アルベルト直轄領
王都からアルベルト直轄領までは馬車で三日の道のりだった。冬の終わりを感じさせる風が、ようやく春の匂いを運んでくる頃。馬車の揺れに身を任せ、エリナはぼんやりと車窓を眺めていた。
「アルベルトが、私を頼るなんてね。」
口から溢れでた言葉に、自分で驚く。これじゃあまるで未練があるみたいじゃない。婚約破棄を告げられてから半年が過ぎたというのに。
「何か言ったか?」
前方で馬を引くルークが振り返る。
「いいえ、なんでもないわ。」
エリナは微笑み、そっと視線を逸らした。そう、あの私との関わりを最低限に抑えたがっていた彼の今までにない行動に驚いただけよ、と心の中で自分の考えを打ち消した。
ルークはそんなエリナを見て、密かにため息をつく。彼女が今も王太子を想い続けていることに気づかない者はいないだろう。──いや、正確にはエリナ自身だけが、自分の気持ちを直視していないのかもしれない。
それでもいい。彼女がそれで少しでも楽になるのなら、ルークは何も言わず、彼女の背を押し続ける覚悟だった。
◇◇◇
アルベルト領に入った途端、馬車の車輪が軋む音だけが響いた。人通りは少なく、窓から見える村人たちは、どこか不安げにうつむいて足早に通り過ぎていく。
「……静かね。」
エリナは馬車の小窓から、そっと外を見つめた。遠くの畑では、人影がちらほらと見えるが、活気というものはなかった。
「らしくないな。アルベルトの領地はもっと明るい場所だったろ。」
手綱を握るルークが小声で応じる。
「ええ、私がいた頃は……。」
エリナの言葉が途切れる。思い出したのは、王太子アルベルトと共に視察した日のことだった。王太子の直轄領として選定されるぐらい、資源が豊富で豊かな領地。彼の隣に立ち、村人たちと笑い合ったあの日々が、もう二度と戻らないことを思い知らされる。胸がわずかに痛んだ。
「……気になるか。」
ルークの視線が一瞬だけエリナを捉えたが、彼女は気づかぬふりをして視線を外した。
「まさか。もう半年も前のことよ。」
「そうか。」
ルークはそれ以上何も言わなかったが、心の中で小さくため息をついた。
◇◇◇
村に入ると、徐々に人の気配が増えた。だが、村人たちは一様に疲れ切った顔をしており、その視線は彼らの馬車に集まった。
「……聖女様?」
誰かがそう呟いた瞬間、空気が変わった。
「まさか、あの方が……。」
「聖女様が来てくださったのか……!」
人々の間にざわめきが広がり、やがて次々と村人たちが馬車の周りに集まり始める。
「聖女様、お救いください!」
「病が村を蝕んでいます。どうかお力を……!」
エリナは戸惑い、ルークに視線を向けた。
「ねえ、私は聖女じゃないのだけれど。」
「今は否定しない方がいい。ここの人たちは、何かに縋りたいんだ。」
ルークが低く答える。
(そう、私は……聖女ではない。)
それは、エリナが最も痛感している事実だった。婚約者だったアルベルトの傍で王太子妃教育を建前とした聖女教育を受けたが、奇跡のような力は一度も目覚めなかった。努力で補おうと必死に学び、身を削るように魔法を使ったが、彼女は「聖女」にはなれなかったのだ。
(でも……この人たちにとっては違う。)
病に怯える村人たちは、エリナを希望の象徴として見つめていた。その眼差しを前に、エリナはそっと微笑んだ。
「皆さん、大丈夫です。まずは状況を教えてください。」
彼女が柔らかく声をかけると、村人たちは次々と口を開いた。
◇◇◇
エリナは村の集会所で、病にかかった人々を診て回った。高熱にうなされ、衰弱していく様子は明らかだったが、これまで見た病とは少し様子が異なっていた。
「……魔物の気配を感じるな。」
ルークがエリナの後ろでつぶやく。
「魔物憑き……ね。」
エリナは患者の額にそっと手を置いた。目を閉じ、微かな魔力を流して体内を探る。
「やはり、普通の病ではないわね。」
「だが、これを癒せるのはお前だけだ。」
「そうね。」
エリナは胸の前で手を組み、ゆっくりと魔法を紡ぐ。淡い光が彼女の手元に集まり、病床の上で柔らかく広がった。
「あ……。」
患者の呼吸が少しだけ楽になったのを見て、周囲の村人たちが感嘆の声を漏らす。
「やはり聖女様だ……。」
「本物の奇跡……。」
エリナは微笑みながら、次々と患者を癒していった。だが、内心では焦りが募る。
(今はこの程度で済んでいるけれど、もっと強い魔物憑きが現れたら……。)
エリナは知っている。彼女が行使する治癒魔法は「聖女の奇跡」などではなく、訓練の賜物でしかない。どこかで限界が来ることを、誰よりも自分が理解していた。




