第7話: 『過去との決別』
アルフォンス――その名前は、私にとって過去の悪夢そのものだった。婚約破棄を告げられたあの日の屈辱、貴族たちの嘲笑、そして一人、闇の中へ突き放された絶望。記憶がフラッシュバックし、私の体は意思に反してカタカタと震え、顔から血の気が引いていく。
「エリアーナ」
異変に気づいたカイゼル様が、私の肩を力強く、しかし労わるように抱き寄せた。彼の腕の中は、いつも私を守ってくれる、世界で一番安全な場所だ。
「心配するな」と囁く彼の瞳は、私に向ける穏やかな光とは裏腹に、招かれざる客への氷のように冷たい怒りに燃えていた。彼は側近に向き直り、即座に命じる。
「会う必要などない。我が帝国の土を汚す前に、追い返せ」
「お待ちください、カイゼル様」
カイゼル様の腕の中で、私はかぶりを振った。震えはまだ止まらない。けれど、声だけは、自分でも驚くほどはっきりと出た。
「……私、会います」
「ならん。お前がこれ以上、辛い思いをすることはない」
カイゼル様は私を気遣い、強く反対する。彼の優しさが心に沁みる。でも、だからこそ、私は逃げるわけにはいかなかった。
「いいえ。私はもう、王都を追われた無力な令嬢ではありません。カイゼル様の婚約者であり、この帝国の未来の皇后となる者です。過去の悪夢に怯えていては、あなたの隣に立つ資格はありません」
私は彼の腕からそっと離れ、まっすぐにその瞳を見つめ返した。
「これは、私自身の問題です。ケジメをつけるために、どうか、会わせてください」
私の言葉に、カイゼル様は一瞬目を見張り、やがてその口元に誇らしげな笑みを浮かべた。彼は私の決意を受け入れ、大きく頷いた。
「……分かった。お前の覚悟、見届けよう。だが、私も同席する。決してお前を一人にはしない。約束だ」
会見の場となったのは、帝国の威光を示す、壮麗で威圧的な謁見の間。玉座に座るカイゼル様の隣、ほんの少しだけ低い位置に、私のための椅子が用意された。それは、私が彼の絶対的な庇護下にあることを、何よりも雄弁に物語っていた。
やがて、重い扉が開き、やつれた姿のアルフォンス殿下が通された。かつての自信に満ちた輝きは失われ、その顔には焦りの色が濃い。彼は私と、私の隣に座るカイゼル様の姿を認めると、息をのんで立ち尽くした。私が以前よりも健やかで、そして遥かに格上の男の隣で微笑んでいることに、動揺を隠せないでいる。
だが、彼はすぐに気を取り直すと、悲壮な顔で膝をつき、目的を口にした。
「エリアーナ……! 王国が、我々の国が、危機にあるのだ! お前の聖なる力が必要だ。どうか、戻ってきてほしい!」
その言葉には、私個人への謝罪などひとかけらもなかった。彼はやはり、私を「国のための道具」としか見ていない。その事実に、私の心に残っていた最後の迷いは消え去った。
私は静かに立ち上がり、冷たく言い放った。
「アルフォンス殿下。お忘れですか? あなたは私を『偽りの聖女』として、国を欺いた大罪人として追放なさいました。そのお言葉を、今さら撤回なさるのですか?」
「そ、それは……誤解だったのだ!」
「誤解、ですか」
私は氷のような笑みを浮かべた。
「それに、私はもはや王国の聖女ではございません。この帝国の未来の皇后となる身。私がこの力を捧げるのは、皇帝カイゼル陛下と、この国の民のためだけです」
私の揺るぎない拒絶と、玉座から放たれるカイゼル様の絶対的な威圧感に、アルフォンスは完全に言葉を失った。とどめを刺したのは、カイゼル様の地を這うような低い声だった。
「――我が国の『至宝』であり、私の未来の妻を、二度と道具のように扱うな。用件がそれだけなら、失せろ」
アルフォンスは屈辱に顔を歪ませ、唇を噛みしめながら、衛兵によって引きずるように退室させられていった。
彼の姿が見えなくなると、張り詰めていた緊張の糸が切れ、私はその場に崩れ落ちそうになった。すかさずカイゼル様が駆け寄り、その逞しい腕で私を支えてくれる。
「よく頑張った、エリアーナ」
彼の優しい声に安堵しながらも、私は思う。これで、すべてが終わったわけではない。王国が、アルフォンスが、このまま引き下がるとは思えない。
これはきっと、終わりではなく、新しい戦いの始まりなのだ、と。