2-4:真夜中の謁見
空気が震えるというのは決して大げさな表現ではない。それくらいの怒気と殺気を、目の前の相手は放っている。
僕の位置から玄関までおよそ五メートル。
まずはこの狭い部屋から脱出しなければ。
一瞬、後ろを振り向く。キリオサクラの姿は見えない。おそらく屋根に逃げたに違いない。
そして、目の前の人間は僕しか眼中にないようだ。これは好都合。彼女を守る手間が省ける。
床を蹴る音がした瞬間、それは飛び込んできた。巨大な拳はしゃがんだ僕の頭の上を通過する。
地に伏せた僕はそのまま相手の脇を抜けて、玄関に出た。後ろを振り返らずに階段を駆け下りた。敵は玄関から階段を使わずに、人間離れした跳躍力で僕の目の前に飛び降りてくる。あくまでも標的は僕だけらしい。
敵は拳を振り上げた。
迅速の拳は僕の心臓を的確にとらえる。吹っ飛ばされた僕は階段の手すりをぶち破って、道路に投げ出された。これでも致命傷にならないのは人間の身ではない強みだ。しかし、目を狙われた場合はそうはいかない。両目を壊されれば、僕は死ぬ。異能の力を使えなくなった神は例外なく死ぬという。
だから、この目だけは死守しなければならない。
口から零れた血を拭って、呼吸を整える。敵はゆっくりと僕に近づいてきた。獲物を狩り終えたと勘違いしているのか、それとも自信の表れか。
起き上がった僕を彼の血走った眼が睨みつける。
獲物はまだ死んでいないと認識したようだ。
敵は光を漏らす月に向かって吠える。その咆哮が終わると同時に突撃を開始した。踏みしめた大地が音を立てる。
突進から腹に向かって放たれた正拳を両手を使って受け止める。痛覚が麻痺するほどの衝撃が体中に走るが、こらえた。相手はまだ僕の弱点を知っているわけじゃない。しかし、防戦に徹する以外にない僕には勝ち目はない。
もう一撃、今度は右の頬骨を狙い澄まして重い拳が突き刺さる。
避けられなかった僕は十メートルほど吹っ飛ばされた。
「やめて!」
キリオサクラの叫び声がする。空を仰いでいるので、彼女がどこにいるかは分からないが。
「もうやめて!」
彼女の声を聞きつけたのか、近くの住人がそれぞれの家から顔を出した。
もちろん、彼らは目の前で起こっている怪異な事実なぞ理解できない。やがて、彼らは騒ぎ始めた。
『退け』
たった一言。低く重い声がした途端に、人型の獣は屋根に飛び乗って、そのまま姿を消した。
騒いでいた住人達は水を打ったように静まり返る。
敵が去ったのを確認すると、僕は起き上がるのをやめた。いや、身体が言うことを聞いてくれないのだ。
去った獣の代わりに
「やれやれ、今日の実験はこれまでだ」
と中年の男が僕に近づいてきた。さっきの声の主だろう。
短く切った灰色の髪は針のように天を指差している。そして、年齢に似合わぬ屈強な体つきをしていた。
「これはギャラリーを必要としない見世物なのでな」
再び騒ぎ始めた人々の注目を浴びている長身の男は所々汚れている白衣のポケットに突っ込んでいた右手を差し出すと
「立てるかね?」
と僕に問いかける。
その顔は優しさなど微塵もなく、悟りを求めて苦悩する僧侶のように歪んでいた。
「お気遣いどうも」
差し出された手は無視する。
「ここでは話がしにくいな。近々、また伺うとしよう」
男は右手を再びポケットに入れると踵を返して、去っていく。
その後ろ姿はまるで数多の業を背負っているがごとく、重苦しい雰囲気を醸し出している。
男は己に好奇の視線を向けて取り囲んでいた野次馬に
『下がれ』
と重く静かに、まるで呪文を唱えるようにその言葉を口にした。
すると、野次馬は男から蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
男の姿が宵闇に溶けて見えなくなると、そこに残っていたのはしんとした空気だけだった。
こんにちは、星見です。
中々書けずにおります、今日この頃。パソコンも老人ホーム『鬼が島』に送る時期になったようです。
ではまた次回お会いできることを祈りつつ……