糸電話
幼稚園の頃に、工作で作った『糸電話』。
二つの紙コップと一本の糸と少しのテープ。それだけあれば簡単に作れる手ごろな電話。
作るのは楽しかった。でも、使用したのはほんの数回だけ。
電話といっても、お互いの顔は見合えるし、糸が切れれば終わり。
子供心にはあまりにもつまらないもので、作って終わりという代物だった。
だけどどうしてだろう、大きくなっていざそれを使ってみると感じる。
一本の糸を通じて相手の声が自分に伝わり、自分の声が相手に伝わる。
なんだかそれがすごくよかった。
だって、その相手が好きな人なら……
———— その糸は、さながら運命の赤い糸だ。
*
暗く、閉め切った部屋の中。そこが俺の今の世界。そこから出ることはとても怖くて自分からはその世界をでることができない。
だけど、一日のほんの短い時間。一時間ともみたい間だけ、その世界から外の世界をのぞくことがある。
外から聴こえる乾いたノック音。
それに気づいた俺は、少しだけ世界の扉を開いた。
すぐ傍に落ちていたのはどこにでもある白い紙コップ。
俺はそれを手にして、ベットの上で膝を抱えながら耳に当てる。
『おはよう』
コップから聴こえる少女の声。
外の世界にいる、俺の幼馴染の声。
「おはよう」
『うん。お休みだからまだ寝てると思った』
「そうだけど、なんか飛んでくると思って」
『野生の勘?』
彼女の楽しそうな声が耳に届く。それを聴くたびに、心が満たされて、胸がグッと苦しくなった。
「今日朝練は?」
『テスト期間でお休み。数学難しくて』
「お前、昔から理系教科無理だもんな」
『むっ……そっちは文系教科ダメダメじゃん』
「今は……そんなんでもねぇよ」
たぶんそうだと思う。部屋にいてもやることがなくて、ひたすらゲームをした。クイズ問題とかもやって、その時に答えがわからなくて、ネットで調べて、そこからいろいろなことに興味を抱き、知識はそれなりにある。
だから、昔ほど文系教科が苦手ではなくなった。
『ねぇ……』
「んっ、なに?」
『学校、こないの?』
「……あぁ」
『じゃあなんで高校受験したの? なんで進級試験受けたの?』
さっきまでの明るい声とは違う、暗い声。
違う……俺が聴きたいのはそんな声じゃない。
お前の声でも、そんな……悲しそうな……寂しそうな声じゃない。
『ごめんね』
謝罪の言葉。また、謝らせてしまった。悪いのは俺で、あいつはいつも俺を気遣ってくれてるだけ。
幼馴染だから。だからあいつは俺に構ってくれる。
『私はいつでも待ってるから』
俺はいつも、差し伸べてくるあいつの手を取ることができない。
俺は拒むように、窓から紙コップを落として窓を閉め、ベットの上に横になった。
わずかに聞こえる引きずられる音は、あいつが紙コップを回収する音。
これが今の俺の日常だ。
*
中学の頃、俺はいじめにあった。
よくあることだ。クラスの中心人物に反抗して、全員に無視されて、机に悪口書かれるわ、教科書や上履き隠されるわで、もう散々だ。
しかも、その中心人物が幼馴染に好意を抱いていたらしく、いじめはさらにエスカレートした。
担任に言っても聞く耳を持たない。だって、大人数が俺が悪いと言っているのだから。
でも、別によかった。いじめられても、少なからず味方が一人はいた。
幼馴染ではない。彼女は別クラスだったし、同じクラスだったら、きっと俺と同じようにいじめられていた。
その味方はいつも俺を励ましてくれた。別にへこんでるわけではなかったが、たった一人味方がいるだけで、俺の心は強くいることができた。
だけど、そんなの俺の勘違いだってことが分かった。
「ホント、馬鹿みたいに信じてんだよ、あいつ」
結局あいつも、俺の敵だったのだ。
味方のふりをしてただけ。悪口も、教科書を隠したのもアイツ。
そして、俺は学校に行かなくなった。
裏切られたからじゃない。ただ、人が怖くなったのだ。
人間が悍ましいものに思えた。そして、自分もまたその人間だと思うと、部屋から出れなくなった。
ずっと、ずっと部屋に籠って、ただただ何も考えずに天井を見上げる毎日。
親の言葉も異形のモノに聞こえてしまい、罵声を浴びせたこともある。
「外は、怖い……」
いつしか、この部屋の外は異世界になっていて、化け物がうじゃうじゃいる。
現実から目を背けるために、そんな妄想を抱くようになった。
これが、約半年ぐらい続いた。
少しだけ変わったのは、たぶん幼馴染のおかげだった。
その日も、ただ何かするでもなく、ベットの上で横になっていた。不意に、窓ガラスに何かが当たる音が聞こえた。
一度だけではなく、間をあけて何度も何度も聞こえる。
気になってカーテンを少し開けると、ちょうど向かい側の彼女が何かを投げようとしていた。
目が合い、笑顔を浮かべた彼女はそれを投げてきた。
気になってそれに目を向けると、白い紙コップが転がっている。
彼女はジャスチャーで、それをとって耳に当てるように指示を出した。
久しぶりに窓を開ければ、少しだけ外の風が中に入ってくる。無意識に外の空気を吸い込み、はぁ……と一息つく。
不思議と気持ちが少しだけ晴れたような気がした。
開いた窓から手を伸ばし、転がる紙コップを手にして耳に当てる。
『久しぶり』
遠くにいるはずの声が紙コップから聴こえて俺は思わず驚いてしまった。
よく見れば、コップには糸が繋がっており、それが糸電話だと認識した。
その日から、俺は彼女と糸電話を使って会話をした。
誰かと話すのは久しぶりで、最初は声の出し方すら忘れていた。だけど彼女は、嫌な顔も不満も何一つ言わずに、俺の言葉を待って、そして笑ってくれた。
彼女の声は、不思議と俺の心を癒してくれた。声音の一つ一つが糸を伝って聞こえて、そのたびに胸がすごくドキドキした。
「楽しいか?」
その日、俺は彼女にそう尋ねた。
彼女は学校のことを楽しそうに話す。正直、あまり聞きたくないことだが、彼女から話を聞くとすごく楽しそうに聴こえてしまう。
『うん、楽しいよ。でも、受験勉強は大変』
「そっか……」
『……高校、いかないの?」
「わかんね……現状、外に出れる気がしない」
心の問題か、部屋の外に出るとひどく気分が悪くなる。お風呂に行くときも、トイレに行くときも。
たったそれだけでも部屋に戻れば過呼吸気味になるのに、外なんて出てしまったら俺は死んでしまうのはないかと割と本気で思っている。
『そっか……でも、ゆっくりでいいからね』
「えっ……」
『私は、待ってるから」
話しているときにも思った。こいつは、俺にあったことを聞こうとしなかった。
もしかしたら誰かに聞いて知っているのかもしれない。それでも、一回としてその話題は出て来なかった。
多分、核心に近い部分の話をしたのは、今日が初めてかもしれない。
《待ってる》
その言葉は、俺の心に深く刻み込まれた。
夕刻、母が夕飯を持ってきた。廊下に、お盆が置く音がわずかに聴こえ、俺はゆっくりと扉に近づいた。
「母さん……」
声をかけると、母の足が止まる音が聴こえた。返事はない。だけど俺は、そのまま言葉を続けた。
「父さんが帰ってきたら、部屋の前まで来て……話があるから」
「……わかった」
一言、つぶやくようにそう言って、母はその場を後にした。
ズルズルとそのまま床に座り込むと、ゆっくりと扉を開き、俺は夕飯を回収した。
「帰ったぞ」
扉の向こう、父の低い声が聞こえた。
ベットから降りた俺は、そのまま扉を挟んで両親と対面した。
「ごめん……」
最初に謝罪をし、俺は胸の内を両親に話した。そして、これからどうしたいかを話した。
高校受験はする。だけど、行けるかどうかはわからない。正直、まだ外が怖くて仕方がないと。
けどせめて、家の中だけは平気になれるようになりたい。迷惑をかけてごめん……親不孝でごめん……ごめん、ごめん……
最後の方は、泣きながら謝罪した。扉の向こうからは、母のすすり泣く声が聴こえた。父さんは何も言わず、ただ黙って話を聞いてくれた。
「そんなに謝るなら、将来はしっかり親孝行してくれよ」
「うん……」
「お前の気持ちはわかった。高校までは父さんたちもしっかり手伝ってやる。大学のことはまたそのときに話そう。お前も、現状でいっぱいいっぱいだろ」
「うん、ありがとう父さん……母さん」
そっと扉に手をつき、俺はすすり泣く母に声をかける。
扉越しに手が重なっているのか、少しだけ母の温もりを感じる。
「飯、いつもありがとう。一緒に食事が取れるように、俺頑張るから。だから、もう少しだけ待っててほしい」
返事は返ってこなかった。ただ、すすり泣く声しか聴こえなかった。
その日から、俺は少しずつ部屋の外に出れるようになった。最初はまだいつも通りお風呂やトイレに行くだけでも辛かった。
でも、用がなくても部屋の外になるべく出るようにすると、少しずつ平気になってきた。もしかしたら、家の中は大丈夫だと気持ち的に安心したからかもしれない。
この調子で外にも。そういう自信と期待はあったが、そう簡単にはいかなかった。どうしても玄関で足がすくみ、身体中の穴という穴から汗が溢れ出てきて、心臓が激しく脈打ってその場で膝をついて必死に酸素を求めるように呼吸をした。
今だにその症状は続き、高校に無事に合格したものの、俺は外に出ることはできずにいた……
*
「…………」
いつの間にか眠ってしまっていたようで、俺はゆっくりと体を起こしながら辺りを見渡した。
いつも通りの薄暗い部屋の中ではあったが、なんだかいつもよりも暗い気がした。時間を見ようと思ってスマホに手を伸ばそうとするが、不意に窓から乾いた音が聞こえた。
僅かにカーテンを開ければ、外に紙コップが転がっている。いつも通り窓を開け、それを手にとって耳に当てる。
『おはよう、かな』
「……ん」
糸を伝い、コップから聴こえる彼女の声。寝起きの頭にはなんとも心地よい声なのだろうか。
なんの用かと、少しぶっきらぼうに尋ねれば、彼女はどこか楽しそうだった。
『植物園のチケットもらったの。ほら、今CMやってる』
「なんかやってたな」
『そうそう。友達に好きならこれあげるってもらったんだ。ほら、私昔からお花とか好きでしょ?』
「そうだな。理系教科全然ダメなのに、それとか星に興味があるよな」
『うん。花言葉とか好きだから』
「知ってる」
『うん。でね、一緒に行かない?』
胸に刃物を突き刺されたような痛みと苦しみを感じた。
なんで、どうして。出れないことなんてこいつも知ってるはずなのに、なんでそんなこというんだよ。そういう激しい疑問と苛立ちを感じた。
『言いたいことはわかるよ。でもね、私一緒に行きたい』
「だから……俺は、外に出れないんだよ」
『そう思い込んでるだけだよ』
「違う!思い込みじゃない……あの苦しさは、勘違いなわけない」
頭の中で何度も何度もあいつに言う。
頼むから、その優しい声で残酷なことを言わないでくれ。俺を追い込まないでくれ。俺がお前に求めてるのはただただ優しい言葉だ。
「…………ぁれ」
突然、彼女の声が聴こえなくなった。
彼女の部屋に目を向けるが、彼女の姿はどこにもない。あるのは、窓の外の柵にかけられている糸電話の片側だけ。
その時、家にインターホンが鳴る。まさかと思って俺は玄関へと向かう。だが、扉を開けることはできず、その場で足を止めてしまった。
「…………」
「そこにいるの?」
扉の向こうからあいつの声が聞こえた。わざわざうちの前まで来たみたいだ。
「なんだよ……」
「ふふっ、久しぶりに直接声聞いた気がした」
「直接来たって、俺は行かないからな」
楽しそうな彼女に対し、俺はただただ緊張が走っていた。少しずつ、体から汗がにじみ出てきて、心拍数も上がり、僅かに息が荒くなる。
俺は必死に早く帰ってくれと何度も唱える。だけどそんな考えに反して、もっと声を聴きたいとも思ってしまう。
「……ねぇ、私の好きな花、覚えてる?」
「…………アネモネ、だろ」
前に、会話の中でそれを聞いた。時期は確か俺が部屋にこもってしばらく経ってだった気がする。今まではこの花が好きだと、特定の名前は言わなかった。だけど、その時はアネモネが好きだと断言していた。
「アネモネの花言葉知ってる?」
「……悲愛系だった気がする。《儚い恋》とか《見捨てられた》とか」
「うん、全般的なアネモネの花言葉だね。私が好きなのはね、紫色のアネモネなの」
コンコンと二度ほど扉がノックされる。彼女が今扉の前にいることを合図しているようだった。一歩踏み出そうとしたが、俺はぐっとそれを堪え、彼女の言葉を待っていた。
「紫色のアネモネの花言葉は《あなたを信じて待つ》」
言われた言葉に、俺は目を見開いた。何度も聞いた言葉。だけど、いつもよりひどく心を震わせる。どうして、なんで……胸が苦しくなり、いまにも泣き出してしまいそうになっていた。
「貴方のペースでいい。けど、無理だって諦めることだけはしないで。だって、前は部屋からも出れなかったんだよ。でも今、貴方はそこにいる。頑張って、頑張って、そこに立つことが出来たんでしょ?」
そう、自分の進歩経過はいつもこいつに糸を伝って話していた。
トイレや風呂に行くのが平気になった。まだ晩御飯だけだけど、家族で食べれるようになった。一緒にテレビを見れるぐらいには平気になった。そんな出来事を、いつもいつも、俺はどこか嬉しそうに彼女に伝えていた。
「外に出る練習なら、いつでも付き合うよ。だってさ、また一緒に登校したり出かけたりしたいもん。一人は……寂しいから」
扉から聞こえる震える声。なんでお前が泣くんだよ……悪いのは俺なんだ、お前がなく必要はないだろ。
違う……俺が聞きたいのはそんな声じゃない。俺が聞きたいのは、お前の……
「わかった、なら今付き合え」
「え?」
「外に出る練習。そこに立って、前みたいに俺を呼んでくれて」
「それだけでいいの?」
「それだけで、いい」
正直体は震えているし、汗もめちゃくちゃ出てる。怖い、怖い、怖い………
「ーーーーー春暁」
扉の向こうから、あいつが俺を呼ぶ声が聴こえる。まだちゃんと学校に通えていた時期、いつも俺を迎えに来て、扉の前で俺の名前を呼んでいた。
不思議と、彼女がそこにいる安心感があった。これは、糸電話で話していたときと同じ感覚。身体中に感じていた不安が全部消えて、不思議と勇気が出てくる。
両親にちゃんと話をしようと思った時も、今と同じ感覚を感じていた。
俺は靴も履かずに扉の前へと行き、ゆっくりと扉を開いた。
眩しい光。思わず目を細めてしまうが、どんな光景よりも先に目に入ったのは、久しく見た彼女の姿だった。
「おはよう」
にっこりと笑みを浮かべた彼女は、いつも最初に言っている言葉を口にする。
不思議と心は穏やか。さっきまで感じていた恐怖はどこかへ消えてしまっていた。
「今はこんばんはだろ」
「ふふっ、そうだね。でも、案外あっさりだったね」
「そんなことは、ない……な……」
まるで思い出したかのように、体は拒否反応を起こした。
その場に膝と手をついて、ばくばくと心臓が激しく動き、体から汗がにじみ出る。
「わ、るい……はぁ、はぁ……とりあえず、中……」
「う、うん!」
さすがの本人も、ここまでとは思っていなかったようで、かなり動揺していた。
肩を借り、家の中に戻って壁に寄りかかり、俺は一息ついた。
「おばさんからタオル借りてくるね」
「待って」
不意に、俺はこいつの手首を掴んでしまった。掴まれた本人も、掴んだ俺も、互いに驚いた。
何を言うか迷う。お礼を口にするべきだが、素直に「ありがとう」と言える感じではなかった。
「現状こんなだし、植物展行くのは無理だけど……まずは、お前ん家に行けるように頑張る。練習はボロボロになりながらでもお前ん家にいけたら付き合ってくれ。だからその……もう少し一人で頑張るから、待っててくれ……ーーーーー 紫」
もしかしたら、久しぶりに名前を読んだかもしれない。それに、改めて自分が言ったセリフを思い出すとすごく恥ずかしくなる。
彼女の様子を伺うように横目で少しだけ見上げると、なぜか顔を赤くしていた。
「あっ、タオルもらってくる」
バタバタと駆け足でリビングへと入っていき、しばらくすると母さんが血相を変えて俺に駆け寄って来た。
外に出たせいか、ひどく体がだるくて、俺はそのまま眠りについてしまった。
*
あれから数日後、朝早くに起きた俺はカーテンと窓を開けて、目の前の家の前に向かって何度もそれを投げつける。
すると、相手の部屋のカーテンと窓が開き、投げつけたそれを手に取り、しばし見つめると耳に当てた。
「おはよう」
いつもとは逆。俺が朝の挨拶をした。
『作ったの?』
「俺から話したいときに、話せないから作った」
『連絡先教えてるのに……」
「そっくりそのまま返してやる。それに、俺はこっちの方がいい」
『変なの……でも、私も糸電話の方が好きかな』
あぁ本当に、心地がいい。
なににも阻まれず、一本の糸で繋がったそれを互いに耳と口に当てて。
『今どこまで出れるようになった?』
彼女の声が糸を伝って俺に聴こえてきて
「家の敷地内は超えれた」
俺の声が糸を伝って彼女に届いて
『うちに来るのはまだまだ先になりそうだね」
「今月中には平気になる予定」
子供でも簡単に作れる、不便で、貰い連絡道具のはずなのに、ひどく特別に感じてしまう。
だって、声を届ける相手が……聴こえてくる声の相手が……もし、好きな人だったなら……
「紫」
『ん?」
「 」
糸を伝って、俺の言葉が彼女に伝わる。俺は口から紙コップを離すと、そのまま耳に当てた。
『春暁、私ね……』
糸を伝って聴こえた彼女の言葉は、ひどく俺の心を苦しめた。
【完】