騙されやすい公爵令嬢は、今日もにこにこ笑っている
「リリア様。大変ですわ! 婚約者の殿下が、またあの男爵令嬢とお二人きりで……!」
「まあ」
リリア・エルフォード公爵令嬢は、ぱちぱちと瞬きをした。
淡い金髪に、春空のような水色の瞳。
十八歳になったというのに、頬にはまだ少女らしい丸みが残っている。
そして何より、彼女は――恐ろしく人を疑わないことで有名だった。
「きっと、何かご相談があるのね」
「違います!」
侍女のミーナは机を叩きそうになる手を、必死に押さえた。
「夜会のあと、人気のない温室で二人きりですよ!?」
「お花がお好きなのかしら」
「手を握っていたそうです!」
「まあ。転びそうになったのね」
「抱き合っていたと!」
「寒かったのかもしれないわ」
「真夏です!」
「あらあら」
リリアは困ったように笑って、紅茶へ角砂糖を三つ落とした。
ミーナは頭を抱えた。
王太子アルベルトとリリアの婚約は、十年前に結ばれたものだ。
エルフォード公爵家は王家に次ぐ権勢を誇る名門。
王太子妃として、リリア以上の家柄を持つ令嬢はいない。
けれど、当のリリアは政争というものにまるで向いていない――少なくとも、周囲からはそう見えていた。
騙されやすい。
疑うことを知らない。
頼まれると断れない。
幼いころなど、商人に「これは東方に一つしかない幸運の石です」と言われ、ただの河原の石を金貨十枚で買おうとしたことさえある。
そのたびに父であるエルフォード公爵は胃を痛め、
「お前は絶対に一人で契約書に署名するな」
と娘へ言い聞かせていた。
そんなリリアの婚約者を奪おうとしていると噂されているのが、男爵令嬢アメリアだった。
桃色の髪と、大きな緑の瞳を持つ愛らしい少女である。
貴族学院へ入学して半年。
彼女は瞬く間に王太子アルベルトの心をつかんだ。
そして、どういうわけかリリアにもよく近づいてきた。
「リリア様ぁ」
その日も昼休みになると、アメリアは涙を浮かべながらリリアのもとへやってきた。
「お願いがあるんです」
「まあ。どうしたの?」
「母が病気なんです。でも治療費がなくて……」
「それは大変」
「お医者様から、王都の薬師にしか作れない特別なお薬が必要だと言われて……金貨百枚もするんです」
周囲の令嬢たちがざわついた。
金貨百枚。
平民なら、一年暮らせるほどの大金である。
そもそもアメリアの母親が病気だという話など、誰も聞いたことがない。
明らかに怪しい。
だが、リリアは迷わなかった。
「わかったわ」
「え?」
「あとで届けてもらうわね」
「ほ、本当ですか?」
「もちろん。お母様、早くよくなるといいわね」
にこり。
リリアが笑う。
アメリアは一瞬だけ呆然としたあと、満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、リリア様!」
その日の夕方。
金貨百枚は、本当にアメリアの屋敷へ届けられた。
「リリア様!」
話を聞いたミーナは卒倒しかけた。
「絶対に騙されています!」
「そうかしら?」
「そうです!」
「でも、アメリア様のお母様が病気だって」
「昨日、舞踏会に参加していましたよ!」
「あら」
「三曲踊っていました!」
「元気になったのね。よかったわ」
「薬を買う前です!」
ミーナは泣いた。
◇
次にアメリアが頼んできたのは、王宮の通行許可証だった。
「王宮の図書室に、母の病気を治す方法が載った本があるらしいんです」
「そうなの?」
「でも私みたいな男爵令嬢じゃ入れなくて……」
「まあ、困ったわね」
当然ながら、公爵令嬢であり王太子の婚約者であるリリアには、王宮内の一部区域への立ち入り許可が与えられている。
「でしたら、リリア様のお名前で許可証を出していただけませんか?」
「いいわよ」
「リリア様!?」
ミーナが悲鳴を上げた。
しかし、もう遅い。
三日後、アメリアは王宮へ入った。
そしてその翌日。
王太子執務室から、機密書類が一冊消えた。
「リリア様」
王宮の衛兵長が青ざめた顔で屋敷を訪ねてきた。
「アメリア・クライン男爵令嬢へ通行許可を出されたのは、本当でしょうか」
「ええ」
「なぜです?」
「お母様のご病気を治す本を探していると聞いて」
衛兵長は目を閉じた。
ミーナも目を閉じた。
リリアだけが、不思議そうに首を傾げている。
「……そのような本は、王宮図書室にはありません」
「あら?」
「そして、男爵令嬢が立ち入った時間帯に、国境防衛に関する文書が盗まれました」
「まあ」
「まあ、ではありません!」
だがリリアは悲しそうに眉を下げた。
「でも、アメリア様が盗んだとは限らないわ」
「まだ庇うのか!」
珍しく、父であるエルフォード公爵まで声を荒らげた。
「だって、私は見ていないもの」
父は娘を見つめたあと、深くため息をついた。
「……お前は本当に、人を疑うということを覚えなさい」
「はい、お父様」
リリアは素直に頷いた。
そして翌朝には、何事もなかったかのようにアメリアへ笑いかけていた。
◇
それからも、リリアは騙されているように見え続けた。
アメリアに「孤児院へ寄付したい」と言われれば金を渡し、
「王太子殿下への贈り物を選びたい」と言われれば王室御用達の商会を紹介し、
「王太子殿下から預かった手紙を運んでほしい」と言われれば、自分の馬車まで貸した。
そしてそのたびに、問題が起きた。
孤児院へ渡るはずだった金は消えた。
王室御用達の宝石商では、王家へ納める予定だった宝石が盗まれた。
リリアの馬車は夜中に外国大使館へ入り、何者かを乗せて戻ってきた。
誰が見ても怪しい。
けれどリリアは、
「何か事情があるのだと思うわ」
と言って笑っていた。
学院では、次第に彼女を陰で笑う者が増えた。
――頭の弱い公爵令嬢。
――家柄しか取り柄のない女。
――あれが未来の王妃だなんて、国が滅びる。
そして、その噂を最も楽しんでいるように見えたのは、王太子アルベルトだった。
「リリア」
ある日の放課後、王太子は彼女を呼び止めた。
傍らには、当然のようにアメリアがいた。
「君には失望した」
「まあ」
「アメリアは君を友人だと信じていた。それなのに最近、彼女を犯罪者扱いする者がいるそうじゃないか」
「そうなの?」
リリアがアメリアを見る。
アメリアは王太子の腕に縋りながら、ぽろぽろと涙を流した。
「私、怖くて……。リリア様が、皆様に何かおっしゃっているんじゃないかって……」
「まあ」
リリアは本当に驚いたような顔をした。
「私、何も言っていないわ」
「嘘よ!」
アメリアは叫んだ。
「だって皆が、私がリリア様を利用してるとか、殿下を誘惑したとか……!」
「アメリア」
王太子が彼女の肩を抱く。
「大丈夫だ」
それから冷たい目を、婚約者へ向けた。
「リリア。僕は君との婚約を考え直している」
周囲が静まり返った。
けれどリリアは――
「そうなの?」
と、ただ首を傾げただけだった。
「……それだけか?」
「だって、正式に決めるのは陛下と両家なのでしょう?」
「そういう意味ではない!」
アルベルトの頬が引きつった。
「君には僕への愛情すらないのか?」
「あら」
リリアは少し考えた。
そして、ふんわりと笑った。
「殿下がお幸せなら、私もうれしいですわ」
王太子は顔を歪めた。
「……本当に、君は愚かだな」
その言葉にも、リリアは怒らなかった。
ただ微笑んでいた。
◇
そして、卒業記念舞踏会の日。
事件は起きた。
王太子アルベルトは、大広間の中央で高らかに宣言した。
「リリア・エルフォード公爵令嬢!」
数百人の貴族たちが、一斉に振り返る。
リリアは壁際でケーキを食べていた。
「あら?」
銀のフォークを持ったまま、顔を上げる。
王太子の隣にはアメリアがいた。
「私は今日この場で、君との婚約を破棄することを宣言する!」
ざわめきが広がった。
もちろん、王太子一人の宣言だけで王家と公爵家の正式な婚約が即座に解消されるわけではない。
だが、公衆の面前で婚約者を捨てると宣言するだけでも、十分すぎるほどの大醜聞だった。
「そして私は、真実の愛を見つけた。アメリア・クライン嬢を新たな妃として迎えたい!」
アメリアが頬を染める。
リリアはしばらく二人を見つめたあと、
「おめでとうございます」
と言った。
「……は?」
「お二人とも、お幸せに」
あまりにもあっさりしていたので、アルベルトのほうが戸惑った。
「ま、待て」
「はい?」
「君は自分が何をしたかわかっているのか!?」
「何かしましたか?」
「アメリアへの嫌がらせだ!」
「まあ」
「彼女の教科書を破り、階段から突き落とし、毒まで盛ろうとした!」
会場がどよめく。
リリアは目を丸くした。
「私が?」
「証人もいる!」
王太子の取り巻きである三人の青年が前へ出た。
侯爵家の嫡男。
騎士団長の息子。
財務大臣の甥。
三人とも、アメリアと親しくしていた男たちだった。
彼らは口々に証言した。
「私は見ました! リリア嬢の侍女が、アメリア嬢の鞄へ毒薬を入れるところを!」
「階段から突き落とすよう命じた手紙もあります!」
「筆跡鑑定も済んでいる!」
「まあ……」
リリアは困った顔で頬に手を当てた。
そして、
「それは大変ね」
と言った。
「大変なのは君だ!」
王太子が叫んだ、そのときだった。
「――そうだな、アルベルト」
低い声が、大広間に響いた。
扉が開く。
入ってきたのは、国王だった。
その後ろには近衛兵がずらりと並んでいる。
「父上……?」
「アルベルト。動くな」
国王は、息子を一瞥した。
「近衛兵。王太子アルベルト、クライン男爵令嬢、ならびにそこの三名を拘束せよ」
「なっ!?」
悲鳴が上がった。
「お待ちください! なぜ僕が!」
「国家機密漏洩、横領、外交文書偽造、王室財産の窃盗、ならびに外国勢力との内通容疑だ」
王太子の顔から血の気が引いた。
アメリアは真っ青になった。
「ち、違います!」
「証拠はある」
国王の後ろから、エルフォード公爵が現れた。
その手には、分厚い書類の束があった。
「数か月前に盗まれた国境防衛文書は、隣国の諜報員が使用していた屋敷から発見された。アメリア嬢が王宮へ侵入した日に持ち出されたものと確認されている」
「それは……!」
「孤児院への寄付金。宝石商から消えた王冠用の宝石。外国大使館へ向かった馬車。すべて追跡済みだ」
アメリアの唇が震えた。
「でも……そんな……」
「さらに」
公爵は王太子を見る。
「殿下がアメリア嬢へ渡した機密情報についても、証言と記録が残っております」
「僕は知らない!」
「アメリア嬢から、『将来王妃となる自分には必要だ』と言われたのでは?」
「……!」
アルベルトの表情が答えだった。
「違うんです!」
アメリアが叫んだ。
「私は殿下に教えていただいただけで!」
「アメリア!?」
「あなたが全部教えてくれたんでしょう!? 宝物庫の場所も、警備の交代時間も!」
「君が聞き出したんじゃないか!」
「だってあなた、私のためなら何でもするって!」
「黙れ!」
醜い言い争いが始まった。
先ほどまで「真実の愛」を誓い合っていた二人は、わずか数分で互いに罪を押しつけ合っていた。
取り巻きたちも同じだった。
「私はアメリア嬢に頼まれただけです!」
「殿下の命令だ!」
「毒薬だって本物じゃない!」
「手紙を書いたのはお前だろう!」
次々と自白が飛び出す。
貴族たちは呆然としていた。
やがて五人は、近衛兵に連れられていった。
最後までアメリアは叫んでいた。
「リリア様!」
リリアが振り返る。
「助けてください!」
「まあ」
「私たち、お友達でしょう!?」
リリアは悲しそうに眉を下げた。
「ごめんなさい。私には、何が何だか……」
「お願い! リリア様なら陛下に頼めるでしょう!?」
「でも、私、難しいことはわからなくて」
いつものように、頼りない笑顔を浮かべる。
その顔を見たアメリアは、絶望した。
この女は駄目だ。
最後まで何もわかっていない。
自分が利用され続けていたことさえ理解していない。
――なんて、愚かな女。
それが、アメリアがリリアへ向けた最後の感情だった。
◇
深夜。
舞踏会が終わったあと。
エルフォード公爵邸の馬車が、静かに王宮を離れた。
車内には、リリアと父だけがいた。
しばらく沈黙が続いた。
やがて公爵が口を開いた。
「……これでよかったのか」
「何がですか?」
「アルベルト殿下だ」
リリアは窓の外を見た。
月が綺麗だった。
「私は、殿下がお幸せならうれしいですわ」
「当分、牢からは出られそうにないが」
「そうですね」
「アメリア嬢も、国家反逆に関わる罪なら重い刑は免れん」
「外国への機密漏洩ですものね」
公爵は黙った。
リリアは、にこにこと笑っている。
いつもと同じ笑顔だった。
「……リリア」
「はい」
「あの娘が最初に金を求めてきたとき、お前は私に言ったな」
「何をです?」
「金貨を、必ず公爵家の紋章入りの箱で届けてほしいと」
「あら。そうでしたか?」
「中の金貨にも、出所を確認できる刻印のものを使わせた」
「大金でしたから」
「王宮の通行許可証にも、通常は必要のない追跡用の識別印を入れろと言った」
「心配でしたから」
「馬車を貸したときは、御者をうちの諜報部の人間へ替えた」
「夜道は危険ですもの」
「宝石商を紹介する前日には、王家へ連絡して、納品前の宝石を模造品へ入れ替えさせた」
「まあ」
「それに――」
公爵は娘を見つめた。
「今日、アルベルト殿下たちが偽の証言を用意していることも、お前は三週間前から知っていた」
沈黙。
馬車の車輪だけが、石畳を鳴らしていた。
やがてリリアは、
「お父様」
と、困ったように笑った。
「私、人を疑うのは苦手なんです」
「……そうか」
「だから」
少女は、膝の上で指を組んだ。
「疑わなくて済むように、本当にやってもらえばいいと思ったんです」
月明かりが、その横顔を照らす。
「泥棒かもしれない、と思うから疑わなくちゃいけないのでしょう?」
「……」
「だったら、盗ませればいいんです。裏切り者かもしれない、と思うから悩むのでしょう?」
水色の瞳が、細くなる。
「だったら、裏切らせればいい」
父は何も言わなかった。
リリアは小さく笑った。
「アメリア様って、本当に親切でしたわ」
「親切?」
「ええ。金貨百枚で、横領したお金の流れを見せてくれて、通行証一枚で王宮内の協力者を教えてくれて、馬車一台で外国の連絡先まで教えてくださったんですもの」
まるで、お茶会で友人の話をするような口調だった。
「アルベルト殿下も。私たちが長いこと尻尾をつかめなかった王家周辺の腐った枝を、ずいぶんたくさん集めてくださいました」
「……最初から、わかっていたのか」
リリアは答えなかった。
「アメリア嬢が何か企んでいることも?」
「さあ?」
「お前を利用しようとしていることも?」
「どうでしょう?」
「今日の騒ぎも?」
リリアは、くすくすと笑った。
そして窓の外へ視線を戻す。
遠ざかっていく王宮の塔を見ながら、ぽつりと言った。
「だって、お父様」
その声はいつも通り、ふわふわと優しかった。
「悪い人って、こちらが馬鹿だと思っていると、本当に何でも話してくれるんですよ」
公爵の背筋を、冷たいものが走った。
娘が五歳のころから何度も聞かされてきた話を思い出す。
珍しい石を売りつけようとした商人。
偽物の絵画を持ち込んだ美術商。
領地の税をごまかした代官。
帳簿を改竄していた執事。
誰もが最初は、こう言っていた。
――お嬢様は騙しやすかった、と。
そして誰もが、なぜか自分から証拠を残し、余罪まで露見させ、最後には破滅していた。
公爵はようやく気づいた。
自分は、娘に同じことを言い続けてきたのだ。
――お前は騙されやすい。
――人を疑うことを覚えなさい。
けれど。
一度だって考えたことがなかった。
なぜ、娘を騙した人間だけが。
一人の例外もなく。
最後には必ず、すべてを失っているのかを。
「お父様?」
リリアが振り返った。
いつもの、無邪気な笑顔だった。
「どうかなさいました?」
「……いや」
公爵は、それ以上何も聞かなかった。
聞いてはいけない気がした。
リリアは満足そうに微笑むと、座席の隅に置かれていた菓子箱を開いた。
「まあ。最後のマカロン」
「……食べなさい」
「ありがとうございます」
嬉しそうにマカロンを頬張る娘を見ながら、公爵は思った。
王太子も。
男爵令嬢も。
腐敗した貴族たちも。
皆、勘違いしていたのだ。
この娘は、悪意というものを知らないのだと。
違う。
悪意を知らない人間が、これほど正確に人間の悪意だけを選び取れるはずがない。
そして公爵自身もまた、最後の最後まで気づかなかった。
リリア・エルフォードは、騙されやすい公爵令嬢などではない。
彼女はただ――
自分を騙したと思い込んだ人間が、安心してどこまで悪人になってくれるのかを見るのが、大好きだった。
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