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落ちこぼれ青春日記

作者: タイガー

 一 恭子との出合い


 窓の外を見ると、校庭でジャージ姿の生徒達が、トラックを駆けているのが見えた。

 「木下!答えてみろ。」

 ふいをつかれた幸雄は、一瞬ハッとして辺りを見回した。クスクスという女子生徒の笑い声がかすかに聞こえる。

 「何をぼけーっとしとるんだ。質問の意味がわかっとるのか。」

 「はい・・・。あっ、いっ、いえ。」

 幸雄は、言葉にならない声を発した。今度は、教室全体が、笑いのるつぼと化した。

 「関係代名詞『THAT』は、何に置き換えられるのか、と聞いとるんだ。」

 「このくらいのこと中学生でもわかるぞ。」

 ミッキーMこと松田教諭の上から見下ろすような声が、幸雄に投げられた。幸雄は、考える間もなく、

 「witchです。」

 と反射的に答えた。

 「はい。」

 と今度は、穏やかな口調で彼の答えを受けた。

 幸雄は、ほっとして席に着き、となりの席の女子の教科書をちらっとのぞくと、あわてて、手先のページをめくった。

 幸雄は、いつもこの調子で授業中でも、何か別の事を考えるくせがあった。授業中に神経を集中させようとすればするほど、得体のしれないイマジネーションをかき立ててしまうのである。いわば空想家なのである。それがはた目には、バカに見え、教師達のひんしゅくを買うのである。

 「キンコーンカンコーン・・・」

 チャイムの音がした。

 室長の、

 「起立。」

 の声とともに生徒全員が立ち上がり、松田教諭と生徒達が一斉に礼をかわした。

 「さあ飯だ、飯だ。」

 クラスでも大食漢の岡田が言った。

 どのクラスでも見受けられる昼食時の風景だが、仲の良い友達がそれぞれに席を寄せ合ってグループを作り、昨夜見たテレビの話とか、ラジオの深夜放送の話とかを、喋りながら憩いの一時を満喫するのである。しかし、幸雄には、これといって友達らしき者はおらず、ただ一人ひたすら弁当を食らいつくのである。一人で食べるのは気まずいが、一緒に食べようと、クラスメイトに声をかける勇気もなかった。別に孤立しているわけではなかったのだが、周りからそんな風に見られているのではないかという不安はあった。だから自分の存在を隠したくて、弁当を食べ終わると、すぐさま席を立ち何をするともなく校内を行ったり来たりするのが日課になっていた。

 ちょうど保健室の前を通りかかった時、入学したての頃親しかった友達の鳥津に肩を叩かれた。振り返ると彼は、にやっと笑って、

 「おい幸雄!」

 「オレのクラスにめちゃ可愛い子がいるんだ。なんとブルーの下着をつけてやがんだぜ。」

と辺りの目も気にせず平然と言い放った。

 「恭子ちゃんだよ、知ってるだろう。」

 幸雄は、

 「それがどうした。オレに紹介でもしてくれるのか?」

 「恭子ちゃんだと?ちゃん付けで呼べるほど親しくもないくせに。」

 と内心思った。幸雄も名前と顔ぐらいは知っていた。しかし、

 「オレが知るかよ。その子がどうかしたか。」

と、とぼけて言った。すると鳥津は、

 「あいつ、男子を挑発してんだぜ。放課後、喫茶店にでも誘おうよ。」

と好奇心旺盛な鳥津らしい言葉を発した。

 「喫茶店だって?」

 幸雄は、恥ずかしながら一七になるこの年まで喫茶店などという所に入ったことがなかった。

 「勘定は、オレが持つから一緒に行こうぜ。」

鳥津は、幸雄の肩に腕を回して、嬉しそうに言った。幸雄は、内心嬉しい気持ちを隠して、渋々といった表情で頷いた。ちょうどその時、掃除の取りかかりの合図を知らせるブザーが鳴った。

 鳥津は、手を振ってその場を去っていった。

 幸雄は、掃除の時間中、恭子の事を考えていた。

 「オレが誘うんじゃないんだ。そうオレは、ただ彼奴について行くだけで単なるオブザーバーなんだ。それに彼女が僕たちに同意してくれる保証もないんだから。」

 幸雄は自分に言い聞かせた。どうも自分の心に素直になれないところがある。

 「木下!向こうの木の下に、落ち葉が溜まっとる。これをやるから掃いとけ。」

 見回りに来たタコ先生こと、多湖教諭が、幸雄に竹ぼうきを手渡した。幸雄は、言われるままに駆け足でその場に行くと、そばにいた女生徒にてみを持ってもらい、その辺りの落ち葉をきれいに掃き入れた。

 やがて掃除終了のベルが鳴ると、各々が、掃除道具を元の場所へ返し、教室へと入っていった。

 五時限、六時限と授業は進み、本日最後の

チャイムが教室の中に響きわたった。

 「今日は以上だ。山下、ちゃんと予習やっとけ。」

と、担当教諭が言った。

 「起立。」

 「礼。」

 「ありがとうございました。」

 室長の言葉に続いて、一同が会釈をすると、その反動か否か、両手を上に挙げて大きな欠伸をする者、あるいは、後から前の者の肩をたたき、

 「おつかれ様。」

とでも言いたげに笑みを浮かべ、相手は、それに笑顔で答えるというような光景が、いつもながら見られた。

 幸雄は、姉のお下がりである古びて横の方がまるで、アコーディオンのジャバラのようになっているカバンに、本やノートをしまい込むと、帽子を脇に挟み教室を出ようとした。

 「あっ、そうだ。」

昼間の事を思い出した。鳥津との約束があったなあ、と思い席へ戻り机の上に腰かけた。

 廊下では、生徒達が行き交い、笑い声とか、女生徒特有の甲高い喋り声が訊こえていた。

 どのくらい待っただろう。幸雄は、ふと窓の外の渡り廊下に目をやると、背の小柄な痩せこけた男子が、一人の女子と談笑しながらこっちへ向かって来るではないか。幸雄は、慌てて外していたメガネを掛けると、首を突き出してそっちを見た。

 それは、紛れもなく鳥津と一人は、恭子であった。

 「おーい!待たせてすまん。」

鳥津は、小走りに、一人教室へ入ってきた。

 「ばっちりだぜ。お茶飲むくらいならいいってよ。」

 実のところ行こうか行くまいか迷っていた幸雄だったが、・・・・。

 すると、開いたままの戸をくぐって、恭子が入ってきた。その姿は、いかにも清楚で、落ち着いていて、おまけにロングヘアーでチャーミングときている。不安な心に拍車をかけていた男子を挑発するといった印象は一片に拭い去られた。

幸雄は、よし行こうと決心し、軽く会釈をすると、向こうも少しはにかんだ様子で答えてくれた。

 「恭子ちゃん、紹介するよ。こいつが、さっき話した友達の木下。」

 鳥津が言った。

 「はじめまして、山本恭子です。よろシク。」

 「ああ、どうも、木下です。」

 「見合いじゃねえんだぞ幸雄。もっとリラックスしろよ。」

 鳥津が口を挟んだ。

 「で、どこがいい。」

 「どこがいいって何が。」

 「だから店だよ、どの店がいいかって訊いてんだよ。」

 幸雄は、ハッと思い我に返った。

 「そっ、そうだなあ。モンブランもいいけど、ロバさんだって捨てがたいしなあ。」

などと知った被りをしていった。

 「私、感じのいい店知ってます。良ければそこへいきません?」

 幸雄と鳥津は、同時に頷いた。

 それから三人は、目的の店へ行く途中狭い路地を車を避けながら、縦になり横になり歩いた。

 「恭子ちゃん、茶店にはよく行くの!」

 幸雄は、訊ねた。

 「ええ、たまに友達と!」

 「でもどうして。」

 「だって校則違反になるんじゃないかなあ。」

 幸雄は、正義派ぶって答えた。

 「でも私達これからあなたの言う校則違反の場所へ行くのよ。」

 「ガハハハ。ばーか!」

 鳥津は堪えきれずに笑った。

 「あっ、そうか。それもそうだなあ、ハハハ。」

 幸雄はそう言うと、自分の頭を軽く掌で叩くと、上目使いで二人を見た。

 この時の様子は、まるで悪戯っ子が悪さをして母親に叱られた時の様であった。

 恭子も、笑いを堪えきれずに、手で口を隠してクスクス笑った。

そうこうしている内に、店の前まで来た。

 鳥津は、ドアの取っ手を引くと、カラーンコローンの音とともに、勢い良くドアが聞いた。

 「いらっしゃーい。」

 マスターが、洗い物をしながら三人に言った。店の客は、一斉にこちらをジローッと見た。それもその筈である。

 都会ならまだしも、田舎のこの辺では、高校生が喫茶店に入るといえば、不良学生と相場が決まっていたからだ。

 そんな客を尻目に三人は、空いている席を見つけると、そこへ腰を掛けた。

 「いらっしゃいませ。ご注文は何に致しましょう。」

 ウェイトレスが、幸雄に聞いた。

 幸雄は、レディファーストを心がけて、恭子に、

 「何にする。」

と訊ねた。

すると恭子は、

 「レモンスカッシュ下さい。」

と、ウェイトレスに答えた。

 「オレ、コーヒー!アメリカンでね。」

鳥津が矢継ぎ早に言い放った。

 「じゃ、僕はブラック。」

とは言ったものの幸雄は、コーヒーには、普通、砂糖三杯は入れる大の甘党であったがコーヒー通を気取った。

 「恭子ちゃん、日曜日とか家でどうしてるの?」

 鳥津が話を切り出した。

 「そうね、読書とかクッキー焼いたりとか。」

 「ふうん。」

幸雄は、相槌を打った。

 「木下君は、休みの日とか何してるの?」

幸雄は、不意をつかれて絶句した。

 「ええっ、僕、僕は、映画が好きだから・・・。」

 「映画見に行くの、どんな?」

話の終わらぬ内に恭子が訊ねた。

 「小遣いあまり貰ってないから、映画を見に行くのはたまにで、ほとんど『スクリーン』とか『ロードショー』とか買って見てるんだ。」

 そう言うと幸雄は、慌ててグラスの水を飲み干した。高校に入学して、まともに女生徒と口を聞いたのは、幸雄にとって今日が初めてだった。緊張したせいか手の平を見ると、汗ばんでいるのがわかった。冷たいおしぼりで掌の汗を拭うと辺りを見渡して、

 「この店、雰囲気いいね。」

などと、明るさを繕い誰に言うともなく呟いた。

 それからしばらく立って、恭子が、

 「あっ、いけない。もうこんな時間。汽車に遅れてしまう!」

 「もう出ましょう。」

と言うと、すっと立ち上がりレシートを持ってレジへ向かった。

 「恭子ちゃん、オレが払うよ。」

を叫び、鳥津が後を追った。

 幸雄は、ポケットの中に手を突っ込んで中の物を洗いざらい掌に出してみようとしたが、十円一枚すら出てこなかった。

 「まっ、いいや今度来た時奢ってやればいい。」

 そう心の中で呟き、一人店の外へ出た。

 日は、もう大分暮れかかっていて、商店街

に面した店の前は、家路へ急ぐサラリーマン風の人や、買い物かごに野菜を詰め込んだ主婦達で賑やかだった。

 やがて中の二人が出てくると、幸雄は恭子にまた来る約束をして、鳥津は下宿先へ、自分は家路へと帰り道を急いだ。

 幸雄は、自転車を漕ぎながら、何度も後ろを振り返り、駅へ向かう恭子の後ろ姿を見つめていた。

 三十分程自転車に乗っていただろうか、日はとっぷり暮れ、峠に差し掛かった時、ガードレールに片足を掛け、後ろを振り返った。

 すると、遥か闇の彼方に、赤や黄色のネオンサインがぼんやり見えた。その中でも特に派手目の灯りが目に飛び込んできた。

 多分パチンコ屋のネオンに違いないと思い、そこは、通学路にあり朝よく目にするのだが、朝とは違ってこんなにもキレイなものだとは、今まで気がつかなかった。

 

二 反骨


 学校に着くと、担任の谷田教諭に呼ばれた。

 「木下、ちょっと来い。」

そう言うと谷田は、廊下に出て幸雄を手招きした。

 すると、小声で言った。

 「お前、最近喫茶店へ行ったそうだが、いかんだろうが、校則にもその辺のことは書いてあるだろう。」

 「ま、お前は、今回が初めてだから大目にみとくが、今度解ったらそれなりに処罰するぞ。」

 「はい、どうもすみませんでした。」

幸雄は、そう素直に謝った。しかし心の中では、商業科の連中は、ゲームセンターへ出入りしてるし、同じ進学コースの生徒でも自分と同じ様な事をしていても、先生に注意されたという話は聞いた事がなかった。そう思うと何やら怒りにも似た感情がこみ挙げてきた

いずれにせよ、そっちがそういう差別をするなら、今度はまた行ってやろうと心に決めた。

 校則なんてくそくらえだ。純粋で素直な心に、反骨精神が芽生えて来たのは、この頃からだった。

 突然始業のチャイムが鳴り出した。慌てて教室の中に戻ると、整列された机を身のこなしも軽く、スイスイと通り抜けると、自分の席に着き、乱暴に机の中へ教科書を詰め込んだ。一時限目は、英語であった。間もなくして、渡り廊下をミッキー松田が、いつもの如く左手の指を伸ばしたまま後方へピーンと伸ばし、右手には辞書と出席簿を顔の側まで抱え上げ、時折黒縁のメガネに手をやりながら得意そうに歩いて来た。誰が付けたか知らないが、ずんどうの体型といい、歩き方といい正にペンギンそのものであった。

 授業が始まると、それまでざわついていた教室が、水を打ったように静まり、各々ミッキー松田の執拗かつ辛辣な攻撃に備えた。

 最初の標的にされたのは、松下であった。

 この男子へらへらしているが、教師達に取り入ったり、ごまをするのが上手く、馬鹿のつくくらい正直な幸雄には、鼻持ちならない存在だった。

 「松下、次の例文を訳してみなさい。」

we regard him as the best doctor in town

「はい。」「我々は、彼を町で最も優れた名医と考えている。」

とスラスラ答えた。

 「ちぇっ。」

幸雄は、舌を打った。

 「はい、そうです。」

ミッキー松田は、声を張り上げてそう言うと今度は、幸雄に向かって、

 「木下、第何分型でしたか?」

と尋ねた。

不意をつかれて、慌てて目を丸くした幸雄は、すぐに気を取り戻して、

 「第四文型です。」

と答えた。

 「何を、何を言っとるか。」

と今度は、ひときわ大きな声を上げ、

 「予習してないですね。」

 「すわれ。」

そう言ったまま、彼を無視するかのように、授業を先へ進めた。

 幸雄は、まるで立場がなかった。首を項垂れて、席に着くと、ふーっと一つ大きな溜息をついた。

 「恭子ちゃん今頃どうしてるんだろう。」

彼女への想いが脳裏をかすめた。この時ほど同じ学校に居ながら遠くに感じた事はなかった。このまま教室を飛び出して、彼女を連れてどこかへ消えてしまえたならば、どんなにか心も安まるだろうに・・・。なんともやり切れない気持ちだった。

 その後教室は、ミッキー松田の独壇場となったが、どなり散らかす彼の声は幸雄には、ノイズにしか聞こえなかった。

 谷田にしろ松田にしろ、どいつもこいつもオレを馬鹿にしやがって、勉強できる奴だけが良い生徒なのか。掃除を真面目にやることだって授業の一環だろうが、要領が良くてずる賢い連中が学校にのさばっている。

 こんな学校でいいのか。

 幸雄は、悪態をついたが、それは負け惜しみになってしまうことは本人が一番よく知っていた。

 それから数日経って、身体検査があった。

こともあろうに、屋上でやろうというのだ。

寒風吹きすさぶ中、男子生徒は上半身裸で、下は半パンといった格好で並ばされている。

検査を終えた生徒達は口々に、

 「おお、さぶさぶ。」

と言いながら、学ランをちょんと肩に羽織り、駆け足でその場を去っていった。

 十五分程待っただろうか、怒り心頭に達した幸雄は、つかつかっと係りの先生の所へ駆け寄り、

 「いくら教師でもやっていい事と悪い事があるんじゃないですか。」

 「みんな風邪をひいたらどうするんですか。」

 「受験も控えてるんですよ。」

と喰ってかかった。

すると、担当教諭が、

 「黙って列にもどれ。」

と、怒鳴り散らし、指をさして指示に従わせようとした。

 幸雄の我慢も限界に達し、相手の胸ぐらをこん身の力を込めて、締め上げた。

 「何をする!こんなことをしてただで済むと思っとるのか。」

 周りにいた生徒達は、ただア然として二人の成り行きを見ていた。そして、幸雄に生徒としての次元を超越した何かを見た思いがした。それは、生徒達にとって快いものだったのは確かだった。

 誰かが密告したらしく、しばらくして生徒指導の中村と担任の谷田がやって来た。

担当教諭も含め、何やら三人で話し合っている。谷田は、謝罪しているらしく時折頭を下げていた。

 幸雄は、歯を食いしばり、握り拳をつくって立ちすくんだ。

 「木下、ちょっと職員室まで来い。」

担任の谷田が幸雄を呼び、そのまま階下へ連れ去っていった。

 「謹慎処分!何か幸雄がやらかしたんでしょうか。」

学校から幸雄の自宅へ電話が入った。学校からの抗議に母親の幸子は、電話口でただ頭を下げて謝るばかりだった。

 幸雄は、さんざん学校で説教された挙げ句帰宅の途についた。自転車を走らせるうちに、昨日三人で寄った喫茶店の前を通りかかった。 しばらくガラス越しに店の中を見ていたが、急にuターンして元気に今来た道をあと戻りし始めた。鳥津の住んでいる下宿先へ行こうとしたのだ。

 「ごめん下さい。鳥津君もう帰ってますか。」

大家に訊いた。

 「いやまだですが、多分もうじき帰って来ると思いますから、部屋で待ってるといいですよ。」大家はそう言うと部屋まで案内してくれた。部屋には、以前鳥津にせがまれてくれてやった薬師丸ひろ子のポスターが、飾られていた。

 しばらくして、ガラガラッという戸の開く音がして鳥津が帰ってきた。

 「おお、幸雄、来てたのか。」

 「オレ、国語の時間トチってよ、今まで漢文書かされてたんだ。」

 「聞いたぜお前の武勇談、今日屋上で島家ぶんなぐったんだってなあ。お前も見かけによらずなかなかやるよ。」鳥津が聞き及ぶまでには、尾ヒレがついていた。

 「なぐりはしないよ。」

 幸雄は否定したものの、それくらい頭にきてたことは確かだった。

 「コーヒー飲むか?」

 「ああ、もらおうかな。」

二人は、コーヒーを飲みながら、教師達の批判というか、悪口というか常日頃不満に思っていることを互いに言い合った。

 それから一時間位経過しただろうか、日も大分陰ったらしく二人の影がタタミの上に長く伸びていた。その時幸雄は、帰ろうか、帰るまいか迷っていた。自宅謹慎になった事を両親に告げるなんて口が割けても言えないと思っていたし、何より心配を掛けたくなかったからだ。どうせ本当の事をいわなければならないのなら、もう少しその時を先へ延ばしたいという気持ちも強かった。

 「鳥津、すまんが一晩泊めてくれんか。迷惑はかけん、寝させてもらえればそれでいいんだ。」

 「ああ、いいけど、家にはちゃんと連絡しろよ。」

 結局幸雄は、一晩泊めてもらうことにした。そして、自宅へ一報を入れた。

 「かあさん、オレ、今晩友達の所へ泊めてもらうから、戸締まりはきちんとして寝てよ。」

幸雄は、一方的にそう言うと、電話を切った。

 その日は、夜の更けゆくのも忘れて二人で話し込んだ。床についたのは、十二時ちょっと前だった。折から風が強まり、建て付けの悪いガラス窓を揺するのが耳についてその夜は、なかなか寝付けなかった。


三 友情


 夜が明け、半開きになったカーテンから外を見ると、まだ薄暗い中を貨物トラックやら犬を連れた中年風の男が狭い路地を行き交うのが見えた。幸雄は、二、三度立て続けに大きなくしゃみをすると、また布団の中に潜り込んだ。今頃家の連中も起きて朝飯でも食ってる頃だろうなあ。心の中で呟いた。

 「よし電話してみよう。」

そう思って布団をはね除け、Tシャツの上にガクランを羽織ると、ポケットの中の小銭を確かめ、まだぐっすり寝入っている鳥津を起こさぬように、恐る恐る部屋を出た。

 外へ出ると、昨日の風も止んでいて、実に清々しい朝だった。足元を見ると片足だけ鳥津の靴を履いていた。

 「まあいいや。」

と思い、近くの電話ボックスを探した。

 「公衆電話公衆電話。あったあった。」

歩いて数分の所に緑色の真新しい電話ボックスが立っていた。受話器をとり十円玉を二、三枚入れると、プッシュボタンをリズムよく押した。 

 「プルルー、プルルー。」

誰も出ない。

 「まだ起きてないのかなあ。」

もう一度かけ直すと、

 「もしもし、木下ですが。どちら様でしょうか。」

母親の幸子の声だった。

 「もしもし、もしもし・・・。」

幸子が何度も呼びかけるが、幸雄は、受話器を持ったまま黙っていた。どうやって母に謝ろうかと思案にくれていたのだ。いくら正当性が認められようとも教師への暴力沙汰は、許されないことだ。しかも謹慎処分になった事を自分の口からは、とても言えなかった。しかし、このまま鳥津の部屋へ厄介になることも不可能だと思い、ひとまず家へ帰ろうと思った。

 電話を切ると、小走りに部屋へ戻った。戻ってみると鳥津は、まだ眠っていた。

 「こらー、起きろ。」

幸雄は、鳥津の耳もとで、大声で怒鳴るとその声に度肝を抜かれた鳥津は、背筋を九十度の角度ではね起こした。

 「ど、どうした?

慌ててそう言うと、両目を丸くして幸雄の顔を見た。

 「ははははは。」

幸雄は、高笑いをした。

 「いつまで寝てんだ、さっさと起きろ。」

 「お前は、学校があるんだろう。遅刻するぞ。」

 「脅かすな、その位のことわかってらい。」

 「ところでお前、どうすんだ。今から家に帰って登校しても手遅れだぞ。」

 「なにせ家まで片道一時間だからなあ。」

鳥津が心配そうにそう言うと、幸雄は、

 「心配ご無用、謹慎処分だってよ。」

 「じゃあ、オレ帰るわ。」

 「しっかり勉強しろよ。」

そう言って幸雄は、カバンを持って出て行った。鳥津は、返す言葉がなく、ただ呆然としていた。

 幸雄が家に帰れると中は、もぬけの殻だった。家が農家のため両親は、すでに畑へ出かけた後で、腹が空いていた幸雄は、真っ先に台所へ入りテーブルに目をやった。すると、チラシの裏に走り書きがしてあった。

 「母さんは、何も言いません。あなたを信じています。目玉焼きをつくっておきました。パンもトースターに入っています。自分で焼いて食べて下さい。」

それを読んだ幸雄は、急に目頭が熱くなり、母の優しさに涙した。

 軽い朝食を済ませると、二階にある自分の部屋へ入りお気に入りのブルース・スプリングスティーンのマイホームタウンを繰り返し、繰り返し聞いた。聞き入っているうちに次から次から涙が溢れてきて止まらなかった。

 時間が経つにつれ、感傷的な心も次第に和らぎいつの間にかベッドの上で寝ていた。

 どれくらい時間が経ったろう。空腹感に目を覚ますと、下へ降りて冷蔵庫の中を物色して何か口に入れる物を探した。よく見ると、包みにお徳用四百六十と書いた三枚一パックのピザトーストが入っていた。取り合えずそれをトースターで焼いて食べた。食べ終わるとまた二階へ上がってレコードを聞き、知らぬ間に寝ていたというように、毎日がこの調子だった。別に勉強しようという気にもならず漠然とした日々を送った。

 そんなある日、中学時代から現在まで親友の一人として付き合って来た友人が数人の仲間を連れて、機嫌を伺いに訪ねて来た。

 「幸雄、尾崎君が来てるわよ。」

階下から母の幸子の声がした。

 「さあどうぞ上がって下さい。幸雄、二階にいますから。」

 すると、

 「タンタタタンタンタタン。」

という不協和音をたてて学校からの帰りらしく、学生服姿の三人が、部屋へ入って来た。尾崎は、同じ町内に住んでいるから寄ってくれたのは解るが、あとの二人は、隣町、それにもう一つ隣の高校のある市内から来てくれていた。クラスメートとはいえ、特に親しい間柄でもなかった二人が来てくれた事は、幸雄にとって言葉に表せないほど嬉しかった。

 「おお、わざわざすまんすまん。」

 「オレもあんな事になるとは、想像もしてなかったよ。」

幸雄が照れくさそうにそう言うと、三人は微笑みながら頷いた。その中で、尾崎が三人を代表するかのように、

 「いやあ、お前よくやったよ。」

 「お前のとった行動は、方法こそ悪かったにしろ、あいつらの学校教育のやり方に一石投じたことは、間違いないと思うぜ。」

 「同感、同感。」

後の二人が口を揃えて言った。

 「そう言ってもらえるとオレも救われるよ。」

 「何せあいつらから見りゃオレは、完全に異端児だからなあ。」

そう言って幸雄は、天井を見上げた。

すると、部屋のドアを開けて、母の幸子がジュースとお菓子を持って入ってきた。幸子は、三人に軽く会釈をし、

 「ゆっくりしていって下さい。」

にこやかにそう言って出て行った。

 「にこやかにそう言って出て行った。

 「じゃあ、折角だからジュースとお菓子ご馳走になろうかな。」

尾崎が言った。

それからしばらく四人は談笑し、一時間程して尾崎が、そろそろ帰るかと言い出したので幸雄は、玄関で彼らを見送った。

 「今度会う時は学校だな。」別れ際、そう尾崎が言い残した言葉が幸雄には、

 「早く学校へ出て来い。」

という意味にもとれて、尾崎の友情に早く答えようと思った。

 

四 鳥津の努力


 それから数日後、謹慎処分が解けて晴れて登校を許される身となった幸雄はいつになく早く家を出た。それには理由があった。鳥津の下宿先へ寄ろうと思ったのだ。

 「おはようございます。」

 「鳥津君いますか。」

そう言うと幸雄は勝手に上がり込んだ。

 部屋の戸を開けると鳥津は昨夜徹夜したらしく机に向かってうとうとしていた。幸雄が声を掛けると、眠そうな目を擦りながら、

 「最近進むのが早くてよ、今日で三日目だぜ。」

 勉強ぎらいの鳥津がこんなに頑張っているとは、幸雄には驚きであった。

 「オレ、今日から学校へ行けるんだ。これからもよろしく頼むぜ。」

 「あっそ、よろしく。」

愛想のない答えが返って来た。他人どころでは、自分のことで精一杯なのだとその時幸雄は思った。

 「どれどれ何やってんだ。おお、漢文か!」

幸雄が机を覗き込むと、辞書の下に一枚のプリントが敷かれていた。

 「何だこれ?」

手にとって良く見ると、それは校内模試のランク表であった。それには順位と名前、それに各科目の素点と合計点が記されていた。

 上から順に見ていくと、六五番目に鳥津の名前が記されていた。八十番以内の者だけがその紙に載るのだが、それだけでも幸雄の成績からすれば、夢のまた夢であった。

 「鳥津やったなあ、すごいよ、お前、ヒットチャート赤丸急上昇ってとこだなあ。」

 幸雄は、まるで自分のことのように喜んだ。

 「まあね、でもここまで辿りつくには、正直言って長い道のりだったよ。」

 「なあーんちゃって。」

 「はははは。」

二人は、顔を見合わせて大声で笑った。

幸雄が、ふと時計を見ると、八時半を回っていた。

 「いけねえ、遅刻だ。」

二人は、急いで下宿を出た。通学路へ出ると、目の前をこれまた遅刻組と思われる連中が、駆け足で学校へ向かっていた。

幸雄と鳥津は、最初とばしていたが、あと数百米の所まで来ると、半ば諦めた様子でゆっくりと自転車を漕ぎ始めた。校門の前には、国語担当の柴田教諭が立っているのが見えた。二人は柴田に、何食わぬ顔で、

 「おはようございます。」

と声をかけ、そのまま校門を通り抜けようとすると、

 「木下、鳥津、ちょっと待て。」

 「いかんなこんな事じゃ、何時だと思っとるんだ。」

そう言うと柴田は、二人の名札を取り上げた。

 「今日お前、柴田の授業あるか。」

鳥津が言った。

 「それがあるんだよ。」

 「お前は?」

幸雄は、鳥津に聞き返すと、鳥津は、黙って下をうつむいた。

柴田の授業では、名札のある無しが大きな意味をもっていた。名札に限らず、時計のアラームの音とか、詰め襟のホックを合わしていないだとか、何かに付け指摘し、授業中質問責めに合わせるという彼独特の授業形態をとっていたからである。

 始業のチャイムが鳴るまで後二分、二人は、一目散にそれぞれの教室へ走って行った。

 幸雄は、急いで席に着こうとすると、女子生徒の浜田則子が、

 「木下君、名札どうしたの?」

と、幸雄に問いかけた。

 「ああ、さっき校門の所でさあ、柴田に・・・」

 幸雄は言った。簡単にそう言ったものの心の中では、そわそわしていた。名札がなければ授業中必ず当てられるだろうと思っていたからだ。

と、思いきや、突然なにやらカバンの中を探し始めた。前にもこんな事があり、その時買ったもう一つの名札をカバンの中に、仕舞ったはずだったのだ。

 「あった。」

幸雄は平然として名札を胸につけた。

 「木下君らしいわね。」

浜田則子が、口元に手をやり笑いをこらえるようにしながら言った。

 彼女の言う通り幸雄には、臨機応変なところがあった。 

 「キンコーン・カンコーン・・・」

始業のチャイムが鳴り、雑然とした教室内に、ピーンと張り詰めた緊張が走った。なんと、一時限目は、古文であった。勿論、担当は、言わずと知れた柴田なのだ。

 すらっーとした長身の柴田は、戸の格子に頭をぶつけないように、そこを潜るようにして入って来た。

 「起立」

 「礼」

 「お願いします。」

室長の掛け声の後に、全員がお辞儀をした。

 柴田は、黙ったまま出席簿を開けると顔と名前をチェックしていった。

 「今日は、欠席者はおらんな、では授業を始める。」

 実に淡々とした口調であった。

 授業も中盤に入った。柴田は、次々に生徒を指名し、本文を読ませ、それを現代文に訳させていった。一通りそれが済むと、今度は、各言葉使いの文法、例えば形容詞、助詞、副詞といった、その言葉に含まれている意味を答えさせていった。

 「もうここまでくれば安心だ。残り時間もあと僅かだし、過去何度か指名されたが、その度にまともに出来なかった。そんなオレに当てっこない。」

 「それに、今朝とり上げられた名札もちゃんと胸にあるし。」

そう幸雄は、高を括っていた。

 それから、暫くして、柴田が古文用語を黒板に書き始めた。数人の生徒が指名され前へ出て各々が、割り当てられた古文用語の意味を書き始めた。

 「次、木下やってみろ。」

 「は、はい。」

幸雄は、慌てて返事をした。

そして、半ば諦めた様子で前へ出て行った。

 「ねぶ、ねぶ・・・」

と微かな声で呟きながら、微かな記憶を呼び戻そうと懸命であった。それもそのはずだった。もし出来なければ、今日進んだ分の本文を全て丸写しに、十回も書かされてしまうからである。幸雄が弱り果てているのを見かねて、柴田がヒントを出して、答えを連想させようとしたが、それがまた、突拍子もないヒントで、益々頭がこんがらがってしまった。

もういいやというような開き直った態度で、チョークを指で振りながら、突っ立っていた。

すると、

 「そうだ。」咄嗟に閃いた。人間には、過度の緊張状態にあると、焦りが出てしまい、頭の中を上手く整理出来なくなってしまうが、ちょっと視点を変えて、リラックスすると、頭の中をスムーズにコントロール出来るように、その時の幸雄は正にそうであった。

 幸雄は、課せられた問題をこなすと、ほっとした表情で席へ戻っていった。

「まったく、冷や冷やさせるぜ。」

幸雄は安堵した。

一時限目が終わり、幸雄は廊下へ出てトイレへ行こうとした。ふいに誰かに呼び止められ振り返ると、そこに、担任の谷田が立っていた。

 「ちょっと話したい事がある。職員室まで来い。」

 谷田は、そう言い残すと去っていった。幸雄には、何の事か見当がつかなかった。用を足して、職員室へ行ってみると谷田は、不機嫌な表情をして待ち構えていた。突然、

 「木下、お前の今後の進路の事なんだが、単位が不足しとる。」

 「今の成績からすると、大学進学はおろか、卒業も危ないぞ。」

 「ちょっとまて。」

谷田は、そう言って成績表に目を通しながら更に続けた。

 「お前、確か英語は得意だったな、『ん』これはまあまあだ。」

 「しかし、古文と物理は最悪だな。」

 「そこでだ、この二科目について明日から冬休みまでの二週間、放課後みっちり補修授業をやることにした。」

 「わしとしても、不本意な事態だが、お前のためにも止むをえん処置だ。」

 「頑張ってくれや。」

 「それだけだ、教室にもどっていいぞ。」

幸雄は、突然といえば突然だが、来るべきものが来てしまったという気がした。その日の授業は、何となく憂鬱だった。

 放課後、幸雄は図書館へ足を運んだ。何をしようかという目的意識はなかったのだが、自然に足が向いてしまっていた。

 そこには、溢れんばかりの生徒達が、参考書や教科書を片手に、受験勉強しているらしく机に向かっていた。幸雄は、もうそういう時期になっているんだなあと人事のように思った。

 図書館といえば、本の虫とか熱心な勉強家、いわば優等生達が集まる場所というイメージが強かった。そのため幸雄は、ここへは滅多に顔を見せなかった。幸雄は、周囲の目を気にしながら、読みたい本でも借りに来たかのように見せかけて、人混みを急ぎ足で抜け、一番奥の本棚へ直行した。本棚には、国語の時間習った著名な作家達の本が所狭しと配列されていた。ちらっと横を見ると、男子の陰に一人の女子が立っていた。彼女は、目当ての本を物色しているらしく、目を上下左右に動かしては、指で本を取り出したり戻したりしていた。彼女の横顔を注意深く見ると、紛れもなく恭子その人だった。

 幸雄は、話しかけようか、どうしようか一瞬戸惑ったが思い切って声をかけてみた。

 「あれ、恭子ちゃんじゃない、お目当ての本見つかった。」

 「あら、木下君。あなたも読書に来たの?」

 「そう、そういうこと。」

 「それにしてもみんな熱心にやってるね。」

幸雄は、彼女の視線をそらそうと、顎をちょいと突き出し机に群がっている生徒達を指して言った。

 「そうね。冬休みも近いし、みんな死に物狂いみたいね。」幸雄は、返す言葉がなかった。ふと我に返り、今日の今日まで勤勉な高校生として勉学に取り組んだ事がなかったと思った。

 「木下君、今日これから予定ある?」

幸雄は、恭子の突然の言葉に絶句した。恭子から誘って貰おうなどと、夢にも思った事がなかったからだ。

 「予定、そうだなあ、あるよな、ないよな?」

 「でもどうして。」

幸雄は、ふと我に返り、そう尋ねた。

 「お茶でも飲みに行こうかなあと思って、前に行ったじゃない。あの店よ。」

幸雄は、心の中で最近の女の子って積極的なんだなあと、嬉しいような、照れくさいような思いに駆られた。

 「よし、行こう、行こう。」

幸雄は、突然はしゃぎだした。

果たして二人は、例の店へと向かった。

恭子のカバンを自転車の荷台にのせ、少し間隔をとって、二人は、横に並んで歩き出した。途中二言、三言言葉を交わしただけで話しらしい話しはせず目的地へ着いた。

 店は、いつもの雰囲気とは違って客が二、三人いるだけで、もの静かだった。

幸雄がドアの取っ手をぐいと引くと、カラーンカラーンとドアのベルが勢い良く鳴った。

 「いらっしゃいませ。」

店のマスターが、カウンターの中で何やら洗い物をしながら、二人に笑顔で言った。

 恭子と幸雄は、窓際の割と夕日の当たる席を選び腰をかけた。よくこういう所へ来ると、大抵の男子ならマンガ本やら週刊誌などを二、三冊まとめてテーブルに持って来るのだが、幸雄は、テーブルの上に置いてあるメニューを手に取りながら、

 「恭子ちゃん何にする?」

と小声で言った。

 「そうね、木下君は何がいい?」

幸雄は、

 「そうだなあ、オレ、コーラ。」

そう言った。実は幸雄は、コーヒーが苦手だったのだ。

 「じゃあ、私も同じものでいい。」

恭子は、幸雄に同調した。

 「ねえ、勉強進んでる?」

 「う、うんまあね。」

幸雄は、言葉を濁した。心の中で相手が相手ならぶん殴ってやりたいぐらいの気持ちだった。なぜなら自他共に認める学校一の劣等生に向かって、

 「勉強進んでる。」などと言うのは、自殺志願者に、

「死にたいって思ったことある?」と聞くようなものだからだ。

 「話題を変えようよ」

幸雄は、言った。

 「じゃあねえ、まだ聞いてなかった事。」

 「趣味なんかあるの、例えば音楽鑑賞とか、読書とか、色々あるじゃない。」

 「趣味はそう、レコード鑑賞ぐらいかなあ。」

何やらとりとめのない会話に終止符を打ち、二人は、席を立ち店を出た。幸雄は、恭子を駅まで送って行こうか、どうしようかと一瞬躊躇したが、結局店の前で別れた。この辺には、珍しいカラスのカー、カーという鳴き声が、落日を告げようとしていた。


 五 菅尾という男


 寒さも一段と厳しさを増して来たある日の事、幸雄が本館と幸雄達のクラスのある別館の二階にある渡り廊下を歩いていた時、同学年の商業科の不良グループに行く手を阻まれた。

 相手に今にも噛みついて来そうな鋭い目つきに、こっちも負けじと幸雄は睨み返した。

すると、相手は、”何だこいつやるのか”と言わんばかりに、眉間に皺を寄せあごを前方に突き出した。突然、

 「幸雄!まっとれー。」

と言う声がしたと思うと、いかつい体のこれまた人相風体からして、ただものではないと思われる男子生徒がこっちに向かって走って来た。段々こちらへ近づくにつれて焦点が合ってきた。彼は隣のクラスの管尾であった。

 普段は、ぶっきらぼうで、ツッパっているが、内向的な幸雄を見るに見かねてよく世話を焼いてくれていた。

 「お前ら、幸雄に何しようと言うんじゃ。」

 菅尾は、不良グループの番長格の男に向かって言い放った。

 「何だよお前は。」

 「関係のねえ奴は口を挟むな!」

男はそう言った。

 「理由を聞こうじゃねえか、理由を。」

最初興奮気味だった菅尾も落ち着きを取り戻して、相手を宥めるように言った。

すると不良グループのリーダー格ではないちょっとひ弱そうな男子が、

 「こいつよお、いつもすましてやがってよお、気取った態度が気にいらねえんだよお。」

変に抑揚のある声で言った。

 「ガハハハハハ。」

 「お前らアホか。」

 「いつまでもガキみてえな事言ってんじゃねえよ。」

菅尾は大きく笑いながら言った。

すると、不良グループのリーダー格の男が、突然菅尾の襟首を締め上げ脇腹にけりを入れた。すると菅尾は、

 「うっ。」

と呻いてその場にしゃがみ込んだ。

幸雄は、ハッとして菅尾を抱き起こそうとすると、後方から誰かの声がした。

 「こらー、お前らそこで何をしとるんだあ。」

幸雄が振り返ると、担任の谷田が、仁王立ちの格好で立っていた。すると、不良グループは、「やばい。」と捨て台詞を吐いて逃げて行った。谷田がコツコツと、ゆっくりした足取りでこっちに向かって歩いてきた。

 「木下、どうしたんぞ。」

 「いっ 、いえ何でもありません。」

 「何でもない事があるか、菅尾が塞ぎこんどるじゃないか。」

 「いや、本当に何でもないんですよ。」

それまで廊下にうずくまっていた菅尾が恐る恐る立ち上がり言った。

 「そうか、それならいいんじゃ。」

谷田はそう言うと、ちょっと笑って後もどりをして去って行った。

 「あ、それから明日からまた補修ちゃんと受けろよ。」と、谷田は途中で振り返り、幸雄に告げた。幸雄は、「ハイ」と軽く受け入れた。

 「それじゃあな。困った事があったら、いつでも相談にのるぜ。」菅尾が言うと、「オレに構うロクなことないぜ。」

 「あれくらいの事慣れてるよ。」

 「そうか、それならいいよ。」

そう言って菅尾は、すっかり元気を取り戻して、その場を去っていった。幸雄は、自分は孤独ではないことに、たった今気がついた。

 「さあ、今日も残す所あと一時限、頑張らなきゃ。」

幸雄は、気合いだけでも、と自分に言い聞かせた。

 もうすぐ始業のチャイムが鳴ろうとしていた。

 久しぶりに今日の放課後は、補修授業がなかった。冬休み前でもあり、生徒達の進路について特に進学コースの連中のため緊急の職員会議がもたれた。

 幸雄には、些か不愉快な会議ではあった。帰り支度を済ませ、廊下に出ると、向こうから自分の存在を無理に誇示しながらコーラス部の女生徒と一緒に歩いて来る男子がいた。

 松下であった。

 「お前何してんだ。さっさと早く帰ろ。」

そう一言いうと、一緒に歩いている女子に何か笑い声で話し掛けていた。 

 「貴様!」

幸雄は、拳を振り上げた。

すると、その時廊下の窓の外から、突然戯けた顔を出した奴がいた。鳥津であった。

「おい、幸雄。」

その声に幸雄は、「ハッ。」として、鳥津の方へ顔を向けた。

 「お前、何その格好。」

 「あいつとケンカでもする気かよ。」

 「何だ、見てたのか。」

と、幸雄は答えた。

 「あの野郎、いつもオレを邪魔者扱いしやがってよお、顔見ただけでもムカツクんだ。」

幸雄は、かなりコウフン気味にしゃべりろれつが上手く回らない節もあった。

 「まあカッカするなよ。」

女子だってあいつにしつこく付きまとわれて困るっていってたぜ。」

 「コーラス部の浜田則子だよ。」

 「えっ!浜田が・・・そうだったのか。」

 「ところでよ、幸雄!腹すかんか。」

突然、鳥津が顔をくしゃくしゃにしながら幸雄に言った。気合い抜けした幸雄も、あっさり同意した。

 「鳥津、お前、何処かいい店知ってんのか。」

 「うまいラーメン屋があるんだよ、それが。」

そして二人は、目的地へ向かって、いざ出陣と相成った。途中二人の会話は、途切れる事がなかった。後から後から話のネタが湧いてきた。結局最後は、恭子の話題に集中した。 「オレよお、ついこの間、恭子ちゃんと例の茶店へ行ったんだ。」

 「よよよ、やったじゃねえか。」

 「それからどうした。」

鳥津は、大はしゃぎで話の内容を追求した。

 「それでさあ、二人でコーラ飲んで、『趣味何?』って聞くからよ、レコード鑑賞って言ったよ。」

 「それから。」

鳥津は、ムキになりだした。

 「それからって。」

 「いい加減にしろ。」

幸雄は、軽く鳥津の頭を叩いた。

信号を待つ間の二人は、こんな風にまるで子供がじゃれあっているようにあどけなかった。また、外の寒さが(二人の居る場所だけ別世界に感じられ)。嘘のようであった。

 二人は、結局目当てのラーメン屋の軒先まで辿り着いた。すると、ガラガラッと店の戸を開けて、中にいた客が出てきた。その客は、二人に向かって親切そうに、

 「まだ空いてますよ。」

と言うと、手にしたヨウジで歯をせつきながら、寒い北風の中を駅の方へと歩いて行った。

 二人は、その紳士風の男の背中をいつまでも見送っていた。

 突然、鳥津が、

 「あの後ろ姿、哀愁を感じさせるよなあ。」

と言った。

 「何いってんだ、入るぞ。」

幸雄は、強い調子でそう言うと、中へ入った。

 「ヘイ、いらっしゃい。」

店の主人が、威勢のいい声で二人に言った。

 「さあ、食うぞ、食うぞ。」

鳥津は、メニューを手に取りながらコップの水を一気に飲み干した。

 「お前、何にする。」

幸雄が、聞くと、

 「オレ、ラーメン大盛り。」

と鳥津が答えた。

鳥津は、小柄な割に大飯食らいだった。

 「すみません、それじゃあラーメン大盛り二つ。」

 幸雄は、主人に負けないくらいの力のこもった声で言った。

 暫くして、ラーメンが独特の匂いを漂わせて運ばれてきた。二人は、もう夢中になって食べ始めた。カウンターの奥で、主人の奥さんと思われる人が、クスクス笑っていた。

 二人は、アッという間にラーメンをたいらげ、水をお代わりした。

 「ここは、オレが払うよ。」

幸雄が言うと、

 「オレが誘ったんだ、オレが払う。」

両者譲らなかったが、結局、先に誘った鳥津が払うことになった。

 店の外へ出ると、もうかなり薄暗くなっていた。車もヘッドライトを点灯させていた。

 「じゃあ、鳥津。今日はごちそうさま。」

幸雄は、ふざけたふりをして畏まってそう言った。

 「じゃあな、また来ようぜ。」

二人は、笑い顔で別れた。

 こういう時間帯になると、家までの距離が途方もなく遠くに感じられるなあと、幸雄は思った。

 町を過ぎると後は、ほとんど登り坂で、一歩一歩ペダルを踏みしめるように漕いだ。

 「今日も賑やかそうだなあ。」

と後ろを振り返り、パチンコ屋のネオンサインを見つめて独り言を言った。

 「峠を越えればもう一息だ。」

幸雄は、そう思った。吐く息が白く見えないくらい暗くなり、

 「遠くから見ると、さながら暗黒の中を彷徨っている巨大なホタルだなあ。」

と、自転車のヘッドライトを例えて呟いた。

 この通学路は、海岸線を走っていて、沖を見ると昼間なら九州が見えた。今は、漁り火がポツポツと見える程度であった。

 幸雄が、我が家に辿り着いたのは、午後六時をちょっと回った頃だった。ガラガラッと戸を開けると、母親の幸子が、

 「おかえり、早く上がって、ご飯にしなさい。」と優しい口調で言った。

 「うん。」と幸雄は、そう答えて姉からのお下がりである横の方が、アコーディオンのジャバラのようになっているカバンを脇に抱えて、炊事場の方へ行った。ほぼ満腹に近い状態で、一口、二口おかずを摘んだ。

 「幸雄!食欲がないみたいね。何か食べて来たの。」

幸子は、幸雄に訊ねた。

 「いや、体調がちょっと悪いだけだよ。」

幸雄は、幸子を気遣いそう言って席を立ち、二階の自分の部屋へ上がった。部屋に入ると、カバンを机の上に置き、叔父から貰った十年以上も使い古したステレオで、ブルース・スプリングスティーンのマイホームタウンを聞いた。

 ベッドの上で聞いていると、スローバラードのこの曲にジーンときてしまい、自然と涙が頬を伝った。この曲は、六十年代の荒廃したハイスクールを歌ったもので幸雄には、身につまさせる思いであった。

 一眠りしたあと幸雄は、以前図書館で見た、生徒達の猛勉強ぶりを思いだし、体に熱いものが籠もってきた。すぐさま机に向かい参考書を開いた。幸雄は、時折頭をくしゃくしゃに掻きむしるようにして、自分にカツを入れた。

 その日は、得意ではなかったが、好きな英語をトコトンやった。


六 いまいましい奴


 「ジリ、ジリ、ジリ。」

目覚ましのけたたましい音に目を覚ました。

 「いけねえ、もうこんな時間だ。」

そう呟くと、階段をドタドタと降り、制服に着替え、そのままの食パンを一枚口に加え、慌ただしく家を出た。慣れた道とはいえ、一時間余りの通学距離は、幸雄にとっては、大変きつい行程であった。

幸雄は、途中鳥津の下宿へ寄った。

 「おはようございます。」

 「鳥津君いますか。」

そう言うと、幸雄は、中へ中へと入って行った。鳥津の部屋の戸を恐る恐る開けると、鳥津は、まだ布団の中で熟睡していた。幸雄は、部屋へ上がって、畳の上をつま先立って一歩一歩鳥津の側へ近づいた。幸雄は、驚かしてやろうと、鳥津の耳の側まで顔を近づけた。

 すると、鳥津は、振り向いて、

 「ホッ!」

と大きな声を振り上げた。そして、慌てふためいた幸雄の顔を見て高笑いをした。幸雄は、その場に尻餅をついて、

 「驚かすなよお。」

となんとも頼りない声でいった。

 「はははは。」

 「お前が、襖を開けた時から感づいていたんだよ。」

 ちぇっ一杯食わされたなあ。」

幸雄がそう言うと、二人は、顔を見合わせて天を仰いで笑った。

 「笑ってる場合じゃないんだ、早く飯食って学校へ行かなきゃ。」

鳥津は、そう言うとパジャマ姿のままで、幸雄を押しのけ部屋を出た。暫くたって食堂の方で、下宿生達の、

 「いただきまあす。」

と言う声がした。味噌汁のなんとも言えないいい匂いが鳥津の部屋まで漂って来た。

幸雄は、突然空腹感を覚え自分の腹をさすった。暫くして、鳥津が部屋へ戻って来た。

 「ああ、食った食った。」

 「予は、満足じゃ。」

などと、冗談めいた事を言って一人で笑った 「お前、そんなに食ったのか。」

 「授業中、教室抜け出してウンコなんかするなよ。」

幸雄は、嫌味を言った。

 「それより鳥津、早く学校へ行こうぜ。」

 「また前みたいに、名札取り上げられるぞ。幸雄は、そう言うと一人だけ先に下宿を出た。

 「あいつ何トロトロしてやがんだ。」

幸雄は、時計を気にしながら、その場で膝を揺すった。

 「待たせて済まんなあ。」

鳥津は、右手を上げて出てきた。

 「そんな事、言ってる場合かよ。」

 「早く行こうぜ。」

二人は、自転車に乗って、通勤ラッシュの時間でも、メインストリートの裏側にあるため、割と空いている通学路を抜きつ抜かれつしながら学校へ向かった。校門には、いつもの通り国語科の柴田教諭が立っていた。二人は、校門の近くまで来ると、ラストスパートをかけ、一気に中へ走り込んだ。

 柴田は、ニヤッと笑うと、また、何食わぬ顔をして立っていた。

 「今日は、セーフだったなあ。」

幸雄が言うと、

 「んだな。」

と鳥津は、軽く受け答えた。

二人は、駐輪場へ自転車を置くと、その場で別れ、それぞれの教室へ向かった。

 幸雄が、教室へ入ると、クラスメイト達が幸雄の顔を見てクスクス笑い出した。呆気に取られた幸雄は、首を傾げながら、自分の席へ着こうとすると、

 「おい、ロリコン少年。」

あの松下が、不気味な笑いを浮かべて言った。

 「何だと、もう一遍言ってみろ。」

幸雄にとっては、奴は口も聞きたくない程の存在ではあったが、その時ばかりはむきになって言った。

 「それは、どういう意味だ。」

と、言ったものの、思い当たる節がなかった理由ではなかった。下校中小学生の生徒達に、奇声にも似た声をかけられる事がしばしばあったからだ。となると、誰かが、その光景を見て学校の連中にデマを言いふらしたに違いないと思った。

 松下は、更に続けて、

 「お前も、見かけによらず、変態じみてるよなあ。」

 「その言葉を聞いた時、幸雄は、堪忍袋の緒が切れて、つかつかっと、松下の方へ歩み寄り、いきなり胸ぐらを掴まえると、拳を振りかざして、殴りかかろうとしたが、思いとどまり教室を出た。松下は、

 「ふん、なぐる勇気もないくせによう。」

と、鼻でバカにした様に言い捨てると、何事もなかったように、自分の席へ戻った。

 授業が始まるまでの数分間、幸雄は、校内をぶらついていた。こうしていると幾分か、気が収まるのだった。

 ちょうど保健室の前を通りかかった時、予鈴のチャイムが、校内に響き渡った。

 「そろそろ教室へ戻るか。」

そう独り言を呟くと、後へ引っ返した。

教室へ戻ると、クラスメイト達は、きちんと座席に着き、一時限目の授業である数学の教科書やテキストブックやらを机の上に、所狭しと置いて、授業開始のチャイムが鳴るのを待っていた。幸雄は、教室の連中達の蔑んだ視線を無視して自分の席へいくと、鼻で大きく息をして、そのまま着席した。明らかに幸雄は孤立していた。不穏な空気が教室を包んだ。

 その時である。

 「キンコーン、カンコーン・・・」

と、授業開始のチャイムが鳴った。それと同時くらいに、数学科担当の谷田教諭が、落ち着き払った様子で、教室の中へ入って来た。

 谷田は、教科書と出欠簿をポンッと机の上に置くと、両手をついて辺りを見回し、

 「それでは始めます。」

と言い、教科書をパラパラとめくり始めた。

 そして、チョークを持って慣れた手つきで幾何学模様を黒板に書き始めた。そして、それを一気に書き終えると、数学記号あるいは、数式といったものを事細かに書き添えていった。そして、その反応といえば、なるほどと頷く者もいれば、幸雄のように、何が何だか解らず首を傾げる者というように様々であった。

 「さて、どうするかなあ。」

谷田が、独り言のように呟いた。

 そして、谷田は、少し関西訛りの入った口調で、二言、三言、数学記号とか数式に説明を加えた。幸雄は、じっとしているのが、退屈で、少し苛立ちさえ覚えた。

 一方、谷田は、徐々に本来の教え方になり、舌の回りも早くなってきた。

 どの授業でもそうだが、生徒からの質問は、ほとんどないため、教師としては理解できているのだと、錯覚してしまい、訳の分からない生徒は、置き去りにされてしまうという傾向があった。

幸雄の苛立ちは、時間を追うごとに高まり、時計ばかりがきになった。そして、その苛立ちは、谷田に対するそれと言うより、自分自身に対する怒りにも似たものであった。

 「何でオレは、こんなにも惨めなんだろう。」

幸雄は、自分の境遇を疎んだ。

 「キンコーン・カンコーン・・・」

授業終了のチャイムが鳴ると、室内は、どおーっという空気が湧き上がり、一遍に緊張の糸が緩んだ。早速教科書をしまい込み次の授業の準備をする者がいれば、余韻を味わっているかのように、目を開けたまま机の上に顔を伏せる者まで色々であった。

幸雄が、教科書をしまい込んでいると、その前をあの忌々しい松下が、鼻歌を歌いながら過ぎて行った。幸雄は、横目で鋭い視線を送ったが、奴には解らなかった。 

 幸雄は、予鈴のチャイムがなるまでの数分間、一人(いや他にも、五、六人いたのだが)教室に残り、時計をいじくって遊んでいた。

教室の外の廊下から時折女子の甲高い声が聞こえた。

 そうこうするうちに、予鈴のチャイムが鳴り、クラスの生徒が、一斉に教室へなだれ込んできた。そして、各自がそれぞれの席に着き、本礼のチャイムを待った。一方幸雄は、相変わらず時計をいじくっていた。それからの授業は、ただもう惰性で受けた。放課後の補習授業の事を考えると気が重かったからだ。 その日の補習授業は、古文であった。どのくらい教室で待っただろう。暫くして柴田が、長身の体を支えている両足がさもとなく、ちょっと内股ぎみの歩き方で、教室の中へ入って来た。教壇に立つと、幸雄の顔を一瞥した。そして、柴田は、幸雄に、

 「プリントを取りに来い。」

素っ気なくそう言うと、自分はイスに腰掛け小説らしきものを読み始めた。幸雄は、言われるままに、前へ行き、まだ刷り立てらしく、インクの匂いがぷーんとするざらしの茶色いプリントを種類別に一枚づつとった。

幸雄は、席に戻ると、

「ふーっ。」

と一息ついて着座した。

幸雄は、プリントの問題を解きながら、時々窓の外を見た。窓の外のグランドとは別の中庭では、テニス部の女子達が練習をしていた。教室の中は昼間の賑やかさはなく、外からボールを打つ音だけが聞こえた。幸雄は、黙々と問題に取り組んだ。そうしていると、柴田がふいに立ち上がり教室を出ていった。

 「トイレにでも行くんだろう。」

その時、幸雄は思った。

そして、暫くして柴田が、ハンカチで掌を拭いながら、戸のところだけ頭をかがめて入ってきた。幸雄は、ニヤッと笑って、再び机に向かった。幸雄は、一つ大きな欠伸をすると、柴田がメタルフレームのメガネの奥から軽蔑にも似た鋭い視線を送った。その間も時間は、刻々と経っていった。

 「先生!出来ました。」

幸雄は、そう言うとプリントを三枚縦にトントンと揃えると、柴田の所へ持っていった。柴田は、それを無造作に受け取ると、赤のマジックで手早く採点していった。採点が終わると、今度はその重い腰を上げ、教壇に立ち、誤っている箇所を黒板に書き、事細かに説明を加えていった。こういうマンツーマンの指導を受けている時は、幸雄も、真剣に慣れ、また、飲み込みも早かった。そして、その日の補習は終わった。

 幸雄が、帰り仕度を済ませた頃には、もう日はとっぷりと暮れていた。柴田は、教室へ入って来た時と同様、何食わぬ顔をして、出て行ってしまった。一人、教室に取り残された形の幸雄も、せまり来る暗黒の世界に、身の置き場もなく、駆け足で駐輪場の方へ走って行った。そして荷台にカバンを積むと、渾身の力を込めて自転車をこぎ出した。いつもの、路地に面した家々には灯りともり、鳥津の下宿家の煙突からは、煙が立ち上っていた。自転車を先へ先へ進めながら幸雄は、もう目と鼻の先まで来ている冬休みに思いを馳せていた。そんな事を考えているとペダルをこぐ足に益々力がこもった。


七 最後の冬休み


 そして、待ちに待った冬休みが、明日に迫った。終業式の朝というのは、いつになく慌ただしかった。毎年恒例の大掃除があったり、それにもまして、通知表をもらう生徒達は、表面には、あまり出さなくてもハラハラ、ドキドキというか、そういった感情を隠しきれない部分が、時折見られたからだ。

 通知表をもらうのは、大抵終業式が終わった後、教室で、というのが決まりであった。

 「おーい、みんな、二列縦隊になって・・。」

 「女子の人、私語は謹んで下さい。」

室長の柳沢と副室長の高橋が、生徒達に号令をかけた。しかし、生徒達は、一向に耳を貸そうとしなかった。幸雄としても、緊張と弛緩のけじめぐらいは、つけて欲しいものだと思った。かといって、みんなに注意するといった、この場にはそぐわない行動は、出来っこなかった。

 そこへ、谷田が現れた。

 「おい、こらー、次のクラスの者が入場の順番を待っとるんだぞ。」

 「さっさと、ならばないか。」

谷田は、そう言って、室長の号令に従わせようとした。谷田の言うとおり、五組の生徒達が、渡り廊下を渡って、こっちの校舎へ、徐々に近づいて来ていた。

 男子ばかりのクラスの中で、一際小柄な鳥津が、幸雄を見つけて、手を振っていた。

幸雄は、愛想笑いをして、それに答えた。

 谷田の言葉に、渋々納得した。生徒達は、自ら、無言のまま、整列し始め、入場の時を待った。

 「それじゃあ、入るぞー。」

室長の柳沢が、掛け声をかけた。五Mくらい遊んだ所で、前がつかえてしまった。すると、途端に、誰彼となく、おしゃべりを始め、もうこの時には、谷田も、注意をしなくなっていた。

 式場である体育館の中も相当ざわついていて、注意しても仕方がないと思ったからだ。

 間もなく、列は動きだし、幸雄のクラスも、体育館の中へ入っていった。中へ入ると、それぞれのクラスの者の中には、自分達の列をはずれ、思い思いに気の合った仲間達と、立ち話を始める者がいた。幸雄は、わりかし冷静で、自分の位置を離れなかった。尾崎が幸雄を見つけて、手を振っていたが、ほとんど無表情で軽く受け流した。

 その時である。

 「静かにして下さい。」

生徒会長の声が体育館に、響き渡った。

 「ちょっと、そこの君達、私語は、謹んで下さい。」

 今度は、名指しとまではいかなくても、個人的な注意を促した。

 やがて場内は、静けさを取り戻り、校長の挨拶が始まった。話の内容と言うと、いつもの事ながら、形式ばったもので、冬休みに入ってからの”家庭学習について”が、主旨であった。また、男女の異性交遊についてもふれた。

 「最近、我が校でも、男女の交際が親密化しているという話を良く聞きます。」

 「交際が悪いというのではありませんが、あなた方は、あくまでも学生なのですから、学生としての本文を忘れず、清く正しい交際をして下さい。」

といった内容の話を、校長がした。その時、場内は、シーンと静まりかえっていた。

 「幸雄の脳裏に恭子の姿が点滅信号のように浮かんでは消えた。」

 以後、入れ替わり、立ち替わり、教師達が演台に立ち、話をして、一時間程で終業式は、終わった。それが終わると、生徒達は、入って来た時とは逆に、みんなバラバラになってそれぞれの教室へ帰って行った。教室に戻ると、生徒達は、小グループをつくり、冬休みに入ってからの計画を話し始めた。

ポツネンとイスに座り、時計をいじり始めた。時折、あの忌々しい松下の声が耳について、いら立ちを覚えた。

 それから、暫くして、谷田が片手に通知表を持って教室へ入って来た。

 「起立!」

室長の柳沢が号令をかけた。すると一斉に生徒達が立ち上がり、谷田と一礼を交わした。

谷田は、通知表を教壇の上に置くと、一緒に持ってきた。ざらしのプリントを前列の生徒の机の上に、人数分づつ配っていった。そして、プリントに書いてある、要旨を掻い摘んで説明した。それが終わると、いよいよ、通知表が手渡される時がきた。一人また一人、名前を呼ばれ、前へ進み出た。

 「木下!」

ついに幸雄の番が来た。

 「はい!」

威勢良く返事をして、幸雄は、教壇の前までいった。谷田は、渋い顔をしていた。

 幸雄は、通知表を渡されると席に戻り、恐る恐る手の平の上に開けてみた。

 その時、前進から血の気が引くのを感じた。

 「はーっ!」

と、一人溜息をつくと、通知表を元通り閉じて、カバンの中へしまい込んだ。

 一通り通知表が渡されると、谷田が教師としての立場から、生徒達へ、全体的な評価をした。

 「成績の上がった人は、それに満足せず、もっと上を目指して下さい。」

 「また、悪かった人も、諦めないで、(一月にある、共通一次まで、後わずかですから)

もう一踏ん張りして下さい。」

後の言葉は、幸雄にとっては、身につまされる言葉であった。

 「それじゃあ、そろそろ始めるか。」

クラスの中の一人が言った。

上田征史であった。その言葉に先導されて、クラスの連中が、谷田の周りに群がった。

上田が再び、「せーの!」という声を掛けると、みんなが、谷田の重い体を持ち上げ宙に踊らせた。ひょうきん者の菊池浩二が、

 「そーれ、そーれ!」と音頭をとって、みんなを囃し立てた。

幸雄は、教室の後の方で、成り行きを見守っていたが、やがて教室から消えてしまった。

そして、一人ポツポツと駐輪場へ向かった。グランドに出ると、穏やかな冬空には、雲一つなかった。

 冬休みに入って数日後、幸雄は、昼過ぎ頃まで眠っていた。母親の幸子の呼び起こす声に目を覚まし、眠い目を擦りながら階下へ降りた。居間に入ると、いつもとは違って何やら華やいだ雰囲気がした。父親の春雄の家では、新年を祝っての、

 「あけまして おめでとう ございます。」

などと言う、言葉は、お互いに照れくさいのか、一切なかった。ただ、床の間に据えてあるオトソだけは、替わる替わるいただいた。幸雄は、パジャマ替わりに着ているスウェットスーツのまま新聞を読んでいると、姉の恵子、それに、弟の靖雄が応接間へと入って来た。母親の幸子は、相変わらず炊事場で朝食を作っていた。突然、父親の春雄が、

 「家族揃った所で飯でも済んだら、お参りにでも行くか。」

と言い出した。木下家では、家族揃って何処かへ出かけるというのは、一年の内でそう滅多にあることではなかった。

 「よし、行こう、行こう。」

最初に、賛成したのは、弟の靖雄であった。

 「ところで、何処に行くの?」

今度は、姉の恵子が父親の春雄に尋ねた。

すると、母親の幸子が洗い物をしていたのか、

濡れた手をエプロンで拭いながら入って来て、

 「明石寺がいいわ。」

そうみんなの顔を見回しながら言った。”明石寺”と言うのは、四国霊場の札所であった。

 幸子の意見に誰一人異論を挟む者はなかった。

 「そうと決まったら飯でも食うか。」

 幸雄は、新聞をたたむと、スッと立ち上がり、炊事場へ向かった。朝食が済むと、幸雄は、車庫のシャッターを上げ、車にまだ取り付けていなかったしめ縄を、手際よく取り付けると、服を着替えにまた中へ入った。

 暫くして家族の者は、身支度を済ませ、家の外へ出た。空は良く晴れていて、割と暖かだった。父親の春雄が買って間もないホワイトカラーのブルーバードに乗り込み、エンジンをかけた。ブルンブルンとアクセルをふかすと車は徐々に車庫の外へ出た。

 「おい、みんな乗りなさい。」

春雄がそう言うと、家族の者は、自分の座席を各々、勝手に指定しながらも、もめることなく車に乗り込んだ。

 こうして幸雄達は、一家揃ってのドライブに出かけたのだった。

 それからあっという間に、数日が経って、いよいよ登校の日が来た。すでに受験シーズンも真っ盛りである。幸雄は、学校へ行き、教室へ入ると、クラスメイト達は、流石に落ち着き払っていて、誰の顔にも焦りの色はなかった。

 「起立。」

 「礼。」室長の柳沢が、谷田が入って来るなり号令をかけた。

 「おはようございます。」

生徒達は、一斉にお辞儀をした。

 「共通一次まで、後一週間です。もうここまで来たらジタバタしても仕方ありません。」

 「家庭学習では、日頃の授業の反復をして下さい。」

 谷田は、冒頭以上のような事を云った。

 「すでに、受験の為、欠席している人達がいますが、その人達に負けないよう今日も頑張って下さい。」

 幸雄も、今日欠席している連中と同様、私立を受験する覚悟でいるのだが、冬休みに入る前日、柴田に言われたことを思い出した。

 「木下、お前、大学受けるのか?」

 「ええ、まあ。」

 「受けん方が、いいんだがなあ。」

幸雄は、なぜその時柴田に(受けない方がいいのか)その理由を聞かなかったのだろうと、今になって後悔した。

 「もしかして、学校のメンツの事を気にして言ったのだろうか。」

 「いや違う。」

幸雄は、心の中で(すばやく)否定した。

 「とにかく、オレは、大学へ入りたいがために、この高校を選んだんだ。」

 「誰が、どんな事を言おうとも、たとえ、学力が受験するに値なくとも、『GOING

・MY・WAY』今日までの高校生活を悔い、あるものにしたくないんだ。」

 そう、幸雄は、決意を新たにした。

谷田は、話を続けていたが、その声は、一向に幸雄の耳には、入っていなかった。 

 ふと、校庭に目をやると、外には、人影はなく、冬晴れの空の下にはしまい忘れたサッカーボールだけが、転がっていた。


 八 再生への道


 結局、幸雄は、受験した私立の大学をことごとくすべってしまった。そして家業である農家を継いだ。しかし、農業を仕事として自分自身に言い聞かせ、認識するまでには、長い年月を必要とした。それは、自分との闘争の日々でもあった。心に内在する農業への不信感、サラリーマン社会への憧憬。そういったものが蔦のように絡み合って身動きがとれなくなることもあった。それでも枯れる事なく、枝を折られながらも、少しずつ確実に成長していった。

 高校三年間を振り返ると挫折もあった。恋いもあった。また、何より先に友情を育んだ。これらのものを明日の糧として、これからの人生を歩んで行こうと。幸雄は決意するのだった。

 それこそが再生への道なのだから。 


 

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