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第18話 清算

 タクシーが近づいてきたことに気づいた越川が立ち上がった。

 今夜初めて瞳子のマンションを訪れる予定だった彼には、まだ住所を伝えていなかったはずだ。

 なのに何故彼がここにいるのだろう──?


 恋人の体調を心配して駆けつけたであろう健気な彼の姿が、瞳子の心に当惑と焦りと絶望を塗り広げる。

 胸を塞がれ、呼吸がどんどん浅くなる。




 もう逃げられない。誤魔化せない。




 礼隆の手に絡めていた指の先に知らず力が入ると、礼隆もまた瞳子の手をぎゅっと強く握り返してきた。


 その瞬間、圧し潰されそうになっていた瞳子の心に淡く柔らかな光明が一筋差し込んだ。


 かつて心の乾きに喘ぎながら求めていた礼隆の心に、今ようやく触れることができたのだ。

 礼隆と再会できたことを自分は後悔していない。


 この一瞬だけでも礼隆と心を重ね合わせることができたのならば、もう何も望むまい。

 越川からの非難や侮蔑もすべて受け止め、砂漠にひとり投げ出される罰と孤独を与えられようとも甘んじてそれを受け入れよう。


 タクシーが停車する寸前、瞳子は再び指先に力を込め、ようやく手に入れた礼隆との心の繋がりを最後に確かめようとした。


 けれども――――


 彼の指先はそれに応えることなく、瞳子を静かに解放したのだった。


「礼隆く……」

「瞳子さんっ」


 彼の真意を問おうとした瞳子の声は、後部座席のドアが開いた瞬間に飛び込んできた越川の声にかき消された。


「体調はどうですか? 診察の結果は?」


 瞳子が降りてくるのを待ちきれず、もどかしそうに車内を覗き込んできた越川の視線は座席の奥、彼女の隣に座る若い男に縫い止められる。


「……えっと、その人は……?」


 越川が曖昧な笑顔で瞳子を窺う。




 もう逃げない。誤魔化さない。




 一人タクシーを降り、彼にすべてを打ち明けようと瞳子が腰を浮かせたとき。


「この人が瞳子 “ちゃん” の彼氏?」


 曇りのない声色で発せられた礼隆の言葉に、瞳子は驚いて振り返った。


 そこにあったのは人懐こくも隙のない、心を閉ざしたいつもの笑顔。

 心を重ねた直後思いきり突き放された衝撃に、瞳子は眩暈を覚えた。

 そんな瞳子の返答を待たず、礼隆の頑なな微笑みはすぐに越川へと向けられた。


「はじめまして。俺、彼女と同じ沿線に住んでいる従弟いとこです。瞳子ちゃんが熱を出したみたいだから様子を見てきて欲しいって伯母に頼まれて、救急センターに付き添ってたんです。彼女、インフルエンザA型でした」


 屈託のない口ぶりに、戸惑いを滲ませていた越川の笑顔に安堵の色が広がった。


「そうですか。僕がすぐに駆けつけられたらよかったんですが……。頼れる人が近くに住んでいて本当によかった」


「僕はこのままタクシーで駅まで戻ります。後はよろしくお願いします。じゃ瞳子ちゃん、お大事にね」

「あ……」

「ありがとうございました。それじゃ」


 礼隆に肩を押され、越川に手を取られて、瞳子は困惑するままタクシーから降ろされた。

 ドアが閉まると、礼隆は隙のない笑顔を崩さぬまま二人に会釈をする。


 走り去るタクシーを見送った後も、瞳子は越川の瞳を見ることはできなかった。


「瞳子さんが心配で、高坂さんの奥さんにマンションの住所をお聞きして来ちゃいました。迷惑だったかな」

「……そんなことは……」

「インターホン押したけど出なかったから、病院に行ったんだろうとは思ってたんです。インフルエンザだったなんて、すごくつらいでしょう? 僕も数年前に罹った時は大変だったなあ」

「…………」

「ちょっと顔を見に来ただけだから、僕はもう帰ります。これ、よかったら食べてください」

「……すみません」




 どうして最後に突き放したのだろう。

 どうして罪を認めさせてくれなかったのだろう。


 越川からの非難も侮蔑も自分一人ですべて受け止めるつもりだった。

 たとえ砂漠に投げ出されても一人で歩むつもりだった。


 繋がった指先を、あのとき礼隆が最後まで離さずにいてくれたなら――――




 瞳子の心は底知れない悲しみの深淵へ沈んでいく。


 そんな瞳子の様子を体の不調だと推し量ったのだろう。

 越川は彼女を追及することもなく、玄関前まで瞳子を送ると「お大事に」と笑顔で去っていった。


 越川から受け取った紙袋には、ここに駆けつける前に立ち寄ったのだとわかる高級フルーツパーラーのカットフルーツが入っていた。


 見舞いの礼も懺悔の言葉も紡ぐ気力が失われ、越川にはその晩何の連絡もできなかった。

 精神も体力も消耗した瞳子は、浅い眠りを繰り返しながらただ静かに涙を流し続けた。


 ***


 早めに薬を服用できたおかげで瞳子の熱は翌日のうちに下がり、会社との話し合いで水曜日から出勤することとなった。

 越川は月曜日から大阪に出張しており、瞳子の体調を気遣うように毎晩手短なメッセージを送ってくる。

 電話で話をするにはあまりに後ろめたく、瞳子も簡単な返信で体調の回復を伝えるに留めていた。


 このまま何事もなかったかのように越川と交際を続けることはできない。

 彼との結婚を考えるならばなおさらだ。

 結婚すれば必然的にお互いの親族と顔を合わせる機会ができる。

 その時に、沿線に住む若い従弟などいないということは知られてしまうのだ。

 自分を信じ、自分を愛してくれる越川を騙し続けて傷つけるのは許されざることだ。




 何より、自分の心を騙し続けることはもうできない。




 越川が出張から戻ったら、瞳子は彼に会って礼隆との関係を告白し、別れを申し出ようと考えていた。


 その後は一度ひとりになって、自分の気持ちを整理しよう。


 越川の誠意を無下にする自分が礼隆の心を求める資格などない。

 そもそも、蜘蛛の糸のように儚い心の繋がりは、礼隆によってあっさりとその場で切られたのだ。

 もう二度と彼の心に触れたいなどと望むべきでないことはわかっている。


 けれども、律儀な性格の瞳子はどうしても彼に清算しておきたかった。

 高熱を出して動けなくなっていたあの日、礼隆は自宅や実家のクリニックに移動する際、そしてまた瞳子のマンションに送る際のタクシー代をすべて支払っていた。

 それなりの金額であったはずだから、借りたままにするのは後味が悪い。それに、何も言えないまま別れてしまった彼に、駅で動けなくなってしまった自分を助けてくれたことへの感謝だけは伝えておきたい。


 その週の金曜日、瞳子は通勤帰りに礼隆の自宅の最寄り駅で降りた。

 菓子折りと、一万円札を入れた封筒の入った手提げの紙袋を持って。


 番地がわからないから宅配便で送ることができなかっただけで、元より顔を合わせるつもりなどない。

 アパートの彼の部屋は二階の一番奥だから、玄関ドアの脇にそっと提げておいても目立つことはないだろう。


 アパートの外階段もできる限り足音を立てずに上り、部屋の前まで来た時には呼吸すらも止めて慎重に紙袋をぶら下げた。


 彼は今部屋にいるのだろうか。

 ドアを隔てたすぐ向こう側で、誰かと共に過ごしているのだろうか。


 この期に及んでそんなことが気になる自分が嫌になる。

 いつ玄関を開けて彼が出てくるか分からないのだ。一刻も早く立ち去ろう。


 靄のように立ち込めた苦い感情を、細く長い息と共に吐き出した。




 もう忘れよう。




 その決意を心に刻み振り返った瞳子の瞳が大きく見開かれた。


 びくりと跳ねた心臓が止まりそうになる。


 凍りついた瞳子の視線の先には、階段を上りきった場所で礼隆が呆然と立ち尽くしていた。

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