婚約破棄の書類に誤字が多すぎたので、王国法ごと校正しました
「エレナ・フォントレイン! 貴様との婚約を破棄する!」
王宮の大広間に、第二王子レオンハルト殿下の声が響き渡った。
舞踏会の音楽が止まる。
談笑していた貴族たちが、一斉にこちらを振り返った。
殿下の隣には、桃色の髪をふわふわ揺らした聖女ミリア様がいた。白い指で胸元を押さえ、今にも倒れそうなほどか弱げに見える。
そして殿下の右手には、金色の光が宿っていた。
王家に代々伝わる、暁光の加護。
剣に光をまとわせ、魔を退け、戦場では百の兵にも勝ると讃えられる力である。
殿下はその光を見せつけるように掲げ、勝ち誇った顔で私を見下ろした。
「お前のような女が、私の妃にふさわしいはずがない。剣も取れず、癒やしも使えず、持っている加護といえば、たかが文字の間違いを見つけるだけ」
広間のあちこちから、くすくすと笑いが漏れた。
「校正の加護、だったか?」
殿下は鼻で笑った。
「なんとも地味な加護だな」
「はい。私もそう思います」
私は素直に頷いた。
火を放つことはできない。
水を操ることもできない。
人の傷を癒やすこともできない。
けれど、文章の誤りだけは見抜ける。
誤字。
脱字。
矛盾。
改ざん。
そして、書いた者が隠そうとした意図。
それらはすべて、私の目には赤い光となって紙面に浮かび上がる。
幼いころ、神官様は言った。
「地味ですね」
私もそう思った。
だが、地味であることと、役に立たないことは、まったく別である。
私は、銀の盆に載せられた1枚の書状を見下ろした。
厚手の羊皮紙。
赤い封蝋。
王家の紋章。
殿下の署名。
形式だけは、ずいぶん立派だった。
形式だけは。
紙面のあちこちに、赤い光が浮かんでいる。
まるで、書類そのものが出血しているようだった。
ああ、来た。
私は心の中でため息をついた。
ついに来てしまった。
婚約破棄ではない。
この世で最も恐ろしいもの。
そう。
誤字だらけの公文書である。
「エレナ、君は嫉妬に狂い、聖女ミリアを階段から突き落とそうとした。よって、王家の名において、君との婚約を破棄する!」
殿下はそこで、勝ち誇ったように顎を上げた。
「さらに、王家の名誉を傷つけた慰謝料として、金貨5万枚を請求する!」
広間がざわめいた。
金貨5万枚。
小領地なら、それだけで1年は動く額である。
「殿下」
「なんだ。命乞いか?」
「いえ」
私は書状の冒頭を指で押さえた。
「まず、1行目の『婚約を破機する』ですが、この場合は『破棄』です」
広間が静まり返った。
殿下の眉が、ぴくりと動く。
「……今、それを言う場面か?」
「はい。公文書ですので」
私は淡々と続けた。
「それから、3行目の『王家の威厳を著しく即した』も誤りです。おそらく『損なった』と書きたかったのだと思われます」
「黙れ!」
「申し訳ありません。黙る前に、あと169箇所ございます」
「多すぎるだろう!」
「こちらが聞きたいです」
誰かが噴き出した。
殿下の顔が赤く染まる。
隣のミリア様が、慌てたように殿下の腕にしがみついた。
「レオン様ぁ、誤字くらい、愛があれば伝わりますよね?」
「そうだ! 大切なのは心だ!」
「心は大切です。ですが、契約書においては文字も大切です」
私はにっこり微笑んで、書状の中央を指さした。
「特に、こちらの一文です」
そこには、こう記されていた。
『本書面をもって、レオンハルト王子の意思により、エレナ・フォントレインとの婚約契約を解除するものとする』
「これがどうした」
「この一文により、今回の婚約破棄は、殿下の意思による一方的な契約解除として扱われます」
「だから何だ!」
「婚約契約書第12条を、ご記憶でしょうか」
殿下の表情が、わずかに固まった。
「第12条?」
「はい。正当な事由なく一方的に婚約契約を解除した場合、解除を申し出た側は、相手方へ違約金として金貨5万枚を支払う。そう記されております」
広間が、しんと静まり返った。
私は続けた。
「もちろん、私がミリア様を突き落としたという事実が証明されれば、正当な事由となるでしょう。ですが、現時点では未確定です」
「未確定だと?」
「はい。殿下は私の罪を証明する前に、ご自身の意思による契約解除だと王印つきの書面に明記なさいました」
「なっ……」
「したがって、婚約契約書第12条に基づき、金貨5万枚をお支払いいただくことになります」
私は胸に手を当て、丁寧に一礼した。
「金貨5万枚、ありがたく頂戴いたします」
広間がどよめいた。
笑いをこらえる者。
扇で口元を隠す者。
顔を真っ青にする者。
殿下だけが、真っ赤になっていた。
「無効だ! こんなもの、無効に決まっている!」
「無効にするには、王国契約法第42条に基づき、双方の合意が必要です」
「合意しろ!」
「嫌です」
「即答するな!」
「では、もう一度申し上げます。嫌です」
「言い直しても同じだ!」
その通りである。
私は、もう1枚の書類を取り出した。
「それから、聖女ミリア様の転落事件についてですが」
ミリア様の肩が、ぴくりと跳ねた。
「な、なんですかぁ? こわぁい……」
「こちらは、事件直後に作成された聴取書の写しです」
私は紙面を広げた。
「当初の記録では、ミリア様は『階段の途中で足を滑らせた』と証言されています」
「そ、そんなもの、知りませんわ」
「ところが、後日提出された被害届では、その部分が『エレナ様に背中を押された』に変わっています」
広間のざわめきが、少し低くなった。
私は、被害届の写しを指でなぞる。
「しかも、この被害届には修正の跡があります。上からインクで塗りつぶされていますが、私の加護では、その下の文字も読めます」
ミリア様の唇が震えた。
「下書きには、こうありました」
私は静かに読み上げた。
「『階段の途中で振り返った際、足を滑らせた』」
広間が、しんと静まり返った。
「つまり、少なくとも最初の記録では、私に押されたとは書かれていません」
「ち、違うんです……それは、その……」
「判断は司法に委ねます。ただ、文書が改ざんされた可能性は高いかと」
私はにっこり微笑んだ。
「誤字よりも、こちらのほうが重罪です」
ミリア様の顔から、すうっと血の気が引いていく。
「で、でも!」
ミリア様が叫んだ。
「エレナ様が私を睨んだのは本当です! あんなに怖い目で見られたら、足だって滑ります!」
「それは失礼いたしました」
私は素直に頭を下げた。
「ですが、それを王国法では『自滅』と呼びます」
「呼びませんわ!」
「少なくとも『傷害』ではありません」
再び、広間のどこかで笑いが漏れた。
殿下は、慌てて書状を奪い取った。
「こんなものは撤回する! 今すぐ撤回だ!」
「できません」
「なぜだ!」
「殿下が、先ほど高らかに読み上げられましたので」
「読み上げたら駄目なのか!?」
「王印つきの公文書を、王族本人が公衆の面前で宣言した場合、意思表示として成立します」
「そんな法律があるのか!」
「あります」
「誰が作った!」
「初代国王陛下です」
「ご先祖様ぁ!」
殿下が天井を仰いだ。
お気持ちは分かる。
けれど、法律とは、だいたい後世の子孫を苦しめるためにある。
そのとき、大広間の奥から低い声が響いた。
「そこまでだ」
国王陛下だった。
白い髭を揺らしながら、陛下はゆっくりとこちらへ歩いてくる。
貴族たちは一斉に頭を下げた。
殿下は、すがるように叫んだ。
「父上! これは誤解です!」
「誤解ではない」
陛下は婚約破棄状を手に取り、数秒だけ眺めた。
そして、眉間を押さえた。
「レオンハルト」
「はい!」
「お前、『王国』の『国』も1箇所間違えているぞ」
「そこですか!?」
私は心の中で拍手した。
さすが陛下。
見るところが鋭い。
陛下は深くため息をついた。
「エレナ嬢、迷惑をかけた」
「恐れ入ります」
「この婚約破棄は、文書上は成立している。だが、ミリア嬢の件については再調査が必要だ。正当な事由が認められなければ、違約金は契約どおり王家が支払う」
「ありがたく存じます」
「ただし、頼みがある」
「何でしょうか」
陛下は真剣な顔で言った。
「王国文書庁の長官になってくれ」
殿下が叫んだ。
「父上!? 彼女は私に恥をかかせた女ですよ!」
「違う」
陛下はぴしゃりと言った。
「お前が自分で恥に署名したのだ」
今度こそ、大広間は笑いに包まれた。
私は少しだけ考えた。
王国文書庁の長官。
つまり、王国中の契約書、法令、外交文書を校正できる立場。
地味だ。
とても地味だ。
けれど、この国は今、その地味さを必要としている。
「お引き受けいたします。ただし、条件がございます」
「言ってみよ」
「王族を含む全貴族に、年1回の文章講習を義務づけてください」
殿下が青ざめた。
「なぜだ!」
「殿下のような悲劇を、二度と繰り返さないためです」
「悲劇なのは私だけではないか!」
「はい。ですから教材名は、『第二王子でもわかる公文書入門』にいたします」
「やめろ!」
「副題は、『署名する前に3回読め』です」
「やめろと言っている!」
陛下はしばらく黙っていたが、やがて重々しく頷いた。
「採用しよう」
「父上!」
「ついでに王族は年2回だ」
「増えた!」
その日、王国に新しい法律が生まれた。
貴族は、剣より先にペンを学ぶこと。
愛の告白より先に、主語と述語を確認すること。
婚約破棄をする場合は、最低3回音読すること。
第二王子レオンハルト殿下は、王位継承権を一時停止され、地方の文書保管庫へ送られた。
聖女ミリア様は、被害届改ざんの疑いにより、聖女資格を停止された。
そして私は、王国文書庁長官として、初仕事に取りかかった。
机の上には、山のような書類。
その一番上に、陛下からの辞令がある。
『エレナ・フォントレインを、王国文章庁長官に任命する』
私は赤ペンを手に取った。
「陛下」
「なんだ」
「文書庁です。文章庁ではありません」
陛下は3秒沈黙し、静かに言った。
「……講習、私も受けよう」
私はにっこり笑って、辞令に赤を入れた。
こうして王国は、少しだけ平和になった。
剣でも魔法でもなく、
たった1本の赤ペンによって。




