自宅でおやすみ
「怒涛の二十連勤だった…もう限界だ」
一人の男が覚束ない足取りで歩く。眠気が限界であったことから徒歩での帰宅である。普段であれば働き盛りの年齢である彼は活力に溢れた表情をしていた。しかし今はどうであろうか。目元には特大の隈が見て取れ、無精髭は顎や鼻下のみならず頬まで生えている有様である。
「ただいまぁ…」
自宅に辿り着いた彼は誰も返事をしないことを知りながらも帰宅の挨拶をする。否、それを知りながらも判断することが出来ていないだけなのかもしれない。幽鬼のような足取りでスーツを脱ぎ捨て、流れるように敷きっ放しの布団の中に意識と体を預けていった。
「………なさい」
「…起きなさい」
「起きなさい!」
「んん?おはようございます?」
「はい、おはよう」
男は返事はしたものの状況が飲み込めていない。昨日は確か家に着いたら直ぐに寝たはず。独り暮らしになってしまった自分に起こしてくれる家族はいない。さらに言えばそのような間柄の友人や知人もいない。目の前でむっつり顔で腕を組んでいる女性は誰なのであろうか。
「私は家で寝ていたと思うのですが……」
男は寝起きで呆けている頭で必死に考えた末に余所行きの口調で疑問を口にした。
「寝ているわね」
間髪入れずに女は答える。
「そうですよね…寝ている…寝ている?!」
「だから寝ているわよ、大声で喋らないで頂戴」
「いやいやいやいや起きてるだろ、ほらこうして喋ってるんだ!寝ているわけあるか!じゃあ何かこれは夢の中とでもいうつもりか?夢の中でも俺は寝ていたってことか?!」
男は余所行きの口調で話すと決めた矢先、たったの十秒で素の口調に戻っていた。女の態度と自己の置かれた非現実的な状況を前に冷静さを一瞬で失った。
「そう、ここは貴方の夢の中よ。ちょっとした頼み事があるのだけど聞いてもらえないかしら?」
「嫌だと言ったら?」
口調こそは丁寧なものの言葉の節々に混ざる女の高慢な態度にカチンときた男は売り言葉に買い言葉で喧嘩腰な反応をする。
「あらそう。良いわよ別に断ってくれても。私は夢と眠りの女神ヒュープエラ。眠りを司る私に人間一人に不眠の呪いをかけることなんて造作もないわ。それこそ24時間365日働けるわよ、死ななければね。」
「話を聞こう。」
男は夢の中のはずなのに悪寒に襲われた。ここで断ると本当に現実になりかねないと本能が訴えかけてくるのである。
「あら、賢明ね。頼みというのは貴方に異界に行ってほしいのよ。」
「異界?なんだそれは?平行世界みたいなものか?」
「全然違うわよ。平行世界は基本的には貴方の住む世界と同じ法則がある世界。異界…異世界とでも言う世界は貴方が知る法則と全く違う世界。」
「具体的には何が違うんだ?」
「まずは物理法則からして全く違うわね。もちろん生物も文化も言語もね。」
「それは…無理だろう。俺が行ったところですぐ死ぬのがオチだ。この話は無かったことにしてもらえないか?」
「嫌よ。先ほどは頼みとは言ったもののこれは確定事項よ。もう貴方の肉体もアストラル体も魂も全て狭間に持ってきてしまっているもの。」
「アストラル体…?なんだかよく分からないが、もしかしてこれは夢ではないのか?」
男はその言葉を口にした途端に全てが胸の内に入ってくるように理解出来た。
なにもかもがおかしい。夢であるならなぜ眠る瞬間と同じ服装なのか。なぜ最初に眠っていたのか。眠ったままここに連れてこられたのだとしたら辻褄が合う。
「あら、ばれちゃったかしら。」
ヒュープエラは舌を出して悪戯がバレた少年のような顔で笑う。
「ご明察よ。だって最初から貴方を誘拐してきて今から危険な異界に行ってもらいますなんて言ったら興奮して話にもならないでしょう?だからワンクッション置いたのよ。」
男はヒュープエラの発言に男は全身の力が抜けていくのを感じた。
「なるほど。口ぶりからするともう元の住んでいた世界には戻れないんだな。なら教えてくれ、どうして俺は異界に行く必要あるんだ?」
「よく分からないのよねぇ~。いつも通り寝てたら、いきなり主神様に叩き起こされて異界に送る魂を選べって言われたのよ。私だって被害者なの!」
男は目の前の女神のあまりにも無責任過ぎる物言いに青筋を立てながら拳を強く握った。が、ここで怒鳴って暴れても事態が好転しないことは自明であることを察し、冷静になろうと努めた。
「分かった分かった。だがいきなり異界とやらに送られても俺はすぐに死ぬぞ?それでもいいのか?」
「まぁその辺は考えてあるわよ。流石に身一つで送り出さないわ。大船に乗ったつもりでいなさい。」
「何か手当はあるんだろうな?絶対だな?本当だな?約束だぞ!?」
「あるわよ!そんなに念を押さなくてもいいわよ!しつこいわね…っとそろそろ時間ね。」
ヒュープエラが呟いたのと同時に体の変化に気づく。指先から浸食されるように透明になっていく。
「タイムリミットってやつか…最後に一つだけ聞かせてくれ!」
「なによ?」
「どうして『俺』なんだ!?」
「貴方が世界で一番眠そうだったからよ。」
その言葉を聞いた男はヒュープエラと話し始めてから初めてその顔に笑みを浮かべて、消えていった。
「あーあ、慣れないことするもんじゃないわ。寝よ寝よ…」
男を送り出したヒュープエラは欠伸をしながら寝床に向かっていった。