好きなのに
「ん」
ただそれだけで手を差し伸べてくれる斎様は非常に可愛らしいし、とても紳士的で格好良くもある。十月も半ばを過ぎてようやく久しぶりのベスト姿も見られて私はご満悦だった。そう、ご満悦のはずだった。
下校の際に下駄箱で靴を履き替え、手を繋いで帰る事は珍しく無い。しかし、私は見慣れたはずのその手に、すぐに自身の手を伸ばす事をしなかった。放課後に兄の所へ寄っていたので、下駄箱での帰宅ラッシュのタイミングからは少しずれている。その為、人気はあまりない。周囲をキョロキョロと見回し、他人に興味無さそうに靴を履き替える人や、仲間内でのお喋りに夢中な人ばかりで周囲に気を配っている人がいない事を確認する。その上で作戦を決行した。
差し伸べられた手をするりと通り抜けて、斎様の腰に手を伸ばす。
すると、極滑らかな動作でその手を避けた斎様は、ぐっと押しとどめるように私の肩を抑えつけ、私の右手を拾い上げると自身の左手と繋いだ。
「じゃあ、帰ろうか」
紳士である。何事も無かったかのようなその微笑みで、さり気なく誘導しつつも気乗りしない私の速さに合わせて歩いてくれる斎様は、文句なしの紳士である。以前ならば、欲望のままにそんな事をすれば、うっかりダメなスイッチを押してしまっていたのに。主に貞操的な意味で。
…………………こんなの斎様らしく、ない。
斎様は本来割と唯我独尊の人である。
基本的に関わりのない他人などどうなっても良いと考えているし、お坊っちゃま育ち故に周囲が自分の為に動く事は当然で、多少の事は無理矢理押し進める。その癖身内には甘く、私には最大限に優しいのが堪らん。ギャップ萌え。
その、斎様が、紳士なのである。おかしい、これは絶対におかしい。こんなの私の知っている斎様じゃない。斎様のそういう強引な所も含めて魅力だと思っていたのに。
しかし、それでもまだ、斎様が紳士になっただけなら良い。しばらくは違和感に頭を悩ませるだろうが、慣れればどうという事もないだろう。しばらくすれば『紳士な斎様素敵!』と目を輝かせる自分が容易に目に浮かぶ。
ただ、そのしばらくを安穏と待てないでいる理由があった。
兄から上げられた、残酷な可能性。私が斎様に飽きられた、という可能性である。確かに私はぐいぐい迫ってくる斎様に対し、かなり真剣に拒否していた。前世を含めて初めての事に対し、腰が引けるのも致し方ない、と信じたい。それを理由に飽きられたなら、こんなに残酷な事はない。
もしくは、身体的に幻滅する要素があったとか?大きくなってからは流石に目の前で脱いだ事はないが、お付き合いを初めてからしばらく、結構際どい感じに剥がれかかっていた。確かに胸もけして大きくはないし、足やお腹や腕も前世の反省を生かし、手入れを頑張ってはいるが、所詮私である。高が知れている。
おまけに残念なオタクである。幻滅される可能性を抱えている事は否定しない。ツンデレとか絶対領域という言葉に堪らない魅力を感じ、斎様ハアハアと常に思っている事もドン引きするには十分だと思う。うん、自覚はあるんだ。
でもほら!今時オタク女子なんて溢れるほどいるし、何より長い付き合いなので今更そんな所には何も思わない………と信じたい。
それとも、なまじ前世の記憶があるだけに滲み出る三十路臭が原因か。斎様は純粋な十五歳であるし。いやいや、でも男も女も三十からと言うし。
しかし、そう悲観するものの、それにしては斎様が優し過ぎるのである。今だって下校時は常にその手を繋いでくれる。一緒に歩ければ車道側に回り、買い物に行けば必ず荷物を持ってくれる。斎様は相変わらず、眩暈がしそうなくらい優しい。
だから余計に信じられないし、信じたくない。斎様に飽きられてしまったなんて。一度甘い蜜を知ってしまえば、それを手離す事のなんて酷な事だろうか。今はもう昔思っていたように、斎様が私とは別の女性と結婚し、その睦まじさを願うなんて絶対に無理だ。
人を好きになるって乙女ゲームと違って難しいなあ、と当たり前の事を嘆いた。
私が夕飯を作っている間、斎様はそのお手伝いをして下さるか、リビングでテレビや本を読んで待っているのが常だった。
今日も夕飯が完成し、あとはテーブルに並べて兄の帰りを待つだけの状態になり、出来た料理をダイニングへ運ぶ。リビング、ダイニングと並んでいる横に対面式のキッチンがあるので、斎様はいつも料理を運ぶ音を聞きつけては手伝いに来て下さる。ゆっくりしてて下さい、と言っても暇だから、と手伝ってくれるのだ。しかし、今日は何の反応も無く、不思議に思って料理を運ぶ手を止め、鍋の火を消し、蓋をしてからリビングに向かった。
そろり、静かにリビングに向かって、ソファを覗き込めば、その上で斎様が寝息を立てていた。私は思わずにやりとする。私は、斎様の美しい寝顔が好きだ。その整った面立ちがより際立つし、何より無防備な寝顔は穏やかで、ほっと安心するのだ。
口元を抑えつつ、隠しきれないニヤニヤを押さえこみながら、眠る斎様の前に膝をつく。斎様を間近で見下ろす格好になった。
はてさて、ここで問題です。眠り姫を起こす方法とは?
私はロマンチストである。乙女ゲーム大好きのオタクなロマンチストである。ならば考える事はただ一つ。性別が逆であるなどとは些細な問題である。
すすす、と音も無く顔を近付け―――――――――ガッと顎を掴まれました。ミシ、と骨格が軋む音がする。
「あっぶな………何する」
直前で目を覚ました斎様は目を大きく見開いたあと、疲れたように溜息を吐いた。別に人に誇れる顔立ちはしていないけれど、人の顔をひょっとこみたいにしたのに、酷い反応である。
というか、飛び起きるほど嫌か。私からキスをされるのは、あの寝起きの悪い斎様が一瞬で覚醒するくらい嫌な事か。
「えっ、なっ、紫緒?泣いて……」
鼻の奥がツンとして目頭が熱くなる。涙が目一杯に溜まっているのが分かった。その様子に驚いた斎様はパッと手を離し、慌てて私の様子を窺ったが、涙が溢れて来る前に顔を背けて手の甲で目元を拭った。
「泣いてません」
声が震えなくて良かった。泣いている女の子を可愛いと思うので、すぐに泣く女は、とは思わない。泣きたいときは女性も男性も素直に泣けば良いと思う。でもこれは、私の今の涙は、ただの泣き落としだったから。
非常に焦って心配してくれる斎様には申し訳ないが、私は素早く立ち上がり、
「もう少しで、夕飯の用意も出来ますので」
それだけ言ってリビングを後にした。一体私はどんな顔をしてそれを言ったのか、斎様はその後何も言わず、引き止める事もなかった。
キッチンまで戻り、対面キッチンの陰に座り込んで隠れる。この幸せだった数ヶ月は何だったのかと思う。キスも嫌がらなければ、そばに行けば抱きしめてくれていたのに。むしろ、それ以上の接触を持とうとしていたのは斎様だったのに。
一度落ち込めば嫌な事ばかりに気付くもので、そう言えば付き合い始めたあの日以来、一度も斎様から『好き』など好意を伝える言葉を聞いていない事に気付いた。あの斎様であるし、所謂甘い台詞を口にするような人では無い。その為気にした事などなかったが、今はそれも悪い意味でしか感じられない。
「好きなのに」
今や一方的な想いになってしまったのかと、不安で今度こそ少しだけ泣いた。
読んで頂きありがとうございます。
ちなみにこのときの斎の心情『え、そんなに痛かった…?』