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第4話 同棲準備 その2

 彼女が自分にとって特別だと思った切っ掛けは無数にある。一つは、――そう、匂いだ。

 孤児院に同い年の子供はリリアーヌしかいなかったから、村の子供達も交えて遊ぶことも少なくなかった。というより、いつの間にか自分は同年代の悪ガキ連中の大将みたいに見なされていたから、一時期半ば見栄を張るようにリリアーヌの制止を振り切っては子分達を引き連れて森を探検したり、家畜に悪戯をしたり、チャンバラに興じたりした。暗くなるまで遊び回って、子供達の母親が肩を怒らせ迎えにくるとその日は解散だ。

 母親たちはそれぞれ色んな匂いを身に纏っていた。それは、今さっきまで作っていた夕飯の香りであったり。それは、干した洗濯物や家屋自体が発する匂いであったり。あるいは、一緒に暮らす家族の体臭であったり。

 今にして思えば孤児院にだって孤児院の匂いがあって、そこで暮らすローザには分からなくなっていただけなのだろうが。当時のローザにとっては自分には持ちえない家庭の象徴のように思えたものだ。


「ほら、ローザ、帰りましょう」


 物悲しさに浸る間などなく、甘く愛おしい匂いに包まれる。

 大勢の子供達の面倒で忙しい院長先生に代わって自分を呼びに来るのはいつだってリリアーヌだった。

 孤児院で一日先輩のリリアーヌ。自分が拾われたその時からずっと隣に存在していた匂い。世界で一番身近で、世界で一番自分を落ち着けてくれる匂い。それはいつだって自分を癒し、励まし、いっそ誇らしい気分にさえしてくれるのだった。




「わっ、すっごいローザの匂い」


 十年以上も居座った貸し部屋のベッドに降ろすと、リリアーヌはボフンと身を倒してそんな感想を漏らした。


「あ、あたしの匂いってなんだよ。……に、臭うか?」


「んー、なんだろ? 汗と、……鉄と革? あ、お酒の匂いもちょっとするかな」


「うぐっ、つまり臭いってことか?」


 ギルドは二階の空き部屋を冒険者達に貸し出してはいるが、いわゆる宿屋ではない。ベッドメイクや清掃に従業員が立ち入らないのはむしろ気楽なのだが、――最後に布団を干したのはいつだったか。一月前か二月前、いやいや、そんな“最近”のことではなかったような。


「んーん、昔から嗅ぎ慣れた匂いよ。ああ、さすがに子供の頃はお酒の匂いはもちろん、鉄と革の匂いもしなかったけれど」


「それって汗臭いだけのガキだったってことじゃん」


「あら、確かにそうなっちゃうわね。ふふっ、とにかく、ローザの匂いよ、とっても濃厚なローザの匂い」


「むむむ」


「ほら、ローザも来て」


「お、おお」


 寝台に横になって“ローザも来て”なんて殺し文句も良いところだが、リリアーヌに他意はあるまい。遠慮がちに――自分の寝台だが――、彼女の横に寝転んだ。


「ねっ、ローザの匂いがすっごい濃いでしょ」


「いや、そんなこと言われても自分じゃ分からないけど。いつものベッドだなぁとしか」


「ええっ、分からない? このどこか懐かしくって、すっごく落ち着く匂いが」


「いや、懐かしいも何もあたしにしてみたらいつも寝てるベッドだからな?」


「う~ん、この良さが分からないなんてもったいない」


 そう言うと、リリアーヌはすーはーと深い呼吸を繰り返した。

 白と濃紺を基調とし清廉と貞淑を表した神官服には不釣り合いな豊かな胸のカーブが上下に揺れる。いや、母性的と考えればあながち不釣り合いとも言えないのか。


「…………さてと、臭くないとは言ったけど」


 たっぷり十回ほども深呼吸すると、リリアーヌは身を起こした。部屋の中を見回して眉を顰める。


「私、この部屋に入るのはずいぶん久しぶりだけど。――うー、きちゃないっ! もう少し片付けなさいよねっ」


「へっ、部屋が狭いんだからしかたないだろうっ」


 ギルドの貸し部屋は冒険者に屋根のある寝床を安価で提供すると言う主旨で用意されたものだから、寝台と一人用の小さな卓に椅子一脚があるだけでもう空いたスペースなどほとんどない。そこへ強引に私物を詰め込んでいるのだから汚いのもしかたがないだろう。

 あまり物が多い方ではないが、装備の類はそれなりにある。武器は基本的に剣を使うが、剣士ではなくあくまで戦士だ。討伐を依頼された魔物次第で槍も使えば斧も使う。

 鎧はビキニアーマーだけだが――そして今それを装備しているが――、革のケープやブーツは地形に合わせて複数種類所持している。


「仕事道具が多いのは分かるけど、机の上のカップとかお皿とか、それいつ使ったもの? 昨夜はうちで晩御飯食べたんだし、昨日のお昼?」


「あー、たぶんそう」


 正解はもっと前。と言うか、覚えていない。


「あ、ベッドの下にお酒の瓶が転がってるじゃないの。それも何本もっ。ああっ、中にまだ残ってるのまであるじゃないっ。もうっ、道理でお酒臭いわけだわっ」


「い、今臭いって言ったぁ!」


「だってそうじゃないのっ。なんで飲み切る前に次の瓶を開けるのっ。そしてなんでそれをベッドの下になんて転がしとくのっ」


「いや、それはちょっと良い酒でさ。一度に飲み切っちまうのはもったいないなぁって。じょっ、蒸留酒だから悪くもなってないはずだしっ」


「蓋が緩んでこぼれてるのまであるんだけど?」


「あー、……それはもうさすがに飲めないかなぁ」


「もうっ。とりあえず受付に行ってモップか雑巾を借りてきてっ。あと水も汲んできてっ」


「えー、別にこれでこの部屋は引き払うんだから、そこまでする必要はなくない? 酒瓶だけまとめて、後はそのまんまでも」


「ダメですっ。部屋を出る時は、来た時よりも綺麗にするつもりでっ」


「くっ、久しぶりに聞いたな、そのフレーズ」


 勇者パーティとして魔王討伐の冒険をしていた頃は各地で宿へ泊まることが多かった。そんな時、部屋を出る最後にリリィの確認が入ることを仲間達は密かに聖女様チェックと呼んで恐れていた。


「私だって一泊二泊しただけの宿屋ならさすがに拭き掃除までは始めないわよ。だけどローザが十年以上も暮らしたお部屋でしょう? だったら、ちゃんとして出て行きたいじゃないの」


「むっ。まあ、それは……」


「納得したなら早くモップを借りてくるっ。それと装備品の類は掃除の邪魔だから部屋から全部出しちゃって。どうせうちに持って帰るんだし。ほらっ、急ぐっ」


「はいはい」


「はいは一回っ」


「はいっ」


 子供みたいに叱られたローザは駆け足で受付へと向かった。


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