プロローグ
スタートラインに立った瞬間、田中優の鼓動は耳の奥で爆音のように鳴っていた。
都大会決勝。四百メートルのトラックは、これまで積み重ねてきた練習と努力をすべてぶつける舞台だった。
ピストルの乾いた音が鳴り響く。
スタートダッシュは完璧。最初のコーナーを回り、田中はすぐに先頭へと躍り出る。関東一位二位を争う自分なら当然の展開――観客の歓声が背中を押し、脚は軽かった。
だが、直線に入る手前。
勝負を決める最後の「ギア」を上げようとしたその瞬間、右脚の奥から鋭い痛みが走った。
骨のきしむ音が頭に響き、身体が思うように動かない。次の一歩を踏み出そうとした足がもつれ、そのままトラックに崩れ落ちた。
どよめき。悲鳴。担架を持った係員が駆け寄る。
目の前でライバルたちがゴールへ消えていくのを、優はただ地面に横たわりながら見送ることしかできなかった。
病院で告げられたのは「骨折」。
全治数か月。復帰できる可能性はあるが、再発のリスクが高く、プロを目指すのは難しいという冷酷な診断だった。
ベッドの上で天井を見つめながら、優は何度も考えた。
――また走れば、きっと同じ痛みに襲われる。
――陸上で食べていける保証なんて、どこにもない。
焦燥と恐怖とが入り混じり、彼はひとつの答えを出す。
「陸上じゃなくて、安定した人生を歩もう」
持ち前の地頭のよさを武器に、優は受験勉強に全力を注いだ。競技場に通う代わりに机に向かい、夜遅くまで参考書をめくる日々。
結果、都内屈指の名門「私立安田高校」に合格を果たす。先生から、家族からは拍手喝采だったが、彼自身の胸の奥にはぽっかりと穴が空いていた。
入学式前夜、部屋の隅に置かれたランニングシューズを手に取る。泥の跡が残るスパイク。
もう二度と履くことはないだろう――そう言い聞かせる。
けれども、不意に脳裏に蘇るのはトラックを駆け抜けたときの風、ゴールへ向かうあの高揚感。
胸の奥にまだ燻る「やり残した鼓動」を抱えたまま、田中優は新しい高校生活を迎えることになる。