第2話: 『死の森と黒の皇帝』
夜の闇は、身分も名前も過去も、すべてを等しく飲み込んでいく。
王都の門が背後で閉ざされた瞬間から、私はただのエリアーナになった。公爵令嬢でも、聖女でもない。行き先も、帰る場所もない、たった一人の少女だ。
どのくらい歩いただろうか。絹の靴はとうに汚れ、レースの裾は泥で重くなっていた。貴族の令嬢として育った私には、夜道を一人で歩くための体力も知識もなかった。冷たい夜気が体温を奪い、空腹が胃をきりきりと締め付ける。脳裏をよぎるのは、追放された貴族の哀れな末路。野盗に身ぐるみ剥がされるか、あるいはこのまま誰にも知られず、森の獣の餌食となるか。
「……っ」
恐怖に足がすくみ、私はその場にうずくまった。涙すら、もう枯れ果ててしまった。いっそこのまま、すべてが終わってしまえば楽になれるのかもしれない。
そう思った時だった。ふと、風向きが変わり、鼻腔をかすめた空気に、私は顔を上げた。
鉄が錆びたような、澱んだ匂い。生き物の気配がしない、静寂。
私が無意識に向かっていたのは、人々が「呪われた帝国」と呼んで忌避する、隣国との国境地帯だった。
かつては緑豊かだったと聞くその国は、数代前の皇帝が受けたという呪いにより、大地は枯れ、作物は育たず、民は常に病に苦しんでいるという。
近づくほどに、空気は重く、息をするのが苦しくなる。喉がひりつき、肌がちりちりと痛むような感覚。誰もが逃げ出すこの場所で、私の体は、しかし、奇妙な反応を示していた。心の奥底から、何かが「渇いている」と訴えかけてくるような、不思議な感覚。それはまるで、私の聖なる力が、この汚染された大地に引き寄せられているかのようだった。
「行かなくては……」
誰に言われたわけでもない。けれど、突き動かされるように私は立ち上がり、ふらつく足で再び歩き始めた。帝国の森へと、一歩、また一歩と。
森の中は、まるで色彩を失った絵画のようだった。木々は黒く枯れ、地面には苔すら生えていない。不気味な静寂の中、乾いた枝が折れる音だけがやけに大きく響く。
そして、ついに私の体力は限界を迎えた。視界が白く霞み、膝から力が抜ける。ごつごつとした地面に倒れ込み、薄れゆく意識の中で、私は遠くから響く馬の蹄の音を聞いた。
(誰か……いるの……?)
助けを求める声も出せない。もうどうなってもいい。そう思った私の目の前に、数頭の黒馬が止まった。その中の一頭から、一人の男性が静かに降り立つ。
黒を基調とした、豪奢な刺繍が施された軍服。月明かりに照らされた顔立ちは、まるで彫刻のように整っていたが、その瞳は夜の森よりも深く、凍てつくように冷たい光を宿していた。
「……こんな場所に、人が?」
低く、けれど芯のある声。男が私に一歩近づいた、その瞬間。
彼が纏う、張り詰めた空気がほんのわずかに揺らいだのを、私は意識の淵で感じ取った。
男――呪われた帝国の若き皇帝、カイゼル・フォン・アドラーは、常にその身を苛む呪いの疼きが、ほんの一瞬、和らいだことに気づき、わずかに眉をひそめた。気のせいか、と視線を足元に落とす。そして、彼は目を見開いた。
倒れている女の周りだけ、まるで奇跡のように、黒い土を割って、数本の小さな緑の芽が顔を出していたのだ。
この死の大地では、決してありえない光景だった。
カイゼルはゆっくりと膝を折り、私の顔を覗き込む。彼の冷たい指先が、私の頬にそっと触れた。
「……お前は、何者だ?」
その問いに答える力は、私にはもう残っていなかった。ただ、彼の凍てつくような瞳の奥に、ほんのわずかな驚愕の色が浮かんだのを見届けながら、私の意識は深い闇の中へと沈んでいった。