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レクイエム・フォー・ア・ガール  作者: 久里ワタル
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(9)

 人間は驚くほど残酷になれる生き物だ。ライオンのような肉食動物でさえ、腹が満たされれば目の前に獲物が通っても襲うようなことはしないという。だが人間は違う。生きるためでも何でもなく、簡単に他の生き物を殺してしまう。自分の命はともかく、他の者に対する命の尊さを知らないものが多い。イジメや、あるいは強姦によって自ら命を断ってしまう者もいるように、自分という存在が軽んじられているのを感じると、ヒトはこの上なく脆い存在になんてしまうのだと、おれは思う。

 ある条件の下、人間は冷酷になれるのだ。集団の中にいたり、目的を持っている場合などあると思うが、おれはどれに当てはまるのだろうか。

 最近は鏡をみていない。ガラスなどに自分の姿が映るのも嫌だった。きっと……、きっと自分が恐ろしい顔をしていると思ったからだ。

 その時は、一週間後にやってきた。すでにアリ地獄の中にいることに、カズヤは気づいていなかった。毎日毎日、どれほど負けようが性懲りもなく三島の店に通い詰め、湯水のように金を使っていくカズマは、おれからすれば、みていて滑稽でもあった。素人で、心底ギャンブルが好きな奴でもあり、そしてカズヤはただそのスリルを楽しむだけではなく、勝ちにこだわりすぎるために、小さな勝ちと大きな負けを繰り返し、底のみえない落とし穴に完全にハマっていた。もちろんそこにはタネがある。一流のディーラーは、カードを自由に操ることができる。おれが三島に頼んだことだった。もともとギャンブルなんて、店側が儲かるようになっているのに、まだまだ勝負を繰り返すつもりだった。

 カズヤは一週間もすると貯めていた汚い金を使い込んでしまったようで、おれに金を貸せと言ってきた。そのとき、すでにカズマは正気を失ったような目つきをしていた。もちろん、待ってましたとばかりに、おれはすでに作成していた借用書にサインをさせ、三百万円分のチップを渡してやった。おれは自分でも驚くほど冷静にカズヤをどん底へとたたき落としていった。自分でも、腹の奥が冷え込むような想いだった。

 運命の日、いつもより早めの閉店時間が過ぎ、店の中に客はまったくいなくなった。しかしおれはカズヤに残るように言った。閉店時間の後に、常連客だけの催しがあるからと嘘を言って。カズヤはいつものように嬉しそうに笑うと、何が始まるのだろうと胸をおどらせている。

「おい、そろそろ教えてくれよ。何があるんだ?」

 カズヤはこれから自分の身にどのようなことが起こるのかも知らずに、のんきに顔をほころばせている。

 おれはゆっくりとカズヤの方を振り返ると、奴の頬を思い切り殴りつけた。右のコブシに鈍い痛みが伝わる。誰かを殴りつけたのは、久しぶりだった。

 カズヤは目を見開きながらその場に倒れ込んだ。

「テメェ、ワタル! 何すんだよ!」

 カズヤが立ち上がる前に、屈強な三島の部下三人が、あっという間にカズヤをロープで手と足を縛り上げてしまった。さらに目には、目隠し用の厚めの布をまいた。

「お、おい! これはなんだよ! 俺にこんなことしてタダで済むと思うなよ! 俺の親父は……!」

 そこまで言ったところで、三島がカズヤの頬を張り、腹を爪先で蹴り上げた。カズヤは苦悶の表情を浮かべながら床につっぷし、むせ上げている。しかし三島の部下たちはつっぷすことも許さず、すぐにカズヤの身体をぐいっと乱暴に引き上げた。

「おい、ボウズ、しゃべるんじゃねえよ。殺すぞ……」

 三島は低く、うなるようにそう言った。こういった言い方は非常に有効だ。変に感情を込めて言い放つより、ずっと相手の心に恐怖を刻み付ける。それにカズヤは今、目隠しをされた状態だ。相手の声が脳の奥まで響き渡っているはずだ。カズヤはヒッ、と短く声を出した後、何もしゃべらずに小刻みに震え始めた。

「お前に質問をする。正直に答えろ……。答えれば殺すことはしない……」

 強烈なムチの後のアメだった。少なくともカズヤにはそう聞こえたはずだ。三島がそう言った後、おれの背後から直人が姿を現した。とはいっても、その姿をカズヤが視認できるわけではないが。

「お前が、三週間前にレイプした、女の子の、名前を、言ってみろ……」

 直人はできるだけ冷静に振る舞っているようだった。唇が小さく震えている。おれはすでにほぼすべてを話していた。

「答えろといっているんだ!」

 恐怖のためか、なかなか答えようとしないカズヤに、直人は苛立ったようだった。細い首を唸らしながら、吠えるようにそう言った。その胸中は、おれでも少しは察することができた。娘の仇が目の前にいるのだ。冷静にいられるわけがない。

「……たしか……美和……という名前でした……」

 その言葉が出た瞬間、直人は懐から突然包丁を取り出すと、カズヤに向かって走り出そうとした。間一髪、おれがその間に入り、直人の腕をねじ上げると、包丁を下に落とさせ、それを蹴った。落ちた瞬間、包丁はカーペットに浅く突き刺さった。直人もおれも、無我夢中だった。

「やめろ、直人さん! 約束しただろう! コイツのカタはおれがつける……!」

 弾けるように叫んだおれの声を、直人の落雷がかき消した。

「とめるな! コイツは……、コイツはおれの娘をレイプし、死に追いやったんだぞ! なぜ私がこの手でコイツを殺せないんだ! ワタルさん、コイツを、私の手で殺させてくれ! 刑務所でもなんでもいく覚悟はできている!」

 直人はおれのロックをはずすと向き合い、鬼気迫る表情でそう叫んだ。

「ダメだ! 殺しちゃいけない!」

「なぜだ? コイツはクズだ! 悪魔だ! なぜ殺してはいけない? こいつは、私の娘を奪ったというのに……! 殺すのがなぜいけない! 君も陳腐な映画のように、美和がそれを望んでない、とでも言うつもりか! 娘は死んだ……もう、どこにもいない!」

 部屋中に直人の荒い息が響き渡る。直人は目の端に涙を浮かべていた。それをみておれも鼻の奥に熱いものが上ってくるのを感じていた。みな押し黙り、直人の悲痛な訴えに胸を打たれていた。三島も表情を曇らせている。おれも、少し気持ちがブレかけていた。直人のそのむき出し感情は、親として、いや人として自然なものだ。だけど……。

「おれが……、それを望んでいないからだ……。あなたを殺人者などにしたくはない。娘さん……美和さんは亡くなったけど、あなたはまだ、生きている……」

 できるだけ丁寧な言葉を使ったつもりだった。直人の表情が少しだけ緩くなる。しかしまだ眼は血走ったままだった。

「直人さん、あなたは『生きて』くれ。おれからの、頼みです……」

 そういって、おれはゆっくり、深々と頭を下げた。

 直人の膝は突然崩れ、その場にうずくまった。そして頭を抱え込み、大声で泣き始めた。

 その場にいただれも、言葉を発さずに、直人の泣き声を受け止めていた。

 おれは酷いことをしたのかもしれない。仇を目の前に、手を出すことを禁じたのだ。そのつらさが分かるなど、おれには決して言えない。決して。

「……話は聞いていたな? カズヤ、とかいったか、お前は俺のとこの組が処理する」

 長い沈黙の後、最初に口を開いたのは三島だった。冷たく、あまり抑揚をつけずに言葉を発する。

「こ、殺さないでください……」

 懇願するようにカズヤは小さな声を出した。

「殺しはしねえよ。お前にはたっぷり借金分働いてもらわねえとな。利子つけて五百万、きっちり稼いでもらう……。おい、つれていけ」

 三島からのその言葉を聞くと部下の男たちは素早くカズヤを立ち上がらせ、引きずるようにしてカジノの奥の部屋へと連れて行った。必死に抵抗するカズヤの叫び声が、まだ泣き続ける直人の声と虚しく重なり合った。

「どうするつもりなんです?」

 おれは三島に向かって尋ねた。三島は軽く口をゆがめた。

「知り合いにマニアックな奴らがいてな。そいつに引き渡す。まあ、なかなか悪くない顔だから、相手の男優も喜ぶだろうさ。アイツには丁度いい罰だろう……? ……じゃあ後始末は、手筈(てはず)通りに頼むぜ」

 おれは礼を言うと、直人の傍らに歩いて行った。直人は泣き止んでいたが、宙に視線を浮かべたまま呆然としている。

「さあ直人さん、帰ろう……。もう、終わったよ……」

 おれは直人を抱えるように肩に腕をまわすと、立ち上がらせた。そしてそのまま支えながら、外へと向かって歩き出した。

 直人は力なく、人形のように脚を動かし続けるだけだった。無表情で、ただ黙々と歩き続けるその様子からは、生気がまったく感じられない。

 少しずつ年始のカウントダウンまで近づいていき、街はどこか浮かれているが、おれたちは対照的だった。一言も発さずただただ、家へと向かう。

 やっと直人の家までたどり着いたときには、もうヘトヘトだった。身体も、心も、疲れきっていた。

 直人は門をくぐってから、初めておれに目線を合わせた。

「ワタルさん、ありがとう……。君に依頼して、良かった。ありがとう。ありがとう……」

 ほんの少しだけ、直人は力なく微笑んだ。

「いや、その言葉は口にしまっといてよ。今度聞くからさ」

 おれはそういうと(きびす)を返した。それを慌てたように直人が引き止める。

「明日の朝、あの公園に来てくれないか? 話したいことがあるんだ」

 おれは直人に顔を向けて深く頷くと、背を向けて歩き始めた。

「じゃあ、また明日……」


 次に日の早朝から、おれはコーヒーを飲みながら公園のベンチに座っていた。いつもよりも苦く感じるのは、おれの中に何かまだ消化しきれていないものがあったからかもしれない。ゆっくりと明るくなっていく公園の中を見つめるおれの頭の中を、蛇のようなものがうごめいていた。柔らかい朝日が少しずつ顔に当たってきて、本当に心地よかった。久しぶりに、心が安らいだ気がする。

「すまない、待たせたね……」

 気がつくと、直人が目の前に立っていて、おれと目が合うと、ベンチの横に座った。昨日よりも、何か憑き物がおちたような顔つきをしている。

「いや、いいよ。それで、話したいことって?」

 おれがそういうと、直人は鞄から茶色の封筒を取り出した、けっこうな厚みがある。

「いや、ああ言わないと君は来てくれないんじゃないかと思ってね。これは、正当な報酬だ。受け取ってくれ」

 そういうと直人はその封筒を差し出した。おれは眉を寄せ上げる。

「今回、おれは大したことはしちゃいないよ。そんなものを貰う資格なんてない……」

 直人は首を横に振った。

「君は、私を救ってくれたじゃないか。しかもこの金は、美和のために貯めていた金だ。君なら、うまく使ってくれるだろう。いらなければ、捨ててもらってもかまわない。受け取ってもらえるまで、私はここを動かないよ」

 直人はふっと顔の表情を緩めた。その表情に負けてしまい、おれはその封筒を受け取った。ずしりと重い。札束の重さだけではない。身体全体が沈み込むような、不思議な重さがあった。

「ありがとう……」

 おれたちは二人同時にそういった。目が合い、くすっと笑う。

「さてと、そろそろ行くよ。携帯が見つかったんで、今から交番にとりに行くんだ。また会おう」

 直人は立ち上がり、手を挙げておれから離れて行った。

 心の傷を癒すのは結局のところどんな言葉でもなく、時間だ。まだ直人が立ち直ったとは思えない。だが少しずつだ。少しずつ、彼は背筋を伸ばせていくはずだ。そんな風におれは考えていた。


 次の日、直人は自宅で首を吊って自殺した。寸前に救急車を呼んだため、すぐにその体は発見された。直人の妻は、あの事件から精神を病んでしまったらしく、おれと最後に会った日の夕方に亡くなったらしい。

 知り合いから聞いた話では、直人の傍らには携帯電話が落ちていたということだ。そのメール画面にはこう映し出されていたらしい。

『From美和 sb:(non title)  本文:助けて』

 直人は復讐を遂げたのだろう。

 おれは例のDVDを握りしめ、四つ折りにすると、近くを流れる川に向かって放り投げた。

 ちゃぽっ、と短く音がして、少しだけ川に波紋を伝わらせていったが、やがて何もなかったかのように、川はいつものように流れはじめた。


 今夜はレクイエムを聴くのがふさわしい。あの一家のために。

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