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鉤十字のジークフリート  マックス・シュメリング

作者: 滝 城太郎

ジークフリートはドイツの神話に出てくる英雄である。ミドルネームにジークフリートの名を持つマックス・シュメリングは両親の期待に違わず、世界ヘビー級のチャンピオンベルトを巻いた唯一のドイツ人となった。ヒトラーお気に入りのボクサーだったにもかかわらず、国家としては敵対していたアメリカ人やイギリス人からも愛されていたが、ベルリンオリンピックを機に彼を取り巻く世界は急激に変化していった。

 一九三八年六月二十二日午後十時。

 すでに夜の熱気は去っていたが、七万人を超える大観衆で膨れ上がったヤンキースタジアムは何とも物々しい空気に包まれていた。

 「Battle of the Century(世紀の対決)」と銘打たれたスポーツイベントであるにもかかわらず、観客席が異様なほど殺気立っていたのは、この日のメインエベント、ジョー・ルイス対マックス・シュメリングの世界ヘビー級タイトルマッチが「民族の対決」というサブタイトルが示すとおり、アメリカ対ナチス・ドイツの代理戦争のような趣きを呈していたからである。

 ちょうど二年前、この日と同一カードで勝者となったマックス・シュメリングは、祖国ドイツのみならず、イギリスやフランス、そしてアメリカでも大絶賛を浴び、世界で最も偉大なスポーツヒーローの一人として祭り上げられていた。それはルイスが黒人でシュメリングが白人だったからである。

 ところがわずか二年の間に彼を取り巻く世界はがらりと変わっていた。

 アウェイであるアメリカでも絶大な人気を誇ったドイツの英雄は、今やアメリカ人にとって完全な敵役となり、リングに姿を現したシュメリングには野次と怒号の集中砲火が浴びせられた。

 ここまで二人三脚でやってきたマネージャーのジェイコブスは活動停止処分中であり、頼りにしていたトレーナーもこの雰囲気に耐え切れず姿をくらますという予期せぬトラブルにも見舞われたシュメリングは完全な孤立状態にあり、ギロチン台を前にした死刑囚そのものだった。 

 

 マックス・シュメリングことマクシミリアン・アドルフ・オットー・ジークフリート・シュメリングがプロボクサーを目指すようになったのは、広告宣伝会社の見習いとして働いていた十六歳の時、デンプシー対カルパンティエの戦の記録映画を観たことがきっかけである。

 日本でも上映されたこの名勝負を観てプロボクサーを目指した若者は世界中にごまんといたが、シュメリングの場合はその動機が他とは少し異なっていた。

 給料のほとんどを費やして連日映画館に通ったシュメリングは、まるで実の兄のように自分に酷似しているデンプシーの姿に釘付けになり、自分もデンプシーのような世界的アスリートになりたいと思うようになったのだ。

 まさに天の配剤と言っても過言ではないかもしれない。スクリーン越しの出会いを機に、デンプシーとシュメリングの距離は次第に縮まってゆき、やがて兄弟のような二人はビジネスパートナーとして手を組むことになるのだから。

  

 一九二五年一月、試合のためにケルンを訪れていたシュメリングは遂に運命の出会いを果たした。

 なんと新婚旅行中のジャック・デンプシーがベルリンでエキジビションに出場することになり、その三番目の相手をドイツ重量級の新鋭シュメリングが務めることになったのだ。

 デビュー以来、ほとんどの相手をKOで仕留めてきたシュメリングの強打がクリーンヒットしてもデンプシーはケロリとしていたが、憧れの世界チャンピオンに自分のパンチを当てることができたことは大きな自信となった。

 シュメリングとの出会いはデンプシーにとっても印象深かったようで、「君は今に世界チャンピオンになるぞと言ったら、満面の笑みを浮かべていたよ」とその時のことを回顧している。

 世界チャンピオンともなると、実に大勢の人に出会い、スパーリングした相手も数え切れないはずだが、自分にそっくりな顔をした外国人となると、相当印象深いものがあったのだろう。

 ちなみにシュメリングは生粋のゲルマン人であるのに対して、デンプシーは一応白人扱いされていたが、アイルランドとスコットランドとインディアンの血が混じった混血で、人種的なつながりは全くないのだ。


 体型までデンプシーとほとんど変わらないシュメリングは(デンプシーはヘビー級としては線が細く、今日のクルーザー級程度の体格だった)、デビューから三年ほどはライトヘビー級で戦っていた。

 当時のヨーロッパのボクシング界は重量級の層が薄かったこともあって、一九二六年八月には弱冠二十歳でドイツライトヘビー級チャンピオンになり、翌年六月には同級のヨーロッパ選手権も獲得している。

 一九二八年四月にドイツヘビー級チャンピオンとなった後、シュメリングは本場アメリカに渡り、同年十一月二十三日、ボクシングのメッカMSGでKOデビューした。

 渡米後三連勝の勢いで臨んだジョニー・リスコ戦(一九二九年二月一日)は、大物食いで知られるタフガイを四度もキャンバスに叩きつける快勝で、『リング』誌による年間最高試合にも選ばれた。

 興奮したMSGの観客に取り囲まれたシュメリングは、警官隊の護衛によってようやくドレッシングルームにたどり着くという有様で、これがアメリカでの人気を確立した出世試合となった。

 続く六月二十七日にはヤンキースタジアムでスペインの強豪、パウリノ・ウズクダンと十五ラウンドフルに戦い、判定で圧勝。その後、デンプシーの戦わざるライバルだった黒人拳豪ハリー・ウィルスをナックアウトし、次期世界チャンピオンの最有力候補と見なされていた「バスクの英雄」を半死半生に追い込んだシュメリングの強打に驚愕したニューヨークのコミッショナーは、ただちに彼を世界二位にランクした。ここにジーン・タニーの引退で空位となったヘビー級王座決定戦出場へのお膳立ては整ったのである。


 シュメリングは容貌こそデンプシーにそっくりでも、ボクシングスタイルはオーソドクスで、ゴングと同時に相手に襲いかかってゆくデンプシーのような荒々しさはない。常に冷静沈着で持久戦に強く、ここぞというチャンスに命中精度の高い伸びのある右ストレートを繰り出し、数多くのナックダウンを奪ってきた。

「ラインの黒い槍騎兵」の愛称は、その槍のような右ストレートの威力を評してのものだ。


 一九三〇年六月十二日、ヤンキースタジアムで行われた世界ヘビー級王座決定戦は思いもよらぬ結末が待っていた。

 対戦相手のジャック・シャーキーは、前王者デンプシーを一方的にリードしながら逆転KO負けで大金星は逃しているものの、トミー・ラグラン、マイク・マクティーグ、ジャック・デラニーといった新旧のライトヘビー級王者をことごとくKOで葬り去っている実力派である。

 ともに穴の少ないボクサータイプで実力は拮抗していたにもかかわらず、試合は意外なほど一方的で、シュメリングは初回からいいところなくシャーキーのアウトボクシングに翻弄されていた。

 迎えた四ラウンド、シャーキーの左ボディブローでついにシュメリングがダウン、と思いきや判定はローブロー。

 ところが問題はここからで、試合再開を促しても、シュメリングは座り込んだまま立ち上がろうとせず、彼のマネージャーのジェイコブスは反則勝ちを主張するという有様で、レフェリーのクローリーもよもやの顛末に完全に舞い上がってしまい、一旦ここで試合は中断される。

 関係者による協議の結果、シャーキーの反則負けが宣せられると、この史上初の椿事にヤンキースタジアムはブーイングの嵐に包まれた。

 試合後、シュメリングの陰嚢が紫色に腫れあがっていたことから、ローブローという判定に誤りはなかったにせよ、新チャンピオンがフロアにしゃがみこんだまま勝ち名乗りを受けるというのは、普通では考えられない。回復を待ってから試合を再開するか、最悪でもノーコンテスト扱いにして、再戦ではっきり白黒をつけるべきだった。


 当然、ファンも納得がゆくわけはなく、圧倒的に劣勢だったシュメリングが故意に立ち上がらなかったと見られても仕方のない最低のタイトルマッチであった。あえてシュメリングの肩を持つとすれば、シャーキーがタイトルマッチの前哨戦で、英国ヘビー級王者のフィル・スコットをやはりローブロー気味のボディブローでナックアウトした際にスコット陣営から抗議を受けており(コミッショナーは抗議を却下)、そのことが今回の判定の伏線になっていたと考えられなくもない。

 試合内容はさておき、ドイツ人初の世界ヘビー級チャンピオンの座についたシュメリングは、たちまち国民的ヒーローとなった。

 当時、映画産業でも世界的な評価を得ていたドイツ映画界は、さっそくこの若きヒーローの主演映画を製作した。この映画は翌年、「拳闘王」(原題・Love in the Ring)の邦題でわが国でも公開され、シュメリングの名は日本のボクシングファンの間にも広まった。

 なお、この映画で共演したドイツのトップ女優アニー・オンドラはシュメリングの生涯の伴侶となった。


 ドイツ国民はシュメリングの偉業に熱狂したが、当の本人はというと、生真面目な性格ゆえに、後味の悪い勝ち方だったことがずっと尾を引き、せっかくつかんだ世界王座にも居心地の悪さを感じていた。

 ようやく真の王者として世界中から認識され、自身も取り巻く世界が変わったことを実感できたのは、王座獲得の翌年、史上二位のKO勝利記録を持つヤング・ストリブリングにリング人生初のナックアウトの味を噛みしめさせて初防衛に成功(七月三日、十五ラウンドKO勝ち)してからのことだ。

 注目の一戦を勝ち抜いたことで、一部のマスコミから「ローブローチャンプ」と揶揄されていたシュメリングの評価は一転し、ハリウッド・スターから政財界のVIPに至るまで、アメリカのセレブ層までがこぞってドイツの英雄を称え、その多くがプライベートな交遊関係を結ぶようになった。

 また有名画家、彫刻家からの作品モデルの依頼も相次ぎ、その肉体美までが一種の芸術として評価されるようになったことは、ある意味、悲劇の始まりとも言えた。

 進境著しいナチスにとって、国際的な知名度抜群のシュメリングこそ、ゲルマン民族の優越性を世界 に示す格好の宣伝材料だったからである。

 一九三二年、ニューヨークで行われた宿敵シャーキーとの二度目の防衛戦は、またしても皮肉な結末となった。

 シュメリングの強打を警戒するシャーキーはこの日もアウトボクシングで臨んだが、自信と貫禄のついた王者のアグレッシブな攻撃に押され気味だった。終始優位に試合を進めたシュメリングが終盤の五ラウンドを取り、誰もが防衛成功を確信したが、あろうことか判定は二対一のスプリットでシャーキーに挙がった。

 元チャンピオンのジーン・タニーをはじめとする有識者の多くはシュメリングの勝利を支持し、ジミー・ウォーカー市長までが「恥すべき判定」としてドレッシングルームまで慰めにきてくれたが、王座を失った失望感は大きかった。

 再起をかけたシュメリングが次に選んだ相手は、前年七月にシャーキーと戦い、試合内容で圧倒しながら不本意な引き分けで涙を飲んだ元世界ウエルター、ミドル級の二冠王、ミッキー・ウォーカーだった。

 ウォーカーは一七〇cm足らずの小兵ながら「トイ・ブルドッグ」の異名を取る型破りなファイターで、体重差などおかまいなしにライトヘビーやヘビー級の強豪ともグラブを交えている超タフガイである。しかし、王座奪回に燃えるシュメリングはシャーキーが苦戦したウォーカーの突進を槍のような右ストレートで粉砕し、八ラウンドTKOで退けた。

 殿堂入りの名王者ウォーカーはこれまで経験したことのない屈辱的な惨敗に涙を流したという。

 実力NO1を示したシュメリングは、一九三三年六月八日、ヤンキースタジアムで売り出し中の強打者「リバモアの屠殺人」ことマックス・ベアと対決する。デンプシーが初プロモートしたこの一戦は、

まだ正式に現役引退を表明していない彼の声かけで実現したシュメリングとのスパーリングが大きな話題となり、このスパーリングだけでも数千人の見物客が訪れた。

 二人とも真剣に打ち合ったこのスパーリングは、シュメリングが完全に打ち勝ち、さすがのデンプシーもお手上げ状態だったが、肝心のベアとの試合は調整の失敗による体調不良で十ラウンドにストップされてしまった。それでもベアのオーバーハンドライトで決着が着くまでは目が離せない派手な打ち合いが続き、『リング』誌認定の年度最高試合にふさわしい盛り上がりを見せた。

 シュメリングの試合はその後も二度、年度最高試合に選出されているが、これはジョー・ルイス、カーメン・バシリオ、ムハマド・アリの五度に次ぐ歴代四位タイの記録であり、彼がいかに客を呼べるファイターだったかの証と言えよう。

  

 それから二年後の一九三六年六月二十九日、すでに過去の人になりつつあった元王者が再びヤンキースタジアムに姿を現した。対戦相手のジョー・ルイスは「褐色の爆撃機」の名に違わず、カルネラ、ベアといったかつての王者を一方的なKOで粉砕してきた破壊的強打者で、シュメリングも所詮ルイスの引き立て役に選ばれたに過ぎないというのが一般的な見方であった。したがって賭け率は十対一という一方的なものだった。

 圧倒的に不利な予想にもかかわらず、シュメリング自身はこの対戦に乗り気だった。というのも、ルイスの試合を観戦しているうちに、パンチを出した後の左のガードが少し下がる癖に気付いていたため、左が下がる瞬間を狙って得意の右クロスを打ち込めば勝機があると睨んでいたからである。

 果たして試合はシュメリングの思惑どおり、四ラウンドに右クロスを狙い撃たれてダウンを喫したルイスがほとんどいいところなく十二ラウンドでナックアウトされてしまう。

 ベルリンオリンピックを目前に控えたドイツ国民はこの歴史的勝利に狂喜し、ゲッベルス宣伝相からの祝電の他、帰国のために飛行船ヒンデンブルク号が差し向けられるなど、シュメリングはまさに国賓級の待遇で故国ドイツに凱旋した。

 

 一九三六年と言えば、民主主義、共産主義、ファシズムという政治思想が国際社会で三つ巴の争いを繰り広げている最中で、アメリカ、イギリス対ドイツの政治的対立が明確に現れていた時期である。

 それにもかかわらず、アメリカではヒトラーのお気に入りであるシュメリングの方が、アメリカ人のルイスよりも人気が高いという不思議な現象が起こっていた。

 その背景にあったのは政治思想の枠を超えた人種差別である。

 強すぎる黒人のルイスを白人のシュメリングが完膚なきまでに打ち据えたことが、スポーツ界での黒人の台頭を苦々しく思っていた白人至上主義者たちの溜飲を下げたのだ。

 シュメリングの勝利は、国家間の対立を越え、ドイツの仮想敵国であるイギリスやフランスのメディアまでが賛辞を惜しまなかった。「シュメリングの勝利を嘆いているのはハーレムの黒人だけだ」と書き立てる新聞もあったほどだ。


 世界チャンピオン間違いなしと言われたルイスが惨敗した以上、現王者ジェームズ・ブラドックの防衛戦の相手としてシュメリングの名が急浮上してきたのは当然のことで、ヘビー級史上初のタイトル奪還劇まで現実味を帯びてきた。

 現王者のブラドックは「シンデレラ・マン」の愛称が示すように、世界ヘビー級タイトルマッチ史上最大の番狂わせで王座に就いたラッキーボーイに過ぎない。したがって、シュメリングが挑戦権を得た場合、王座復帰は間違いないと見られていた。ところが、ブラドックが防衛戦の相手として選んだのはルイスの方であった。

 かつてルイス戦でのシュメリングの勝利を祝ってくれたブラドックも、全米に広がった反ナチスムードの中で、ドイツ人にタイトルを奪われるくらいなら、いっそのことアメリカの黒人に渡した方がマシ、と考えるようになっていたからだ。

 シュメリングはヒトラーから食事に招待されるほど気に入られていたにもかかわらず、マネージャーのジェイコブスがユダヤ人ということもあってナチスの政策には嫌悪感を抱いていた。幸い、ヒトラーが『わが闘争(第二部)』でも奨励すべきスポーツとして言及しているほどボクシングに強い関心を持っており、ベルリンオリンピック前にはシュメリングの功績を称えるための映画製作を厳命するなど、シュメリングを広告塔として重宝してくれたおかげで、ナチスに従順とは言えない彼の言動にあからさまに干渉してくることはなかった。

 フランス降伏の知らせを聞いたヒトラーが笑みを浮かべて大きく足踏みする姿は、その写真と映像が報道されるや、“ジーク・ステップ”とし世界的に有名になったが、シュメリング対ルイス戦をフィルム観戦していた時のヒトラーは、パンチが当たるたびに大声を上げながら、身を乗り出して見入っていたそうだから、相当な入れ込みようだったのだろう。


 一九三七年六月二十二日、大方の予想通りルイスはブラドックをKOして王座を獲得した。

 しかし、ルイスはシュメリングにKOされたことを忘れてはいなかった。ルイスの強い要望で実現した「世紀の対決」と呼ばれる歴史的リターンマッチ(一九三八年六月二十二日)は、わずか一二四秒の間に三度ものダウンを喫したシュメリングの惨敗だった。

 二年前にはシュメリングの勝利に熱狂したアメリカ人は、掌を返したようにルイスの勝利を称え、ロッカールームで呻いていた敗者に寄り添う者は一人もいなかったという。

 政治がスポーツを利用したことによる悲劇である。


 シュメリングはアンチ・ナチスでありながらドイツと軍事同盟を結んでいる日本人に対しては友好的で、ルイスに勝って凱旋帰国した際も、多忙な中、ヒンデンブルク・ハレ(体育館)まで日本ボクシング界のエース、永松永吉を激励に訪れている。

 前年度のアジア選手権ライト級の覇者でありクールな強打者として知られていた永松も、雲の上の人のようなシュメリングの前では緊張しきりだったという。

 また、ビジネス関係の仕事で初来日した昭和三十七年には、初の世界戦に挑むファイティング原田の控え室を表敬訪問し、原田を感激させている。


 ルイス戦から約一年後の一九三九年七月、シュメリングは、再起をかけた一戦でアドルフ・ホイゼルをわずか一ラウンドで失神KOに下して、再び欧州ヘビー級タイトルを手に入れるとともに、世界的トップアスリートとして、ドイツ国内での人気も再燃するが、二ヶ月後に第二次世界大戦が始まったため、ここで一旦キャリアが途絶えてしまう。

 そのうえ、忌むべきユダヤ人のマネージャーと組んでいる国民的英雄という構図は、社会に対して示しがつかないという判断から、スポーツ省長官はアスリートとしてのシュメリングを見切り、戦意高揚のために利用することにした。

 第二次世界大戦開戦当初は、ドイツ軍が圧倒的に優勢だったこともあり、著名人の兵役は免除されていたにもかかわらず、召集されたシュメリングは空挺部隊に配属されて特殊訓練を受けた後、一九四一年五月に始まったクレタ島上陸作戦の最前線に投入されたのだ。

 空挺部隊はエリート集団ではあっても、パラシュートが開かないまま地上に激突する者、海に落下して溺死する者、落下中に狙い撃ちされる者など、消耗率が高い激務である。

 シュメリングほどの著名人をそれほど危険な任務に就かせるということは、もちろん本人に対する見せしめ的な意味が大きい。それでいてシュメリングの空挺部隊の軍装姿や輸送機から降下しようとしているところなどが、宣伝用写真としてナチスの広報誌『Signal』に掲載されているのは、ドイツ国民に、シュメリングでさえ率先して危険な任務をこなしているのだということをアピールすることで、国民同士の結束力を高めたかったからに違いない。

 クレタ島上陸作戦でのドイツ軍の被害は大きく、一時はシュメリングの戦死が報道されるほどだったが、幸い負傷入院していることが後日確認され、その後は危険な任務からは外されている。

 一九四三年の兵役解除以降は、自軍や捕虜収容所の慰問に従事していたため、ナチ協力者として戦犯

扱いされることはなかった。それどころか、スポーツ界の有名人だけにボクシングが盛んなイギリス人

捕虜からは受けが良く、しばしば過去の試合の話で盛り上がっていたという。

 戦争によりキャリアが中途で閉ざされ、まだボクシングに未練があったシュメリングは、再度身体を作り直して、四十歳過ぎの身体に鞭打ってリングに戻ってきたが、三勝二敗の成績でようやく見切りを

つけた。それでも、最後に勝った試合では相手の顎の骨を砕く強打を見せ、往年のファンを喜ばせている。

 

 第二次大戦後、数十年ぶりにアメリカを訪れたシュメリングは、空港まで出迎えにきたルイスとの再会を果たしたが、両者の立場は完全に逆転していた。

 欧州コカコーラボトラーズの重役になっていたシュメリングに対し、税金の滞納や事業の失敗などで一文無しになっていたルイスは、心臓も病み車椅子生活を余儀なくされていた。

 かつては祖国のナショナリズムに煽られ、リングの上で激闘を繰り広げた二人だが、互いのリング生活における最大のライバルとしての敬意は風化してはいなかった。

 シュメリングは偉大なるルイスの苦境を見かねて、匿名で経済的な支援を行っていたという。


 一九九六年には、彼の輝かしいキャリアを記念して、多目的アリーナである「マックス・シュメリング・ハレ」がベルリンに建設された。



ジョー・ルイスとマックス・シュメリングはマネジャーが共にジェイコブスという名字のユダヤ人という共通点もあり、互いに親近感を感じていたようだ。国同士が戦い、民族同士でもいがみ合っていた二人が、ボクシングを通じて親友のようになるというのは、時代背景を考えると本当に素晴らしいことだと思う。

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