第4話: 『皇帝の眠り』
皇帝カイゼルの「至宝」という宣言は、絶対的な命令として、その場にいた者たちに深く刻み込まれた。彼は私の返事を待つこともなく、側近たちへと矢継ぎ早に指示を飛ばし始める。
「エリアーナ様の存在は、帝国の最高機密とする。いかなる者にも、その能力について漏らすことは許さん」
「離宮の警備を倍に増やせ。侍女も信頼の置ける者だけを揃え、エリアーナ様の身の回りに不自由がないよう徹底させろ」
「食事、衣服、すべてにおいて最高のものを用意しろ。彼女の心身の健康が、帝国の未来を左右すると心せよ」
次々と下される命令は、迅速で、合理的で、一切の無駄がなかった。そしてそのどれもが、私という人間ではなく、私の持つ「力」に向けられていることを、私は痛いほど感じていた。私は人としてではなく、国の運命を左右する、極めて重要な「資源」として扱われているのだ。
その日から、私の生活は一変した。
追放された身からすれば夢のような、豪奢な日々。毎日運ばれてくるのは、見たこともないほど美しいドレスと、宝石の数々。食事は帝国中から集められた最高級の食材で作られ、何不自由ない暮らしが約束された。
しかし、私の心が休まることは一日もなかった。離宮から一歩も出ることは許されず、常に侍女たちの監視の目が光っている。彼女たちの態度は丁寧だが、その瞳の奥には「貴重品を扱う」ような緊張感が宿っていた。
私の日課は、カイゼルに指定された場所へ「行く」ことだった。ある日は城の食糧庫、ある日は騎士団の訓練場、またある日は病人が集められた施療院の近く。私はただそこにいるだけでよかった。まるで歩く聖遺物のように、場所から場所へと運ばれ、その身に宿る力で土地を、空気を、人々を癒していく。
成果は、すぐに現れた。
食糧庫では、わずかに残っていた種芋から青々とした芽が出た。訓練場では、呪いの瘴気で常に体調を崩しがちだった騎士たちの顔色が目に見えて良くなった。施療院では、原因不明の病に苦しんでいた人々の咳が和らいだ。
報告を受けるたび、カイゼルは満足げに頷いたが、私にかける言葉は「引き続き頼む」という事務的なものだけだった。
そんな日々が続くうち、カイゼルが私の離宮を訪れる頻度が、少しずつ増えていった。
最初は浄化の進捗を確認するためだと思っていた。彼は帝国の呪いの歴史や、民がいかに長い間苦しんできたかを、淡々と私に語って聞かせた。その声に、私は彼の冷徹な仮面の奥に隠された、国を思う真摯な気持ちを垣間見るようになっていた。
ある日の午後、私が窓の外を眺め、故郷の青い空を思い出して小さくため息をついた時だった。
「……つまらないか」
背後から、静かな声がした。カイゼルが、いつの間にか部屋に入ってきていた。
「いえ、そのようなことは……」
「そうか」
短い会話の後、彼は何も言わずに部屋を出て行った。そして翌日、私の部屋には、夜空を溶かし込んだような深い青色の絹織物や、故郷の空の色によく似た青い宝石が届けられた。慰めようとしてくれているのだろうか。その不器用なやり方に、私は少しだけ戸惑ってしまった。
彼自身にも、変化は訪れていた。
私と一緒にいると、彼の体を蝕む呪いの疼きが和らぐらしい。それに気づいてから、彼は公務の合間に、ただ黙って私の隣で書類を読んだり、目を閉じて過ごしたりする時間が増えた。
その夜も、彼は私の部屋の長椅子に座り、静かに目を閉じていた。浄化された離宮の空気は澄み渡り、穏やかな静寂が流れる。しばらくして、彼がぽつりと、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「……お前が来てから、よく眠れるようになった」
それは、今まで聞いたこともないほど穏やかで、少しだけ気の抜けたような声だった。
私は驚いて彼を見つめる。カイゼル自身も、思わず本音がこぼれたことに気づいたのか、少し気まずそうに咳払いをした。
冷徹な皇帝の仮面が、ほんの少しだけ、はがれ落ちた瞬間。
私の心臓が、トクン、と小さく音を立てた。この凍てついた帝国で、私の運命が、そして彼の心もが、静かに、しかし確実に変わり始めている。その予感に、私はただ、頬が熱くなるのを感じていた。