第5話: 『星見の塔の誓い』
「よく眠れるようになった」――。
あの夜、皇帝カイゼルが漏らした一言は、私と彼の間の見えない壁を、少しだけ溶かしたようだった。それ以来、彼が私に向ける視線には、以前のような「道具」を見る冷たさとは違う、微かな熱が宿るようになった気がする。
しかし、その変化は私に新たな戸惑いをもたらしていた。カイゼル様が見ているのは、聖なる力を持つ「至宝」としての私なのか、それとも、ただのエリアーナという一人の女なのか。彼の優しさが深まるほどに、私の心は揺れ動いた。
その間にも、帝国は目覚ましい変化を遂げていた。
私が毎日過ごす離宮の中庭は、今や色とりどりの花が咲き誇る、かつての姿が嘘のような美しい庭園へと姿を変えていた。施療院からは次々と快癒した民が退院していき、彼らは口々に「慈悲深き女神様が、この国をお救いくださったのだ」と噂し合った。私の存在は秘匿されているため、その「女神」が誰なのかは誰も知らない。けれど、長く絶望に沈んでいた民の間に、確かな希望の光が灯り始めていた。
国が良い方向へ向かうにつれ、カイゼル様の私への執着は、より一層強まっていった。
彼は、私がただ国を癒すためだけの存在ではなく、私自身が喜び、笑うことを望むようになった。
ある日、私が故郷の図書館を思い出して「本が好きです」と何気なく呟けば、翌日には離宮の一室が、帝国中から集められたであろう膨大な書物で埋め尽くされ、私だけの図書室が出来上がっていた。
またある夜、窓から見える月を見て「星が綺麗ですね」と零せば、彼は私の手を引き、城で最も空に近い、彼しか入ることを許されない星見の塔へと連れて行ってくれた。
「ここは、お前のためだけの場所だ」
そう言ってくれる彼の行動は、傍から見れば過剰なほどの「溺愛」だった。その一つ一つが私の心を温めると同時に、私は逃れようのない心地よい檻に、ゆっくりと閉じ込められていくような感覚を覚えていた。
――その頃。
私が追放された王国では、帝国とは対照的な、暗い影が忍び寄っていた。
聖女である私がいなくなった影響は、まず大地に現れた。何の前触れもなく、広範囲で凶作が続き、民は食糧不足に喘ぎ始めたのだ。さらに、これまで不思議と流行することのなかった悪性の疫病が、瞬く間に王都中に蔓延した。
「真の聖女」であるはずのリナが、いくら派手な光の奇跡を見せても、枯れた作物が蘇ることも、病が癒えることもない。民衆の不満は日増しに高まり、王太子アルフォンスは苛立ちを隠せずにいた。
いつしか、民の間ではこんな噂が囁かれるようになっていた。
「クライネル公爵令嬢がいなくなってから、この国はおかしくなったのではないか?」
「本当の聖女は、あの方だったのではないか……?」
自分たちが犯した過ちの大きさに、彼らが気づき始めるのは、まだもう少し先のことである。
再び、帝国の星見の塔。
満天の星が、まるで宝石をちりばめたように夜空を埋め尽くしている。私とカイゼル様は、二人きりでその絶景を眺めていた。澄み渡った空気は、私の力がこの国に行き渡り始めた証だ。
「エリアーナ」
静寂を破り、カイゼル様が私の名前を呼んだ。振り向いた私を、彼は真摯な、それでいて射貫くような瞳で見つめている。そして、私の手をそっと、しかし力強く握った。
「お前を、この国の皇后に迎えたい」
「……え?」
それは、愛情のこもった求婚なのか。それとも、帝国の「至宝」を完全に手中に収めるための、冷徹な政略なのか。
あまりにも突然の言葉に、私の思考は完全に停止した。ただ、握られた彼の手の熱さと、心臓の鳴り響く音だけが、やけに大きく感じられた。