第1話 「出会い」
「逢魔が時」という言葉がある。
一日の終わり、昼と夜との境目。
太陽の光が役目を終えようとするときに見せる、一瞬の美しい光景。
皆が「夕焼け」と呼ぶ、赤い景色。
だがその美しさは、同時に人々の畏怖をも誘ったのだろうか。
古来より、「逢魔が時」「大禍時」とも呼ばれたその時間帯は、魑魅魍魎の現れる禍々しい時間とされてきた。
丑三つ時と呼ばれた完全に日の暮れた深夜すら、人工的な光によって白く照らし出されている現代においては、むしろ赤く染まるその瞬間にこそ、確かな特異性がよく感じられるのかもしれない。
理屈でいえば朝日となんら変わらないその光は、なぜか希望すら感じさせる夜明けと異なり、魔的なものを感じさせる。
だから、なのだろうか。
その少年が、なんとなくいつもと違う道筋で、帰路を歩んでしまったのは。
そこには、本当に理由などなかったのだ。
あえて要因を挙げるとすれば、高校から出るときに珍しくジュースを購入し、それを飲みながら帰っていた、ということくらいだ
校舎を出た瞬間に目に入った夕焼けの光に、なぜか普段は感じない血のような赤さに吐き気を催し、気分を変えるために柑橘系のジュースを自販機で買った。秋口を回りきり大分涼しくなった季節ではあったが、冷たく冷えたそれは体にこもっていた熱を冷まし、心を落ち着けていく。そしてそれを飲み切ったはいいが、ちょうどいいところで空き缶を捨てる場所がなかったので、本来は入らない雑木林のある公園へと足を向け、ついでに催してきたのであまり綺麗とはいえない公衆トイレで用を足す。
すでに真っ暗になっていた公園からとっとと出ようと思えば、雑木林から金属音と音叉が共鳴するような音が聞こえたので、なんとなくそちらに目を向けた。
ほんとうに、ただそれだけのことだった。
だが、それだけのことが原因で――少年は「彼女」を見てしまった。
「玉震り、参の陣――燐旋!」
闇の中、長い黒髪を振り乱しながら踊る、美しい少女。
そのとき、少年が彼女に抱いた印象は、黒と白。
艶やかな濡れ羽色の髪と対比するように浮かび上がる、彼女の白い肌。
少女がくるくると独楽のように空間を舞うと、ちょうどオセロのように黒と白が翻る。
彼女が動くごとに、鱗粉のような淡い光がその残影を残し、彼女と対峙する「何か」が、おん、オン、怨、と呻き声のような音を発する。
タンゴでもジルバでもなく、ましてやワルツでもないその舞は、「何か」と戦っているための動きがそう見えているのだ、と少年が理解するまでに時間はかからなかった。
何か恐ろしいものがそこにいる。
そう理解していながらも、少年が呆けてしまったのは、その非現実的な光景に圧倒されたからか、それとも彼女に見惚れてしまったのかは、わからない。
ただ、彼はそのとき、「ほうっ」とため息をついた。
一方で少女は突如観客として現れた彼の存在に最初から気づいていたようではあったが、その彼のため息によってはじめて少年を見やる。
そして、彼女は顔を歪めた。
苦悶にも似た彼女の表情は、無関係なものを巻き込んでしまったことへの悔恨であり、そしてこのあとをどうすべきかを考えてのものだった。
彼女の思考が推挙するのは、二つの方針。
すなわち、この少年を一刻も早くこの場から逃がすべきか、それとも堅実にそばで守るべきか。
彼女は考える。
前者は容易ではあるが、「後始末」が面倒になるかもしれない。また、もしも現在対峙している「それ」以外にも雑魚がいるならば、その餌食になりかねない。
後者の場合は多少面倒だ。確実な足手まといを抱え込んでの戦いになるし、恐怖でパニックに陥られでもしたら、より一層危険になる。だが、そのかわり事が済んだ後の「処理」は容易であるし、なにより万が一があった場合に、不測の事態にも対応ができる。そして、結界が張られているはずのこの場に無関係な少年が紛れ込んできたということは、その「万が一」が、「千が一」程度にはなりうる「何か」があるやもしれないのだ。
そして少女は戦いながら、彼の表情を見て決める。
呆けていた少年であるが、ため息とともにまるで何かの緊張が解けたかのように、真剣な顔でまっすぐにこちらを見返してきたからだ。
――どうすればいい?
その顔は、そう問いかけているようにも見えた。
少女は、そんな少年の様子に、僅かに口角をあげた。
なるほど。
ずいぶんと肝が据わった少年であるようだ。
ならば。
ひゅ、と右手から投げつけられた一枚の紙。
それがまるで硬質な錘でも持っているかのように、空気抵抗を押しのけながら空を切り、少年のすぐ後ろにあった木に打ち付けられた。
同時に、半径一メートル程度の円を描いて淡い光が月光のように浮かび上がる。
「君、その光の中でしゃがんでいて! ただし、もし私がやられたらすぐに走って逃げること。いいわね!」
凛とした声が闇の中に響く。
少年はその言葉に頷くと、ためらうことなくその通りに行動を起こした。
言われたとおり、発生した円の中心部に飛び込むと、片膝をついてまっすぐに少女に視線をむけてくる。
自分の判断は間違っていなかったらしい、と、少女を表情をほとんど変えることなく、うっすらと笑う。
自分の言葉通りの行動、といっても、普通ならわけのわからないままに恐怖に怯えつつ、這い蹲るのがせいぜいだろう。
だが、少年が取った行動は、おそらく最善と言っていい形である。
できるかぎり小さくなり、且つ、いつでも危険から走って逃げられるように上体をあげ、クラウチングスタートに近い姿勢で待機をする。
視線はこちらに向け、次の指示をまち、周囲の危険からの注意も怠らない。
言われてみれば当たり前のことだが、その当たり前のことを瞬時に判断し、実行できるものがどれだけいるのだろう。
彼がここに迷い込んでしまったのは、彼にも彼女にも不幸であったかもしれないが、それが「この少年」であったことは、僥倖である。
これで、何も憂いなく目の前の「それ」を相手にすることができる。
そして、練習と実戦とで、今までに幾百、幾千と繰り返したその動作を、少女は行う。
踏み込む足音に韻をもたせ、額から心臓、へそ、そこから己の見えざる力を手足へと伝え、力強く柏手を放つ。
「魂鎮め、二の型。……宝生」
ぱん、という甲高い音が鳴るのと、その呟きは同時だった、
そして、少女の前に生まれたのは拳大の緑黄の魂。
ふるうり、と風鈴を手のひらで抑えながら鳴らしたような、そんな音を立てて、それは二つ、三つと数を増やしていく。
彼女が指先を「それ」に向けて三本だけ立てる。
親指が照準器、人差し指と中指を銃口のように。
そして。
「魂砕き、六の槌。……鬼拳!」
さきほど生まれた緑黄のそれが、三筋の弾丸となって対象へと放たれた。
空気を裂き、だが風を生まないという、物質にはありえないような現象を伴って、それは一発も外れることなく「それ」へと突き刺さった。
かしゃあん。かしゃ、きゃらら、と。
薄いガラスが砕けたような音が三度。
それまで目の前にあった形なき黒いもやのような何かは、留める力を失った風船のように弾け、そして消えていく。
それを最後まで見届けて、少女は「はぁ」と息を吐いた。
こうして、熱を帯びた少女の舞踏は、わずか数分にて演目の終了となったのであるが――そのあまりにあっけない幕引きに、観客であった少年は少しだけ名残惜しい気もして、「これ、拍手をしたほうがよかったのかな」と、場違いなことを考えていた。
しばらくは毎日投下します。