考察について思うこと
SNS、動画投稿サイトを見る人が増え収益化可能なプラットフォームになったことなどで漫画とかアニメ、ゲームの考察が盛り上がっているような光景も時々目にするようになりました。それを反映して、考察させることをメインに据えたような作品も数多く発表される時代です。モキュメンタリーの流行なども考察との相性の良さからでしょう。
そんな考察の延長で現実の人や組織、出来事とか国際情勢まで物語的な考察みたいなことをやってしまっていないか、とここ最近よく考えています。都市伝説などを紹介していた人がいつの間にか陰謀論に取り込まれて言っている様子などを見て、考察もそういうものと親和性がありそうだなと感じます。
考察それ自体については楽しみ方のひとつとして尊重されるべきだと思います。けれどそれを現実でもやるのはよくない。
フィクションについての考察は、あくまでも作り話であり誰かが意図的に筋書きを用意している世界であるからこそ通用するものです。ですが現実は、何か筋書きを作ろうにもあまりにも不確定要素が多すぎる。世界人口は80億人を超え、日本に限っても1億2281万人。それぞれが個別に意思をもって行動しています。相続とか離婚とか、職場や学校での意見の相違とか、数人から数十人程度の集団でも話がまとまらないなんて珍しくないのに、万どころか億という単位の人間が作る複雑な社会の動きなんて把握することすら困難でしょう。
現実を物語として捉え、現実で起きた出来事の中から伏線をいくつも見つけ出して考察するなんて陰謀論でしかないです。現実はフィクションと違ってあまりにも情報が多すぎるので、見出そうと思えばいくらでも伏線っぽい出来事を見出すことができるでしょう。夜空に無理矢理星座を描くような画像をどこかで見ましたが、まさにあれです。
2021年、ドナルド・トランプ支持者が起こした議会襲撃も大統領選における不正という存在しない陰謀に端を発しています。COVID19が流行していた当時、感染対策に積極的で投票所に行かず郵送で投票していた民主党支持者が多かったため、郵便投票の集計が加算されたタイミングでバイデン側の票が一気に増える形になりました。それを怪しんだトランプ陣営とその支持者が不正だといろんな証拠を探しましたがどれも根拠としては通用しないものだったので、暴力に訴えようと大統領の選出手続きの妨害を画策しました。あれが現実に物語や伏線を見つける極端な例でしょう。
物語の考察はそれ自体がコンテンツになるほど楽しいものです。けれどそれを現実世界に物語を求めて考察してしまうと陰謀論にたどり着いてしまいかねません。過度な考察や現実の物語化には気をつけた方がいいんじゃないかなと思っています。




