狂気に笑うもの
狂い果てた世界になるまで、人を殺したことがなかった私が、どうして今日まで生きてこれたのか。それはきっと、運に恵まれているからだろう。
私が人を殺した時の状況を振り返ってみると、都合のいい状況というのが続いていた気がする。初めて人を殺した時だって、目の前の男が外してくれなかったら、私はとっくに死んでいただろう。それに、私は気配に敏感でもあったから、背後から狙われたとしてもいち早く気づけた。
中でも一番運がよかったのは、坊主頭の男との戦闘だった。その男はショットガンという、発砲すると弾がまばらに散って飛ぶ銃を持っていた。それは脅威的な存在で、銃口の直線にいればまず命はない。圧倒的にハンドガンよりも優位に立ち回れる武器であり、私はその男に追い詰められた。だが最後の最後、男が引き金を引いた瞬間、銃口から弾は発射されなかった。弾詰まりか、それとも装填を忘れたのか。中身を確かめなかった私には分からないことだが、本当に運がよかったのだ。
曇天模様の空の下で、私は住宅街を歩き続ける。今日はまだ誰とも会っていない。誰とも会わないのも、運がいいと言えるだろう。単純に、死の危険性がゼロになるからだ。しかし、自分の手持ちの食料が切れている今、私は人を求めるしかなかった。
十字路を左に曲がった時、私はその足を止めた。道の先に立ち尽くす、膝まで届くコートを着た人間。こげ茶色の帽子を深く被ったせいで、その顔は口元までしか見えない。その口は無表情で、肩にはショットガンをかけている。
残り五発。私はハンドガンをしまっているポケットに手を入れると、男もショットガンに触れた。男の静かなる殺意に、私はすぐ手を抜けなかった。それでも私は手を引き抜いてすばやく引き金を引くと、男はそれを見越していたかのように、左にローリングして避けた。私は避けた先にもう一発発射する。それを男は避けてみせると、隣にあった家の塀に姿を消していった。
身を隠された以上、同じ場所に留まるのは危険だ。私は男と同じく左に向いて走り出し、家の塀を両手でよじ登って中へ入っていった。男との間には別の塀が挟まっている。この壁の一枚奥に、男はショットガンを構えているだろう。壁はそれほど高くなく、さっきと同じように手を伸ばせば届くだろう。弾は残り三発。代えはなく、このマガジンに入っている分だけで戦わなければならない。長期戦になれば勝ち目はない。
ふいに気配がし、顔をそちらに向ける。すると、家の用具入れの上に男が銃口を向けているのを見つけた。まもなく、銃声とともに散らばった弾丸が飛んでくる。急いで横にローリングしようとするも、途中で左肩の骨が砕けるような痛みが伝わると、そこから血を流しながら家の壁に隠れた。動かせない不自由さを感じるが、不思議と痛みは感じない。私はすぐに反撃しようと顔を出すと、引き金を二回引いて、右手一本で銃の反動を抑えた。
二つの弾丸の内一つが男の左肩を貫く。そのまま男は用具入れから後ろに飛び降りていくと、私も飛び越えた塀をもう一度手を伸ばし、そこを離れて十字路に出た。
残り一発。十字路の角で待ち伏せていると、その先で足音が聞こえた。この先に男はいる。私は壁から勢いよく飛び出すと、電柱から出て来ようとした男にしっかりと銃口を向けた。そして、いつもと同じように、最後の一瞬まで目と指に意識を集中して、引き金を引いた。しかし、無常にもカチッと音がなると、いつもの反動は感じられなかった。
弾切れだ。そう理解するのに、私と男は一切の時間を必要としなかった。男はショットガンの引き金を引いて片膝を打ち抜く。今度はしっかりと痛みに脳が震えると、私は地面に膝をついて倒れた。
初めての敗北だった。まさか残りの弾数を数え間違えるとは。肝心のミスをここでやらかしてしまうのを、私は信じられなかった。やがて、男が近づいてくる足音が聞こえると、私は頭をあげた。額にショットガンの銃口が突きつけられ、発射したばかりの焼けた匂いと、こすれた部分の熱を感じる。
ここまで続いていた運は、ここで尽きてしまったらしい。もうどうすることもできない。私はすべてを諦めるように目を閉じ、自分の終わり受け入れようとした。そうして、暗闇の中から聞こえてきたのは、カチッという引き金を引く音。ただそれだけだった。
ショットガンが額を離れ、私は目を空ける。男は何も言わないままそこにいると、私の横を歩いて通りすぎていった。
一人残された私は、灰色の空を見上げた。あの日から変わらない、色の見えない世界。こうなる前は、世界はどんな色をしていただろうか。私はそれを思い出すよりも先に、思わず笑みが浮かべていた。
ご愛読ありがとうございました。夢で見ただけの世界だけあって、漠然とした内容だけでまとめましたが、誰かの暇つぶしになれたのなら幸いです。
また、同作者が現在連載している「魔王が死んだ世界でどうしろと? ―嘘を知らない少女と問題だらけの異世界巡り―」の方も、ぜひ読んでいただけたらなと思います。