だからお兄ちゃんはバレンタインが苦手
俺には、似ていない妹がいる。
完全に父親に似て、高校生でありながら同級生どころか教師にまで怯えられる強面の俺とは違い、普通の子どもらしい容姿の妹だ。身内の贔屓目を承知で言えば、それなりに可愛らしいと思う。
俺のこんな容姿を怖がらずに駆け寄ってくる姿は単純に嬉しいし、時々妙にませた事を口にする所も大人からすれば微笑ましい。年が離れている為か、小さな身体でちょこまかと動き回る様子にはふと和むものがあった。
十代も後半になって家族を妙に気恥ずかしく感じる部分は出て来たが、それでも妹は可愛いし、母は少々恐ろしく、一応父の事も尊敬している。
しかし、妹よ。何故この場でそれを俺に渡す。
「ハッピーバレンタインだよ、おにーちゃん!」
妹は喜んでくれる事を欠片も疑わないような純粋な笑顔で、俺にピンク色のレースのイラストが描かれたラッピング袋を渡してくる。透明のその袋の中には、ハートの形をした沢山のチョコレートが見えた。
「あ、あぁ。ありがとう…」
笑顔が引きつりそうになるのを堪えながら、期待に胸を膨らませたように顔をキラキラと輝かせる妹からそのチョコレートを受け取る。非常に受け取り難かったが、俺には純粋な妹の好意を無碍に出来なかった。
八歳になる妹はその年齢にしては異様に器用で、母の英才教育により、簡単な料理ならすでに一人でも作れる。そんな妹が作ったチョコレートは、八歳児が作ったとは思えないほど見栄えも良かった。昨夜自宅の台所で作っていたので、溶かして固めただけだとは分かっているが、それでも八歳でここまで綺麗に仕上げられる子どももそういないだろう。
そこだけを考えれば自慢の妹だとも思えるし、八歳児が作ったそのチョコレートを食す事自体に勇気が必要な訳でも無い。
では、何故、それを受け取る事にこうも躊躇いを覚えるのか。それは、妹の背後にへばりつく存在にあった。
「………ハート……」
低く、ボソッと呟かれた言葉に、反射的に身体が震える。いや、落ち着け、俺。相手は八歳の子どもだ。何も怯える必要はない。彼の意向一つで俺の将来などぺしゃんと潰せてしまうが、それは妹が止めてくれるはずだ。何より今感じているのはそういう現実的な恐怖では無く、もっと抽象的なもので。
「んん?斎様も、ハートがよかったですか?でも、あのおおきさだとクマさんの方がかわいいとおもうんですよね!」
妹よ、そうじゃない。可愛いか否かなどどうでも良いのだ。一般的にハートが愛情を示している為に彼は不満を覚えているのだ。
彼、我が宮下家が代々お仕えする篠宮家の跡取りである篠宮斎様は、まるで自分のものだとでも言うように背後から妹の腹に手を回してへばり付きながら、俺を恨みがましげに睨み上げて来る。八歳児同士が仲良くしていれば愛らしいはずなのに、この殺伐とした空気は何だろう。
就学前、というか妹に出会う前は、むしろ俺によく懐いてくれていたのに。出会って以来、妹に溢れんばかりの愛を注がれた斎様は、この世の何よりも妹を大切に想うようになっていた。その嫉妬心は半端ない。兄である俺へも向けられるのだから。
「斎様、斎様はクマさんきらいでしたか?」
今初めてその可能性に気付いた、という様子の妹が、不安そうに斎様を見上げる。妹は、斎様にはクマの顔型のブラウニーを作っていた。俺へ渡した溶かして固めただけのものとは手間暇が全く違うのだが、それだけで嫉妬心は宥められないのだろう。本音を言えば、そもそも自分以外の誰かにチョコレートを渡すだけで不満のはずだ。
顔だけ振り返って、今にも泣きそうなくらい不安を滲ませる妹の視線に、斎様はうっと言葉を詰まらせる。おそらく、斎様はクマを好きでも嫌いでもない。彼は幼いながらに、そんな事に心を割くような人間ではない。
だから、斎様がたじろいだのは、クマではなく妹が好きだからで。
「………きらいじゃない」
結局彼は、若干八歳にして『折れる』という事を覚えたのだ。自身の中に渦巻く複雑な葛藤を誤魔化すように妹の肩口に顔を埋めると、妹はぱっと花咲くような笑顔を見せた。
「よかった!」
嬉しそうに声を上げて、それでも顔を上げない斎様へ、妹はふと子どもらしいその笑顔を収めると、まるで彼よりずっと年上の女性みたいな微笑みを見せた。穏やかで慈しむような、そんな温かい表情だった。
妹が斎様へ大騒ぎをして愛を注ぎ、それを彼が適当に受け止めるのが、普段の二人の関係だった。けれど時折、こうして斎様が幼子らしい我儘や甘えを見せたとき、妹はそんな風に、まるで俺と同じ年頃の少女のように大人びた微笑みで彼を見詰めるのだ。
「………斎様、あなたのしあわせが、紫緒のしあわせですから」
慈愛の籠った言葉は、きっとするりと彼の心に届いた事だろう。
「先生?」
首を傾げると、綺麗な髪がサラサラと流れる。白い頬はほんのりと赤く、俺を呼ぶふっくらと艶のある唇は愛らしいピンク色をしていた。
「どうしたんですか?遠い目をして」
俺の顔を直視しても怯えない貴重な存在である桜井愛花は、純粋な疑問符を浮かべて俺を見詰めている。色素の薄い丸い瞳は相変わらず愛らしいが、ふと伏せた視線には絶妙な憂いを感じさせ、彼女は高校の三年間で随分綺麗になった。子どもらしい頬の丸みもなくなり、身長と共に手足もすらりと伸びた。これで品行方正であり、成績優秀で運動神経まで良いのだから驚きだ。神様は贔屓目が過ぎると思う人もいるだろう。
しかし、俺は知っている。彼女のその才は全て、彼女自身の努力によるものだと。
そんな桜井に、バレンタインデーに有難くもチョコレートケーキをもらって、うっかり遠い昔の事を思い出してしまった。今となっては良い思い出となれば良いのだが、今となっても厄介な思い出である。何しろ、バレンタインデーはその後も毎年訪れたのだから。
「いや、何でもない。ありがとう」
「美味しいと、良いんですけど………」
それを誤魔化してお礼を言えば、桜井は恥じらうように頬を染めた。桜井の手作りチョコをバレンタインデーに受け取れるならば、例え腹を壊したって良い、と考える男はそれこそ山のようにいるだろう。それなのに、いつまでも謙虚な所は彼女の美徳だ。
そんな桜井は、この高校三年間、俺に毎年チョコレートをくれる。今なんて、すでに推薦で大学も決まり、自由登校期間中であるにも関わらず、どうやら俺にチョコレートを渡す為にわざわざ登校してくれたようなのだ。
桜井には、彼女が一年生だった夏休みに一度、好きだと言われた事がある。そのときは正直彼女は目が悪いか、ゲテモノ好きなのかと思った。自分自身の顔の怖さくらい、嫌になるくらいよく理解している。
けれど、その後も一緒に過ごす内に桜井の視力に問題はなく、極一般的な感性をしており、どうやら俺の何かが彼女の琴線に触れて好意を持ってくれたという事がだんだんと理解出来てきた。桜井は真面目で、素直で、時々少し抜けていて、何より心優しく、人の事を真っ直ぐと理解しようとしてくれる少女だった。
好きだと言ってくれた桜井は、まだ返事をしないで良いと言った。そのまま走ってその場から立ち去り、その後返事の催促をされる事もなく、結局俺は一度も人生初の告白に返事をしないまま、今を迎えている。
今の桜井が、俺の事をどう思ってくれているのかは、分からない。願望かもしれないが、今でも嫌悪を抱かれている様子はないように思える。少なくとも、学校の先生、友人の兄へ向ける程度の好意はある、と信じたい。
三年間、桜井を見て来た。いつだって可愛らしい笑顔を見せ、時に俺が落ち込んだときには、黙って隣に寄り添ってくれた。花壇の前で顔に泥を付けて笑う彼女は、キラキラと輝く宝物のように眩しく思えた。
「大事に食べる」
十代の三年間は長い。人が変わるにも、気持ちが変わるにも十分な時間だ。だから今更、そんな事を言っても遅すぎるのかもしれない。けれど俺もあの暑い夏の日に真っ直ぐな言葉を向けてくれた彼女のように、今ここにある気持ちを正直に伝えたいと思うから。だから、君の卒業式には―――――――
今度は俺が、君を好きだと告白しても良いですか?
読んで頂き、ありがとうございます。
フライングバレンタイン話でまさかのお兄ちゃんのお話です。もうキューピッドは書かないと決めたはずなのに、仲の良い小さい子を書きたくて欲望に負けました。
ついでだから愛花ちゃんにも友情出演してもらいました。
読む順番がややこしくなるかな、と思ったので番外編Ⅱを作りましたが、今度どしどし更新していく予定とかは特にないです。