第3話: 『帝国の至宝』
意識が浮上する感覚と共に、私は柔らかな何かに体が包まれていることに気づいた。ゆっくりと瞼を開くと、目に飛び込んできたのは、見覚えのない豪奢な天蓋だった。繊細な銀糸で刺繍が施された、上質な絹の天蓋。私が眠っているのは、雲のようにふかふかとしたベッドの上だった。
「……ここは?」
かすれた声で呟くと、すぐに扉が静かに開かれ、一人の侍女が姿を現した。彼女は無表情に私へ一礼する。
「お目覚めですか。エリアーナ様」
「なぜ、私の名前を……」
「カイゼル皇帝陛下がお助けになり、この離宮へとお運びになりました。昨夜、森で倒れていらっしゃったのです」
カイゼル皇帝。あの夜の森よりも冷たい瞳をした、美しい人の顔が脳裏に浮かぶ。私は彼に助けられたらしい。しかし、侍女の態度は丁寧ながらも、どこか私を値踏みし、監視しているような冷たさがあった。ここは客室というより、美しい鳥かごの中のようだ。
混乱していると、再び扉が開き、部屋の主が姿を現した。昨日と同じ、黒い軍服に身を包んだ皇帝カイゼル。彼が一歩部屋に入るだけで、空気がぴんと張り詰め、侍女が深く頭を垂れた。
「目が覚めたか」
カイゼルはベッドの傍らに立つと、私を真っ直ぐに見下ろした。その瞳に感情はなく、まるで珍しい生き物でも観察しているかのようだ。
「単刀直入に聞く。お前は何者だ。なぜ、我が帝国の森にいた」
「私は……エリアーナ・フォン・クライネル。隣の王国から参りました」
「クライネル公爵家の令嬢か。そのような者が、なぜ供も連れずに」
彼の問いに、昨夜の屈辱が蘇る。俯きながら、私は正直に話すしかなかった。
「……婚約を、破棄されまして。国を欺いた偽りの聖女として、国外へ追放されたのです」
自分の口から「偽りの聖女」という言葉を発すると、胸がずきりと痛んだ。どうせこの人も、私には何の価値もないと、そう思うに違いない。
しかし、カイゼルの反応は予想と違っていた。彼は「偽り、か」と小さく呟くと、面白がるように、あるいは何かを試すように口の端を上げた。
「ならば、その『偽りの力』とやらを、私に見せてみろ」
「え……?」
「立て。ついてこい」
有無を言わさぬ命令に、私はおそるおそるベッドから降り、彼に従って部屋を出た。
連れてこられたのは、城の中庭だった場所。しかし、そこには庭と呼べるような面影はなかった。大地は灰のように乾ききってひび割れ、かつて植えられていたであろう木々は、黒い炭のように立ち枯れている。呪われた帝国の現状を、凝縮したかのような光景だった。
「あそこに立っていろ」
カイゼルが指さしたのは、中庭の中央。言われるがまま、私は乾いた土の上に立った。何をすればいいのか分からず、ただ戸惑っていると、カイゼルが冷たく言い放つ。
「何もしなくていい。ただ、そこにいるだけでいい」
その言葉に、私は息をのんだ。何もしない。ただ、そこにいるだけ。それこそが、私の聖なる力の在り方だったからだ。
私が覚悟を決めて、ゆっくりと目を閉じた、その瞬間だった。
ざわ……、と。周囲の空気が震えた。
目を開くと、信じられない光景が広がっていた。私の足元から、波紋が広がるようにして、灰色の土が生命力のある柔らかな茶色へと変わっていく。乾いてひび割れていた地面に潤いが戻り、黒く朽ちていた木々の根元から、次々と力強い緑の芽が、まるで祝福のように顔を出していくではないか。
「おお……!」
「なんということだ……これが……」
カイゼルの後ろに控えていた側近たちが、息をのんでその奇跡を見つめている。
偽りの聖女。そう呼ばれ、誰にも信じてもらえなかった私の力が、今、この死の大地を癒やしている。
カイゼルは驚愕に目を見張りながらも、すぐに表情を引き締めると、まっすぐに私の方へと歩いてきた。そして、私の目の前で立ち止まり、宣言した。その瞳は、逃がさぬとばかりの強い光を宿して。
「エリアーナ・フォン・クライネル。お前が偽りであるものか。お前の力は、この帝国にとって唯一無二の希望だ」
彼はそっと私の手を取ると、氷のように冷たい声で、しかし絶対的な響きをもって告げた。
「よって、お前は今日から、この国の『至宝』となる。我が庇護の下、その力のすべてを、この国のために使うのだ」
「……え?」
「異論は認めん」
皇帝の独占欲に満ちた宣言に、私はただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
追放された偽りの聖女の運命は、一人の冷徹な皇帝によって、全く新しい方向へと、強制的に舵を切られたのだった。