信頼という名の、見えない積み重ね
裏路地に戻った俺は、しばらくその場から動かなかった。
神社はもうない。マップ上にも反応はなく、ただいつも通りの東天大陸の裏通りが広がっている。
それでも、空気が違う。
完全に気のせい――と言い切れない程度に、風の流れが柔らかい。
「……信頼、ね」
クエストログを開く。
相変わらず、進行度は数値化されていない。次に何をすればいいのかも、書かれていない。
ただ一文だけ、増えていた。
『妖狐は、あなたの“在り方”を見ている』
「曖昧すぎるだろ」
苦笑しつつも、嫌ではなかった。
目的地を指で示されるより、ずっとこのゲームらしい。
俺は裏路地を抜け、東天大陸の街へ戻った。
昼下がりの街は穏やかで、露店の呼び声や、NPC同士の雑談が耳に入る。
戦闘の匂いはない。だが、この世界では、こういう場所にもクエストの種は転がっている。
歩いていると、路地の端で小さな騒ぎが起きていた。
年老いたNPCが、荷車の前で困った顔をしている。
「……車輪が、外れたのか」
近づくと、木製の車輪が歪み、軸が噛み合っていない。
戦闘職としては完全に専門外だが、だからこそ気になった。
「手、貸そうか」
声をかけると、老人は驚いたように顔を上げた。
「おお……ありがたい。だが、力仕事でな」
「問題ない」
俺は腰を落とし、歪んだ車輪を外す。
力任せでは直らない。少しずつ角度を調整し、軸を合わせる。
数分後、車輪は元通りに収まった。
「助かった……本当に」
老人が頭を下げる。
その瞬間、視界の端で小さな光が弾けた。
『行動が観測されました』
それだけ。
報酬も、クエスト更新もない。
「……なるほどな」
妖狐が見ているのは、派手な成果じゃない。
この世界で、どう振る舞うか。
誰に、どう接するか。
街を歩くうちに、いくつか似たような出来事があった。
迷っている子どもNPCを案内したり、露店のトラブルを仲裁したり。
どれも小さなことだ。経験値も、アイテムもほとんど入らない。
それでも、不思議と時間を無駄にした感覚はなかった。
夕暮れが近づいたころ、街外れの小道に入る。
風が変わる。
昼とは違う、冷えた空気。
「……来たな」
背後から、気配。
振り向くと、白い着物の人物が立っていた。昼間より、少しだけ距離が近い。
「今日は、よく歩きましたね」
「まあな」
「戦わず、奪わず、目立たず」
その言葉に、少しだけ眉を上げる。
「それが、気に入られた?」
「……評価は、もう少し先です」
そう言って、彼女は俺の足元を見る。
そこに、淡い狐火のような光が、一瞬だけ灯った。
『妖狐クエスト進行度:上昇』
『次段階が開放されました』
「次は?」
問いかけると、彼女は初めてはっきりと笑った。
「“選ばれる側”から、“踏み込む側”へ」
意味深な言葉を残し、彼女の姿は風に溶けるように消えた。
街外れには、もう誰もいない。
ただ、地面に――細く、見逃しそうなほどの“足跡”が残っていた。
狐のものだ。
「……追えってことか」
俺は足跡を見つめ、ゆっくりと笑う。
ようやく、このクエストが牙を見せ始めた。
派手じゃない。
だが確実に、深い。
「いいね。かなり」
俺は足跡を踏み、闇の中へと進んだ。




