと呟いた。俺は不思議に思ったものである。高校生なんて、余計に色恋沙汰が盛り上がって大変になるだろうに、と。
『だって、きっと高校生になったら素敵な出逢いがあるの!斎様に相応しい彼女が出来てしまえば、周囲も邪魔なんてしないだろうし』
言葉を失った俺をどうか責めないで欲しい。言葉の意味が理解できなかった。まるで走馬灯のように二人を見守って来た記憶が脳裏を駆け抜けた。
『…………………紫緒、斎様が好きなんじゃないのか』
妹はきょとんと目を丸くさせ、
『もちろん大好きだよ。だからこそ、斎様には幸せになって欲しいの!いつか出逢う愛する人に愛されたなら、きっと斎様は幸せだよね。それまでは私が守らないと!』
拳を握って意気込んだ。とても残念な事に、その目が本気であると兄には分かってしまった。
斎様の紫緒へ向ける愛情は本物である。それは、紫緒も同じだと思っていた。何せ、二人が共にいれば、イチャついているようにしか見えない。斎様が多少『戯れて』も、紫緒は赤くなって慌てるだけでけして嫌がらない。
俺は、思わぬ所で真実を知ってしまい、恐ろしい勢いで血の気が引いた。盛り上がっている周囲にはもちろん、斎様にはとても聞かせられなかった。
俺は悩んだ。元々凶悪な顔が悪化していると妹に指摘されるくらい悩んだ。結果。
知らないフリをする事に決めた。
何事もなるようにしかならない。真実が明るみになる前に紫緒が斎様を恋愛対象としてみてくれれば良いのに、そんな願望はまあ、当然というべきか願望で終わった。
真実は高校入学と共に斎様本人の前に姿を現した。
まだ、実家の方にはこの事を知らせていない。斎様自身にも余計な報告をするな、と言われた。一応二人のお目付け役としても共に暮らしているのだが、俺自身も余計にこじれそうなので伝えるつもりはなかった。やれ破談だなどといった話になれば、不機嫌通り越して何かが爆発しそうな斎様を刺激したくない。
「ほんの一月前までは馬鹿な所も可愛いと思っていた。でも今では馬鹿すぎて腹立たしい」
斎様に背中に乗られているこの現状は、完全な八つ当たりだった。理不尽にも思うが、それは甘んじて受け入れる。俺には、真実を黙っていた負い目がある。ちなみに、今紫緒は買い忘れがあった、とスーパーに行っていた。
しかし、斎様にはご同情申し上げるが、俺の率直な感想を述べると斎様も悪い。
斎様はご両親に蔑ろにされていた幼少期が原因なのか、向けられる愛情には敏感だが、自身が向ける愛情には無頓着な所があった。紫緒を愛でている事も過保護なくらい気を使っている事も見ていて分かるが、実際にそれを『好き』や『愛』といった言葉で伝える事がないのだ。
更に言えば、これまでの斎様は紫緒に愛されているという自負があった。おそらく、少なからず自惚れていた。からかったり、わざと他の女性を褒めてあたふたする紫緒を楽しんでいた。その一方で、紫緒に近づく男を色んな意味で完膚なきまでに叩きのめしていたが、それをおくびにも出さなかった。多少は自業自得でもあると思う。
「泰成、知っていて黙っていただろ。現状を知ったときの反応が驚きじゃなかった」
「………いや、まあ、それはその、何事も平和が一番ですし」
「嘘つけ。面倒がった事くらい、分かってる」
図星を突かれた。正直、真実に気付いたとき、それを斎様が知った後の狂乱だとか処理が非常に面倒くさそうだったので目を逸らしたのだ。何事も平和が一番である。俺にはそれを自ら壊してまでどうにかしよう、という気概がない。実際、何もしない方が、気付かない方が皆幸せだった訳であるし。
多少の八つ当たりは覚悟していたので、俺はひっそりと溜息を吐いた。
最近、妹の友人であるらしい、桜井という生徒によく話しかけられるようになった。
小柄で華奢な、いかにも女の子らしい少女である。大人しそうで、俺のような人間には近付くべきではない少女だが、桜井は全く怯える事なく寄ってくる。どうやら花が好きなようで、花壇の手入れをしている様子を眺めたいそうなのだ。
正直に言って、少し嬉しい。この凶悪な容姿のせいで人から避けられる事が多いので、こんな風に誰かとゆっくり話せる時間は貴重だった。全く、有難い事である。
「おおおお兄ちゃんは大人だから間違いなんて起こさないよね!」
すると、何故か紫緒が困惑した。涙目で縋りつきながら否定の言葉を求めている。
原因には気付いていた。おそらく、紫緒の事になると途端に視野が狭くなる斎様は気付いていないが、端から見ればよく分かった。明後日の方向に斎様の幸せを夢見る紫緒にとって、桜井は斎様の奥様の最有力候補とされていた。
特別親しい訳ではないが、そもそも俺が誰かと、特に女性と話をする事自体が珍しい。その分、周囲からは少し話しただけで特別親しく見えるのかもしれない。
「お兄ちゃんは、斎様の恋路の邪魔なんてしないよね!?」
俺がそう考えている内にも、紫緒はどんどんヒートアップしていき、頭を抱えて唸りだす。
「だって、お兄ちゃんは見た目こそ怖いけど、じっくり話せば誰とでも仲良くなれると思うの。でもでも、斎様の頑なな心を融かそうと思えば生半可な人じゃ………」
頑なにさせているのはおまえだ、と思っただけで口には出さなかった。混乱している紫緒に言った所で聞こえない事は、十五年の兄歴で学習済みである。
紫緒はあー、とかうー、とか妙な唸り声を上げながら思い悩み、一度深呼吸すると覚悟を決めたように強い瞳で俺を見上げた。
「お願いだから、斎様の好きな人は取らないでね」
…………………………………………。
一頻り言葉を失ってから、今度は俺の方が唸りながら答えるはめになる。
「それは無いから安心しろ。倫理的に無理だ」
だっておまえ俺の妹だろ。そう口に出して伝えたいが、言った所で正しい意味を理解してくれない気がするので口を噤んだ。何より、斎様の恋愛感情が自分に向けられていると知って、万が一紫緒が斎様を振ってしまったら事である。
安堵して息を吐く妹の頭を撫でながら、どうか斎様に恋をしてくれ、と念を送っておいた。
無駄にならないと良いのに。
読んで頂きありがとうございます。
お兄ちゃんは特別面倒くさがりという訳ではない。ただ、この二人に関してはもう勘弁してくれ、と思っている。
ゲームだと、
斎五歳以降からじんわりと斎の心を解きほぐして信頼される泰成。
紫緒という原動力がないので、それでもかなり優秀だがまだ父の要望には届かない斎。
しかし、ヒロインと出逢い原動力ゲット。
自宅にヒロインを連れていき、篠宮家には相応しくない云々かんぬん言われるが、そこで自分の選んだ人だから文句など言わせない、と一皮剥けるイベントがある。
選択肢によっては両親と和解させられる。