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肌に寒さがチリチリとまとわりつく季節になってきた。十一月になってから急激に気温は落ち込み、街を歩いている人たちはみな身を震わせながら冷たい風を受け流している。おれもその例に漏れず、すでにダウンジャケットまで持ち出しているほどだ。襟元へ首を埋めながら、きらびやかな虹色のライトが照る方へ、夜の街をふらふらと、蛾みたいに光から光へと漂っていく。
特に用事があるわけではない。ただなんとなくこうしてのんびりと散歩するのがおれの趣味なんだ。人間観察、なんて御大層なことをいうつもりはないけれど、けっこう楽しいもんだ。おれは何のけなしにデパートへ入って、突然需要がなくなった夏、秋モノの服を物色してみたり、ここぞとばかりに売り込んでいる冬物をまじまじと眺めたりする。それでもあいかわらず金もないから、よほど安くない限り買わないけどね。
夜の十時をまわった頃になって、本屋に立ち寄る。中卒だけど本は好きなんだ。まあ読むのは小説ばっかりだけどね。
そうそう、勘違いしているかもしれないから言っておくけど、おれはそんなに頭が悪いわけじゃない。ただ施設の母さんたちに迷惑をかけ続けるのが嫌だったから高校には行かなかっただけだ。その頃には暇すぎて図書館で毎日のように勉強してたから、まあそこそこ頭はいいほうだと自負してる。他人と比べたことないから分からないけど。
本屋でおれは週刊誌を何気なく手にとってぱらぱらとめくっていく。その中で一つの記事が目にとまった。
それは自殺についての記事だった。『増え続ける自殺者! この国はどこへ向かうのか!』見出しはこんな感じ。長年続く不況のせいかは分からないが、この国での自殺者の数は年々増えていっているらしい。現在では年に四万人以上もの自殺者がでている。おれは自殺しようなんて思ったことがないから分からないけど、彼らにもさまざまな理由があるんだろう。それは多分借金であったり、仕事の失敗であったり、もしかしたら失恋で命を断つ人もいるかもしれない。おれは惚れっぽいからそっちの心配はなさそうだ。だからかもしれないけど、たまに女と付き合ってもまったく長続きしない。
高齢者の自殺も増えてきているが、おれの瞳にがつんと入り込んできたのは、少年少女の自殺数の増加だった。四万人もの全自殺者のうち、未成年者の自殺数は五千人もいるそうだ。どれくらいかって? 地方の県の小さな町なら壊滅しているほどだ。
生きていさえすれば、幸も不幸も同じくらい降り掛かってくるはずだ。生きてさえいれば。おれだって恵まれてる生活しているわけじゃないが、それでも毎日必死に生きてるんだ。金も女も甲斐性もなくったって、くだらないプライドさえ持たなければ生きていける。ホームレスのおっさんたちだって、死のうとする人なんていない。彼ら曰く、この世ですらこんなに怖いのに、あの世なんてもっと怖いに決まってる、だそうだ。いろんな考え方があるよな。
今回の依頼の話をしよう。
おれはその人と、おれの掲示板の前で出会った。ある晴れた寒い日の朝七時、その人は掲示板の前でじっと立ち尽くしていた。おれはその人に目を奪われた。グレーのスーツとネクタイ、白くなった髪、姿勢はそれほど悪くないのに、なぜか覇気がまったく感じられない。かなり痩せていて、みていてとても痛々しかった。思い切ったようにチョークを手に取るが、やはりためらってまたそれを手放す。その様子をおれは目を離さずにじっと見つめいていた。そんなことを何度か繰り返していたが、やがてその人はその場を立ち去ろうとした。おれは慌てて駆け寄る。
「おれに何か用?」
おれがそう声をかけると、その男性は少しだけ眉を上に動かした。正面からだと顔色も悪くて、一瞬おれは癌の人かなにかと思った。なんとなく、非常に老けてみえる。
「君が……?」
おれは縦にうなずいてみせた。しかしその人は大きくため息をつくと、首を横に振った。
「まさか君のような……。やはり、噂は噂か……。なんでもない。すまない……」
男は低い声でそういうと、踵をかえした。
「待ちなよ。そう言われるのは心外だな。何か困ってることがあるんだろ? 話してみてよ。力になれるかもしれない」
ゆっくりと男は振り返り、しかめ面をしながらおれの顔をまじまじと見つめてきた。心外だなんて言ってカッコつけたけど、本当は少しだけ腹が立った。
「しかし君は……いや、ありがとう」
ほんの少しだけ彼は表情を緩めた。注意深くみてないと見逃してしまうくらい、ほんの少しだけ。
「それで、依頼ってのは? まあ、やれる範囲なら何でもやるから、とりあえず話してみてくれないか?」
長い沈黙だった。おれにとっては数十分にも感じられたが、やがて唾を飲み込む音がきこえた。
男は少し頭を前へと傾けると、消え入りそうな声で話し始めた。
「私の一人娘が、二週間前に自殺したんだ……」
おれははっとしたように目の前の男を見つめた。眉をひそめる。
「そんなことするなんて、微塵も考えられなかった……。でも、あの日は……」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。悪いんだけど、話がみえないな。おれに何をして欲しいんだ?」
おれは思ったままを口にした。いきなり自殺だのなんだの聞かされてもピンとこないし、それに何をして欲しいのか見当もつかない。まさか娘を生き返らせてくれだなんて言うつもりじゃないだろうか。
おれは次の瞬間度肝を抜かされた。おれの二倍以上は生きてるであろう男から、いきなり土下座をされたからだ。
「頼む、娘の自殺の真相を突き止めてくれ……!」
間髪いれずに男は言った。頭のてっぺんの毛が薄くなっているのが分かった。目の前の彼は、この細い体でどれほどの悲しみを自分自身に打ち込んできたのだろうか。先ほどまでおれのことを疑っていたようなのに、いきなりこんなことをするなんて、よっぽど追いつめられてるのだろう。おれもしゃがみ込んで声をかける。
「とりあえず、顔あげてよ。ちゃんと話を聞くからさ」
男の目は潤んでいた。娘の自殺を思い出したのか、それともワラをも掴む気持ちで会いにきたおれに、何かを感じ取ったのだろうか。それはわからないが、彼は立ち上がり、目元をスーツの袖で拭った。
「よく分からないんだけど、そういう、自殺の原因とかって、警察が調べてくれたりしないの?」
男は再び首を横に振った。
「そうか……。まあ、あいつらにとってみちゃあ、そんなの調べたって点数かせぎにも何にもならないもんな……」
おれのその言葉に、目の前の男の瞳に怒りの色が宿る。
「今調べています、の一点張りだ。結局何にもしてくれない。学校に問い合わせてみても、イジメなど問題のある事実はありません、と言うばっかりだ。あいつらにとってみれば、数百人、数千人のなかの一人かもしれん。だけど私にとっては一人だけの、特別な存在なんだ……。私は知りたいんだ、なぜ娘が自殺したのかを……! あんたもそれが間違っているというのか……?」
男は次から次へと無限のように涙を流した。おれはこういう年代の人が泣くのを、そのとき初めてみた。胸の奥で、何かが熱を発しながらのたうちまわっているような感覚がした。おれは依頼を受けることに決めた。おれだって大事な人が死んだとしたら、なんとしてもその理由を知りたいときっと思うから。
「分かった。じゃあ、詳しい話をきかせてくれないか? なんとかしてみせる」
男は涙目のまま、ゆっくりとうなずいた。
おれは、できない約束はしない。
彼と彼女のために、おれは何ができるのだろうか。




