妖狐、廻帰す
――音が、消えた。
先ほどまで確かに存在していたはずの風の音も、草木の擦れる気配も、すべてが遠のいていく。
視界は白。どこまでも白。
だが、意識はやけに冴えていた。
(……まだ、ログアウト判定じゃない)
インフィニティ・リアルムでは、強制演出中でも「現実感覚」が完全に遮断されることはない。
それがこの世界の異常なリアルさであり、第二の人生とまで言われる理由でもある。
その白の中で、最初に戻ってきたのは――冷たさだった。
地面の感触。
湿り気を含んだ空気。
そして、確かに“自分の身体”があるという実感。
ゆっくりと目を開く。
そこは、あの小さな神社だった。
苔に覆われた石段は変わらず、
古い鳥居はわずかに傾いたまま、
朝露を含んだ空気が、静かに肺へと流れ込んでくる。
「……戻ってきた、のか」
声を出した瞬間、自分の耳に返ってくる響きが、微妙に違うことに気づいた。
音の解像度が、少しだけ上がっている。
立ち上がろうとしたとき――
重心が、明確に狂った。
「……?」
背中側に、何かがある。
意識せずとも存在を主張してくる“重み”。
振り返る前に、白い影が視界の端を横切った。
「……尾、か」
一本。
雪のように白く、しなやかに揺れる尾。
作り物ではない。
アクセサリーでもない。
動かそうと意識すると、確かに神経が通っている感覚があった。
その瞬間、視界に文字が重なる。
【種族変更が完了しました】
【ユニーク種族:妖狐】
【ステータスを初期化します】
【既存スキルが削除されました】
【新たな成長補正を獲得しました】
あまりにも事務的な表示。
だが、その裏にある意味を、俺は理解していた。
(全部、捨てたってことだな)
積み上げてきたレベル。
磨いてきたビルド。
使い慣れたスキル回し。
それらは一度、白紙に戻された。
次の瞬間、空気が震えた。
鐘の音。
低く、長く、世界全体に染み渡るような音だった。
これは個人通知じゃない。
この音は――
【World Notice】
【ユニーク種族「妖狐」が誕生しました】
【該当プレイヤー名は非公開です】
たったそれだけ。
だが、この一文が持つ意味は重い。
今この瞬間、
街では誰かが足を止め、
ダンジョンでは誰かが天井を見上げ、
酒場では誰かが笑いながら噂話を始める。
「妖狐?」「あれはNPCの種族じゃねーのか?」
「東天のあのクエをクリアしたやつがついに出たのか」
そして、少数だが――
俺の名前を思い浮かべるやつも、きっといる。
ステータス画面を開く。
種族:妖狐
スキル
■【幻狐歩】
■【狐火縫い】
■【妖力循環】
ユニークスキル
■【幻尾】
「いいね、面白そうだ」
強さは保証されていない。
楽もできない。
だが、“可能性”だけは、やたらと感じさせる。
ふと、境内の奥に視線を向ける。
そこに立っていたはずの、あの小柄な存在――
白い着物の妖狐の姿は、もうなかった。
「これで終わりだ」
背後から、声。
「同時に、始まりでもある」
「随分あっさりしてるな」
「廻帰とは、そういうものだ」
振り返ったときには、そこには誰もいない。
残っているのは、朝の光と、静かな神社だけだった。
鳥居の前に立ち、外の世界を見る。
この先には街がある。
プレイヤーがいる。
戦いも、選択も、面倒な出来事も待っている。
そして――
妖狐として進む、無数の分岐路。
「……悪くない」
白い尾が、ふわりと揺れた。
失ったものは多い。
だが、この世界で“誰も辿っていない道”があるなら――
それだけで、十分だった。
俺は一歩、鳥居の外へ踏み出す。
妖狐としての人生は、ここから始まる。




