恋という仁義なき戦い
最早消えてしまいたい。
そう思うのも致し方ないと誰か言ってくれ。私はつい先日、前世からお慕いし、四歳で出逢って以来お側に控え、数ヶ月前から所謂男女交際をさせて頂いている斎様からこう言われた。
『顔も見たくない』
死にたい。割と真剣に。いや、死なないけども。
王子様に愛される事も叶わず、泡となって消えてしまった人魚姫は、あれはあれで良かったのではないかと思う。彼女は愛されなかった。愛されないと分かっていながらそばにいて、別の女性と幸せになる様子をそばで見続ける事は、きっと死ぬより苦しい。泡になるなんて悲劇的だけれど、そうして消えてしまう事が彼女にとって苦しみからの解放になったのではないだろうか。
要するに何が言いたいか。私は消えてしまいたい。
あの日以来、斎様と一言も口を聞いていない。食事は兄も含めて一緒に食卓についているが、その間斎様はけして私を見ない。食卓には兄を含め、痛々しい無音のみが鎮座している。斎様は私がどんなにチラ見しても、まるで気付いていない様子である。周囲の気配に聡い斎様が、気付いていない訳ないのに!
食事以外の時間は徹底して自室に籠り、廊下ですれ違う事さえない。同じ家に住んでいるのに、有り得ないほど斎様の気配を感じない。あの寝起きの悪い斎様が朝になればいつの間にか一人で起床しているのである。普段一生懸命起こしていた私の苦労は何?と思いつつも、そうまでして私と関わりたくないのかと、真剣に枕を涙で濡らした。
「何があったんだ」
「わ、分かんない……」
顔面を蒼白にした兄が私の肩を掴んで揺する。深夜でも分かるくらい青褪めた兄は、あの気まずい食卓にとうとう耐えかねたのだろう。斎様が寝静まった頃に私の部屋に来て、宮下兄妹作戦会議が行われる運びとなった。
斎様がどうしてあんなに怒っていたのか、私にはよく分からない。結果的に嘘を吐いた事になってしまったからだろうか。けれど、当初の予定が少しくらい変わる事なんて珍しくも無いはずだ。第一、今までそんな事で怒られた事はなかった。というか、ああまで真剣に怒っている斎様を見たのさえ初めてだった。あ、まずい。また涙が。
私のしどろもどろな状況説明に真剣に耳を傾けてくれた兄は、最後まで聞くと全力で頭を抱えた。
「おまえ、それは………おまえが悪い」
「ど、どこが!?」
兄は飛び付いて解説を願う私に、わざとらしいくらい大きな溜息をついた。呆れられている、完全に呆れられている!
「斎様かすれば、桜井との食事を隠れ蓑に『男』と会っていた、という感覚なんだろう。それも、自分には言えないような秘密を相談する為に」
「だって、斎様の事を相談したかったのに!斎様に言える訳ないじゃん!」
おまけに相手は堂本浩太である。あの、私を女の子と一切認めてくれない堂本浩太である。
「まあ、紫緒が馬鹿な事はご存知であるし、まさか本当に浮気だ何だと疑っている訳ではないだろうが、色々と煮え切らない部分があるんだろう」
「お兄ちゃん、さり気なく酷い」
確かに私、馬鹿だけど。よく単純だとも言われるけど……主に斎様に。そう思うだけでまた涙腺が。
「早く謝ってしまえ。そして頼むから仲直りしてくれ。いちゃつかれるのも中々居心地悪いが、今の胃が痛い状況よりはマシだ」
そう口にする兄は遠い目をする。心労からかここしばらく兄まで顔色が悪いが、きっと兄のそれに気付く人はなかなかいないだろう、と思う。何しろ、怖すぎる兄の顔面である。そもそも顔色に注目出来るほど、真正面から兄と向き合える人は少ないのだ。
そうした兄のアドバイスを受け、斎様ととりあえず話し合おうと奮闘するが、徹底的に避けられている私はまた一人枕を濡らした。
「ねえ、紫緒ちゃん。最近宮下先生の顔色が悪いんだけど、何かあったのかな?」
例の強面兄と真正面から向き合える貴重な女の子、愛花ちゃんは心配そうに私にそう問いかけた。
今日こそは、裏庭で愛花ちゃんと二人きりのランチである。最近では、斎様と私のお弁当も別々に詰めていた。一応、それを持参してくれているようで、帰宅すればキッチンに空のお弁当箱が置かれているが、ここしばらく私は斎様がお弁当を食べている様子を見掛けていない。昼休みが始まると共に、窓の方を向いて机に突っ伏して寝ているのだ。
一言声を掛けてから教室を出たのだが、当然のように斎様はうんともすんとも反応を見せなかった。
ちなみに、現在あからさまに仲違いをしている私と斎様だが、いつものように他の女生徒が斎様に群がる事は無かった。理由は単純にして明快。斎様から放たれる負のオーラがそんな雌豹達さえ近付けさせていないのである。
その点に少し安堵しつつも、やはりどうにもならない現状にまた落ち込んだ。
「紫緒ちゃん?」
微妙な半笑いで固まれば、愛花ちゃんは不思議そうに私を覗き込む。ええと、何だっけ。そうそう、兄の顔色が悪いとか何とか。あの強面からそんな事に気付けるなんて、恋する乙女は偉大である。でもね、愛花ちゃん。私だって今、これ以上なく落ち込んでいるんですよー。
ちょっと拗ねたような気持ちになると、少し強めの風が吹いた。今年は寒気の訪れが遅いが、気付けばすでに十一月である。冷たい風に身を竦めて、風に煽られる自分の長い髪を抑えようとすれば、愛花ちゃんが私に手を伸ばし、代わりに髪を整えてくれた。
「紫緒ちゃんも、最近いつも哀しそうだね。大丈夫?」
哀しそうに微笑む愛花ちゃんに、途端に胸がきゅーんとなった。心配そうに私を覗き込む愛花ちゃんの目は、私への気遣いで満ちている。
「言いたくないなら聞かないけど、辛くなったらいつでも甘えてね。一人で無理しちゃダメだよ」
どうやら、兄の顔色を話題に出したのは、私への気遣いの足掛かりだったらしい。その証拠と言うように、愛花ちゃんは一心に私を心配そうに見つめている。何この、下げてから上げる高等テクニック。キュン死にする。私が男ならけして兄には渡さなかったのに!
「あ、あああありがとう、愛花ちゃん!何だか元気出た!私頑張るからね!」
「うん?うん、頑張ってね、紫緒ちゃん」
たぶん、語り始めると涙が出てしまうだろう。気持ちの整理はまだ出来てなくて、現状を説明しようと思えば胸が苦しい。だから、そんなお礼と宣言だけをした私に、愛花ちゃんは察してくれたのだろう。何があったのか、と聞きだそうとはせずに、ただ笑顔で応援してくれた。彼女のそういう所がとても素敵で、とても好きだ。
私の悲しみに気付いて、支えてくれる友達がいる事を嬉しく思った。
だから、だから私は勇気を出さなければいけない。
怖いからと、不安だからと逃げてばかりではいられない。好きならきちんと向き合わなければいけないのだ。このままこうして言葉を交わす事も無く、すれ違い、この先永遠に斎様と分かりあえない人生なんて嫌だから。
何より、こうして今は一時的だと思っている溝が一生のものに変わってしまったとしたら、きっと私は宮下家の人間として、斎様がいずれ私ではない素敵な女性を奥様として迎え入れる様子を間近で見続けなくてはならなくなる。二度とこの人の隣にはいられないのだと、そう理解する瞬間の絶望なんて、絶対に味わいたくない。
そんな事は耐えられないから。今、せめて納得のいく決着を付けなければならないのだ。
私は決意を固める為に、クローゼットの奥からラッピングされた包みを取り出す。中身は涼しくなり始めた頃からせっせと編んでいたマフラーで、斎様の誕生日プレゼントに用意したものだった。斎様は篠宮家の所謂御曹司なので、お金でどうにかなるものならば手に入らない物はない。だからなのか、高価な物より私の作るちっぽけな物を喜んで、とても大切にしてくれる。私に出来る事は『手作りマフラー』という物で斎様がからかわれないように研究を重ね、既製品と比べても遜色ない物を作り上げる事だけである。
斎様の態度に違和感を覚えながら、そうして顔も見たくないと言われて泣きながら編んだので、もしかしたら怨念の籠ったしょっぱい仕上がりだけれど、まあ良いだろう。見た目だけなら我ながらよく出来ていた。
十一月生まれの斎様のお誕生日はもうすぐだ。これを渡す頃には、きっと今までのように一緒に過ごせる日々を取り戻すんだ、と決意してプレゼントをまたクローゼットにしまい、立ち上がった。
さあ、いざ行かん!恋という名の戦場で、勝利を我がものとする為に!
読んで頂きありがとうございます。
そう言えば斎は十一月生まれなのです。そして紫緒は十二月生まれなのです。一話目でそんな事を言っていました。