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漆黒に開く視点

 視界が、再びあの「絶対的な無」に塗り潰されていく感覚とともに、テラの意識はゆっくりとゲーム世界へと引き戻されていった。


 再ログイン――その移行の瞬間、網膜を焼くような濃密な漆黒が広がり、現実とは異なる質量を持った闇が彼の視界を完全に覆い尽くす。


 その闇の中で、嗅覚だけがやけに鮮明に働き、鼻腔を突いてきたのは、絶え間なく打ち寄せる潮騒の気配と、どこかに打ち上げられ風化した魚の骨が放つ、乾ききった腐敗臭だった。


 ここはヒスティ港、新月の夜。光源を完全に失った世界は、ただ暗いというだけではなく、何かを覆い隠すための意図すら感じさせる、重く沈んだ闇を湛えている。


 しかし、今のテラにとって、この暗闇はもはや単なる「何もない空間」ではなかった。


 むしろそこには、確かに「構造」があり、「意味」が潜んでいると理解できていた。


 彼は桟橋の先端へと歩を進めていく。


 足音はほとんど響かず、闇の中に吸い込まれていくようだったが、それでも彼は確かな手応えをもって一歩、また一歩と進み続ける。


 その歩みは漫然としたものではなく、現実世界で導き出した「物理的な絶対座標」へと自身の位置を厳密に重ねていく、極めて精密な動作だった。


 何かを取り出す必要はない。


 彼の脳内には、図書館の書庫で狂気じみた集中のもと書き殴ったあの計算式が、すでに焼き付いている。


 それは単なる記憶ではなく、今この瞬間、青白いグリッドとなって彼の視界に重なり、この闇の世界に見えない基準線を引いていた。


「……観測の時は、今だ」


 低く呟きながら、テラはゆっくりと天を仰ぐ。


 その動作には一切の迷いがなく、すでに結論に至っている者だけが持つ静かな確信があった。


 頭上には、相変わらず無数の星々が無秩序に、そして暴力的とも言える光量で明滅している。


 それは一見すれば息を呑むほどに美しく、ただ眺めているだけで満足してしまいそうな光景だったが、テラにとってはもはや違う意味しか持たなかった。


 普通のプレイヤーであれば、それは単なる背景であり、あるいは方向感覚を狂わせるための仕掛けに過ぎない。


 しかしテラは、『パイノメナ』の記述を絶対的な基準点として、その上に重ねられた『カタステリスモイ』の神話的構造を、一枚ずつ剥ぎ取るように認識していく。


「……そこじゃない」


 彼は精神の中で星の配置に触れるようにして、英雄ペルセウスの右腕とされていた星々を、本来の孤立した点へと戻していく。そこにあったはずの「意味」は消え、ただの光としての存在だけが残る。


「それも違う」


 続けて、アンドロメダの鎖とされる星の列を解体する。それはもはや繋がれた何かではなく、ただ放逐された光の断片に過ぎない。


 神話という名の接着剤が剥がされるたびに、星々はわずかに震えるようにして本来の配置へと戻っていく。その変化は劇的ではないが、確実に、そして不可逆的に進行していた。


 やがて、ある瞬間を境にして、空の“性質”そのものが変わる。


 与えられていた秩序が崩れ、解放された星々が、漆黒の天球の中で別の引力に従い始める。


 それは目には見えない磁場のようでありながら、同時に「元の形へと戻ろうとする力」にも感じられた。


「……出てきたな」


 テラの声が、わずかに低くなる。


「首を失くした女神」


 それはどの図鑑にも記されていない、名付けられることを拒まれた存在だった。


 歪でありながらも奇妙な調和を持ち、欠損しているはずなのに完成しているかのような、不気味な美を湛えている。


 その女神の喉元、本来何かが存在していたはずの場所に、ぽっかりと空白が空いている。


 その空白をテラが見つめた瞬間、まるで針で突いたように、そこに一点の紅が弾けた。


「……来たか」


『偽りの紅玉』。


 特定の観測者が、特定の歴史認識を持って見上げた時にのみ結像する異常な光。


 それは一瞬だけ脈打つように輝き、テラの瞳孔を焼き付けるように染め上げた。


 次の瞬間には消える。しかし、彼の中ではすでに位置も意味も完全に把握されていた。


「……次は、海だ」


 視線をゆっくりと落とすと、足元の黒い水面が、まるで生き物のように静かに呼吸しているのが分かる。彼はそこに転がっていた灰色の小石を一つ拾い上げ、指先でその重みを確かめる。


 風の流れ、湿度、海面の状態、そのすべてが彼の計算の中にある。


 船乗りの言葉が、低く反響する。


 ――『其処に、石を投ぜよ』。


 テラは天に輝く紅玉と、その虚像が映るであろう海面上の一点を、視線で正確に結びつける。


「……三、二、一……今だ」


 振り抜かれた腕から放たれた石は、闇を切り裂き、狙い通りの軌道を描いて水面へと吸い込まれていった。


 小さな水音が響くと同時に、波紋が広がる。しかしそれは通常の広がり方ではなく、一度外側へと拒絶するように広がった後、二度目にはあり得ない挙動で中心へと収束を始める。


 海面に映る星々が狂ったように一点へと集まり、その場所に何かが形成されていく。


「……来るぞ」


 空気が張り詰め、水面が呼吸を止める。


 そして、集まった光が一つの円を描いた瞬間、それはもはや単なる形ではなく、「視線」を持った存在へと変わった。


 巨大な瞳。


 海そのものが、こちらを見返している。


「……『十二番目の孤独』」


 それは星座ではなく、分割される以前の単一の構造であり、名前すら与えられなかった存在だった。


 三度目の波が訪れれば、この門は閉じる。


 その理解に迷いはなかった。


 テラは躊躇なく桟橋を蹴り、体をその中心へと投げ出す。


 落下していく感覚の中で、水に触れる感触はない。彼が突き抜けたのは液体ではなく、重く粘つくような「記憶」の層だった。


 無数の断片が身体をすり抜け、耳元で船乗りの笑い声が幾重にも重なって響く。


 視界が白濁し、世界の輪郭が崩れていく。


 そしてその奥で、確かに何かが崩壊する音がした。


 この世界の根幹に触れてしまったのだと、直感的に理解した。


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