魔女の死と、日本という贖罪の物語
凛とした姿をした魔女・・・?が、静かに、誰にも看取られることなく、死へと歩んでいく。
そんなアニメ作品を、ある日ふと目にした。劇的な演出も、大仰な台詞もない。けれど、なぜか心に深く突き刺さった。まるで、自分の行く末を鏡で映されたかのような、不思議な感覚だった。
その魔女は、ただの加害者ではなかった。
すべての「魔力災害」を引き受け、自らの中に抱え込み、他人を巻き込まずに滅ぶことを選ぼうとしている。だが、自死は許されない。だからこそ「誰かに殺されること」を、唯一の贖罪としようとしているように見えた。
それはあまりにも悲しく、あまりにも静かな決意だった。
この魔女の姿が、なぜか「日本」という国の姿に重なって見えた。
過去の戦争責任を背負い、国際社会への援助を続け、誠実に、平和的にあろうと努力してきたこの国。だが、その背後には、「自分たちがいなければ」「自分たちがいたから」という相反する思いが常に流れていたように思う。
まるで、世界に対する贖罪として自らを削り、静かに滅びることを受け入れているかのように。
もしも、この国が“魔女”なのだとしたら──
その魔女が死ぬことは、単なる一国の終わりではない。
彼女が背負ってきたもの、守ってきたもの、すべてが一緒に消えてしまう。
そして、それを誰も気に留めず、世界は「それでよかった」と惰性のように納得していく。
私たちは、そうした“空気”のなかで生きている。
世界は今、「自国のために」動くのが当然とされている。国益、主権、安全保障。だが、その当然が「他者との分断」を前提にしているとしたら?
そして人々が複雑な現実に疲れ、「最大公約数の正しさ」に流されていくとしたら?
「みんながそう言っているから、それが正しい」。
その言葉ほど、危ういものはない。
かつての戦争も、独裁も、排除も、すべては“多数派の理屈”から始まった。
8割の人が賛同していることのほうが、むしろ危険だと、誰も教えてくれない。
だからこそ、気づかぬうちに、私たちは**「滅びの選択肢」**を選びはじめているのかもしれない。
それは、爆弾でも革命でもない。
正しすぎる空気のなかで、静かに進行していく“終わり”だ。
魔女の死は、遠いファンタジーの出来事ではない。
それは、贖罪を背負った日本という国の姿であり、
空気に従うことで静かに死へ向かう私たち自身の未来でもある。
だからこそ、今この時代に必要なのは、
「それでも違う」と言える声なのかもしれない。
疑問を持ち、空気に流されず、滅びの空気に小さな違和を刺すような声。
それは小さな炎でしかない。
けれど、もしかするとそれこそが、まだ終わらせてはいけない物語の灯なのだ。