第6話: 『招かれざる客』
皇后に、という言葉の重みに、私の呼吸は止まりかけた。星々の煌めきも、夜風の音も、すべてが遠くなる。私は勇気を振り絞り、ずっと胸の内にあった疑問を、震える声で彼にぶつけた。
「カイゼル様……。そのお言葉は、愛情からですか? それとも、私という『至宝』を、この国に完全に縛り付けるための……政略、なのでしょうか」
問いかけられたカイゼルは、一瞬、虚を突かれたように目を見開いた。そして、まるで自分の内面を初めて覗き込むかのように、しばし沈黙した。やがて彼は、自嘲気味に、しかし驚くほど正直に告白した。
「……最初に会った時、そしてお前の力を見た時、後者でなかったと言えば嘘になる」
その言葉に、私の胸がちくりと痛む。だが、彼は続けた。握られた手に、力がこもる。
「だが、今は違う。お前と過ごすうちに、私の呪いが和らぐこと以上に、お前の笑顔が、声が、ただそばにいる時間が、私自身を癒しているのだと気づいた。……だから、これは私の我儘だ。国益も政略も抜きにして、エリアーナ、お前という一人の女性を、私の妻として迎えたい」
彼の真摯な瞳には、皇帝の冷徹さではなく、一人の男としての熱烈な渇望が宿っていた。
心臓が大きく跳ねる。嬉しさと、同じくらいの戸惑いが私を襲う。私は彼の瞳を見つめ返し、か細い声で答えるのが精一杯だった。
「……少しだけ、お時間を、ください」
カイゼルは私の葛藤を察したのか、静かに頷き、その夜はそれ以上何も言わなかった。
離宮に戻った私は、眠れぬ夜を過ごした。
追放され、すべてを失った私に、居場所と価値を与えてくれたカイゼル様。彼の不器用な優しさに、私はとっくに惹かれていた。
けれど、皇后になるということは、再び公の場に立ち、政治の世界に身を置くということ。偽りの聖女として断罪されたあの日の悪夢が、蘇らない保証はどこにもない。
翌日、私はぼんやりとした頭で、日課である離宮の庭園を散歩していた。そこでは、私が来てから侍女たちが植えた花々が見事に咲き誇り、快方に向かった民が、遠くから私に感謝の祈りを捧げているのが見えた。
ここが、私の新しい居場所。カイゼル様が、私に与えてくれた大切な場所。
――もう、俯いてばかりの私でいるのはやめよう。
私は、自分の足でカイゼル様の執務室へと向かった。そして、固い決意を胸に、彼の前に立った。
「カイゼル様。昨夜のお申し出、お受けいたします。この国の至宝としてではなく、エリアーナとして、あなたの隣にいたいです」
私の言葉に、カイゼルは息をのみ、やがて彼の顔に、今まで見たこともないような、心からの安堵と喜びの笑みが広がった。それは皇帝の仮面を完全に脱ぎ捨てた、一人の男の素顔だった。
その日、私とカイゼル様は正式に婚約者となった。彼の溺愛は以前にも増して深くなったが、それはもう「至宝の管理者」としてのものではなかった。彼は私を一人の女性として尊重し、国の未来について、彼の夢について、少しずつ語ってくれるようになった。
――同時期、光を失った王国では、絶望が国中を覆い尽くしていた。
疫病による死者は増え続け、食糧庫はついに底をつき、各地で民衆の暴動が頻発していた。王太子アルフォンスと偽聖女リナには、もはやそれを収める力も、信頼も残されていなかった。
御前会議は、連日重苦しい空気に包まれていた。そしてついに、一人の老大臣が、震える声で口火を切った。
「もはや……道は一つしかありますまい。クライネル公爵令嬢……エリアーナ様をお連れ戻し、助けを乞う以外に、この国を救う術は……」
その言葉は、アルフォンスのプライドを粉々に打ち砕いた。自分が偽物と罵り、追放した女に頭を下げろというのか。だが、崩壊寸前の国と、失いかけている自らの地位を前に、彼に選択の余地はなかった。
「……エリアーナを、探し出せ。何としても、だ」
苦虫を噛み潰したような声で、彼はそう命じた。
帝国の、美しく蘇った中庭。私とカイゼル様は、近く公に発表される婚約について、穏やかに語らっていた。帝国に満ちる希望の光が、私たちの未来をも照らしているようだった。
その、幸せな静寂を破ったのは、血相を変えて駆け込んできた側近の声だった。
「へ、陛下! 緊急のご報告です!」
「騒がしいぞ、何事だ」
「はっ! 隣国より、王太子アルフォンス殿下が、エリアーナ様との面会を強く求め、国境検問所に現れたとの報せが、今……!」
アルフォンス――その名を聞いた瞬間、私の背筋を冷たいものが走り、顔からさっと血の気が引いた。
ようやく手に入れた穏やかな日々が、過去の悪夢によって、再びかき乱されようとしていた。