三話
私の『幸せな出会い』の相手であるその男性、クラウス様とは領地の麦畑で出会った。
彼は地方の伯爵家の子息で、植物を専門とする学者だった。うちの領地にいる学者と共同で研究をしており、その日は偶然新しく改良した麦の品種の育ち具合を畑まで確認しに来ていたらしい。
クラウス様と出会った日の私は、畑にも出かけるということだったので、ブラウスと乗馬ズボンに、装飾品化粧も最低限と言った出で立ちだった。彼も畑で作業をしていたため、ズボンの裾には土も付き、下手をすれば平民とも区別がつかないような格好だった。
王宮の綺麗に整えられた庭園で、頭の天辺から足のつま先までふんだんに着飾って臨んだフェルナンド殿下との初めての顔合わせとは、何もかもが大違いの出会いだった。
けれど新種の麦のことや、ここの土壌の特徴など、気になることを次々質問した私に、彼は丁寧に返事をしてくれた。真剣に言葉を交わす時間は、上辺が美しいだけだったあの日の会話とは全く違い、心から楽しめるものであった。
広大な農地を持つ我が領にとって農作物の収量を上げることは重要な課題だった。そのため領地に滞在中に農業に関する会合や視察に参加する機会が多くあり、クラウス様とはその場で何度も顔を合わせることとなった。
彼は私が侯爵家の人間だということもあり色々と気を使ってくれたが、そこに無駄なおべっかや腹の探り合いはなかった。彼は真っ直ぐに私と話をしてくれた。
本で得ていた知識を伝えると、感心しながらそれをまっすぐに受け取ってくれた。女の癖に賢しさをひけらかしてという目を向けてくることはなかった。
間違っている点があると、きちんとそれを指摘してくれた。言外に嫌みったらしくそれを言ってくることはなかった。
彼は侯爵令嬢でも、意地悪な姉でも、王太子の婚約者でもない、私を見てくれていた。彼の隣にいると自然に呼吸ができる。私はそう感じていた。
その安心感のような気持は、気づかぬ間に私の胸の中に根を張り、育っていた。
「あの、王都にあるような洗練されたものではないのですが、ミレッタ嬢に似合うと思いまして」
クラウス様と仕事以外の場でも会う機会が増えていたある日、一緒に出掛けたカフェのテラス席で彼が言葉に詰まりながらもそう言って差し出してくれたのは、白いバラが一輪だけ付いた髪飾りだった。
仕事での知り合いよりは近いけど、友人なのか、それとももっと近い存在なのか。曖昧な距離感の私たちだったが、彼から何かをプレゼントされるのは初めてだった。
髪飾りに付いていたのは、凛とした雰囲気を感じさせるシンプルで美しい白いバラだった。それが私に似合うと言ってもらえた。そのことを理解した瞬間、ぎゅっと締め付けてくるような幸せが私の心の中を満たした。
大きな宝石で飾られている訳でもない。価値で言えば、普段私が使っている物の方がずっと上だろう。それでもその髪飾りは、持っているどんな宝飾品よりきらめいて見えた。
どうしてこんなに胸が温かいのだろう、どうしてきらめいて見えるのだろうと考えたとき、私はうまく言葉にできていなかった自分の心を唐突に理解した。
ああ、私は彼が好きなんだと。
気持ちを自覚した途端、目の前に彼がいて、私を見ていると思うと急に恥ずかしくなった。今日の服装は地味じゃなかっただろうか、化粧やアクセサリーもちゃんと似合っているだろうかと、それまで気になっていなかったことがぐんと不安になった。
やや俯いて、頬や耳を赤くした私につられたのか、正面に座るクラウス様までもが顔を赤くした。その赤みを隠すように額に手を当てながら、彼は視線を外しながらこうこぼした。
「そんな顔をされると、その、自惚れてしまいそうになります」
「……自惚れって?」
ズルい聞き方をしてしまったとは思ったが、彼の表情に、わずかに震える声にもしかしたらと期待をしてしまったのは私も同じだった。けれど彼の顔を直視し続ける勇気がなくて、彼の前に置かれたティーカップを見つめていた私に、こんな言葉が返された。
「貴女も、私を好いていてくれるのではないかという、自惚れです」
期待していたくせに、いざ言葉にして聞くとなんだか胸がいっぱいになってしまった。何も反応を返さない私に、彼は弁解するようにこう続けた。
「すみません、ミレッタ嬢とは地位も違うし、私では貴女に釣り合わないのは分かっています。けれど、何事にも懸命で、領民のために努力を惜しまない貴女に惹かれてしまったんです」
彼の言葉に、目の奥がツンと痛くなった。王太子の婚約者ではなくなったあの日から、社交が得意でない自分にできるのは愚直に努力を積み重ねることだけだと思い、手探りしながら自分にできることをやってきた。そのことを他ならぬ彼が認めてくれた。そのことが、たまらなく嬉しかった。
それなのに、私の口からまず出たのは不安についてだった。
「でも、私は社交界で妹、エミリーを虐める女だと思われておりますわ。そしてそのエミリーは今や王太子妃となる身です。私と一緒にいたらクラウス様の評判も悪くなってしまいます」
「それ、それなんです!」
社交界での自分の立ち位置についてクラウス様に伝えると、彼は急に身を乗り出してきた。
「貴女を悪女だなんて、どこをどう見たらそんな噂が立つんですか!信じられません!」
クラウス様は至って真面目な表情でそう言った。あまりにも予想外の反応に何も言えずにいた私に、彼は続けてこう言った。
「私は今までこんなに領地のことを考えているご令嬢に会ったことはありません。我々と話をするときに真剣なのはもちろんですが、そのときに示される貴女の知識は一朝一夕で身に付くようなものではないことは明らかです。貴女はとても真摯で、努力家で、素敵な人だ。なぜ皆そのことが分からないのか不思議でならないです」
「ありがとうございます、クラウス様。でも社交界では真面目に努力をするだけでは、評価などされないのです。人の心の機微を読んで、自分の長所を見せる。それが私にはうまくできないのです」
「確かに社交界にはそのような面もあります。でも外面さえよければいいというものでもありません。皆、いずれ貴女の真価に気付くはずです」
クラウス様の言葉に、気づけば頬を涙が伝っていた。私でさえ信じられていなかった私のことを、彼はこんな風に思ってくれている。嬉しくて、嬉しくて涙が止まらなかった。
「それに周囲からどう見られるかということで、私は一緒にいる人を選ぶわけではありません。私は貴女だから、一緒にいたいんです」
「……後悔したって知りませんよ」
もっと可愛い返事ができればよかったが、自分の口から出たのはそんな言葉だった。けれどクラウス様は嬉しそうに目を細めて、こう答えてくれた。
「貴女となら、望むところです」
そこから私たちは順調に仲を深めていった。そして出会ってから三年後に、予てから彼が研究していた害虫に強い新種の麦を共に開発した功績をもって、お父様に結婚の許しをいただいた。
クラウス様と結婚の準備を進める中、私たち二人にある招待状が届いた。
それはエミリーの結婚式への招待状だった。
私は社交界では妹を虐める意地悪な姉と思われていたため、てっきりエミリーの結婚式には呼ばれないだろうと思っていた。しかし、それぐらいでは結婚式に身内を呼ばない理由にはならなかったようだった。
意外な気持ちと彼女に対する複雑な気持ちを抱えながらも、私はクラウス様と共に彼女の結婚式に参列した。
王族、それも次期国王となる王太子の結婚式は、それはそれは豪勢なものであった。飾られた花の一輪までもが一流で、この国の最高峰のものが揃えられたきらびやかな空間の中でも、エミリーのウェディングドレス姿は群を抜いて美しかった。
華やかに着飾った容貌が美しいのはもちろんだが、立ち姿は自信と気品に溢れていて、その姿はいずれこの国の女性の頂点に立つに相応しいものであった。
思わず言葉をなくしながらエミリーの晴れ姿を見ていると、隣からクラウス様が消え入りそうな声でこう尋ねてきた。
「……やっぱり彼女が羨ましい?」
聞かれてすぐは、彼が何を問おうとしているのか意図を汲み取ることができなかった。羨ましいとは、エミリーの容姿のことか、彼女が身に付けているドレスや装飾品を指しているのかと思った。
しかし彼の真剣な表情から、そんな小さなことを聞かれているのではないと理解した。彼は、熱心にエミリーたちを見つめていた私に、王太子の横に立つという立場に未練はないのかと聞いているのだと思った。
そんなに懸命にエミリーたちを見ていただろうかと少し反省したあと、私は周囲の音楽に溶け込むぐらいの声量で、しかしはっきりとクラウス様に返事をした。
「エミリーの立つ場所に自分が立ちたいとは思っていません。誰もがエミリーの方が恵まれた立場だと思うかもしれませんが、私の幸せはここ、貴方の隣にあります」
隣にいるクラウス様の上着の裾をきゅっと握り、私は彼を真っ直ぐ見つめた。
「私も地位とかそういうものではなく、努力家で人々の生活のためにひたむきにがんばる貴方という人を好きになったのです。肩書きではなく、私という一人の人間と向き合ってくれた貴方に惹かれたのです」
今はまだ結婚式の最中であり、荘厳なパイプオルガンが奏でられる中、誰もが今日の主役たるエミリーたちを見つめていた。けれども私は身体ごとクラウス様の方を向き、彼にしっかりと言葉を伝えた。
「確かに、エミリーの今日の姿を見て、彼女は私が持ち得なかったものを持っているのだなと改めて思いました。しかし、その事実を感じ取っただけで、そこに羨む気持ちはありません。だって、私には貴方がいてくれる。私は彼女を羨む必要がないくらい、幸せなんです」
言い切ってから、恥ずかしさがじわじわ込み上げてきたので、私は視線を下に向けた。すると、クラウス様は上着の裾を掴んでいた私の手をぎゅっと握ってきた。
「すみません、馬鹿なことを聞きました。貴女が私に向けてくれるその想いに、そして自分の胸にある貴女への気持ちに応えられるように、必ず貴女を幸せにします。ミレッタ、私と共に生きると決めてくれてありがとう」
あんまりにも優しい声音でそう告げられ、私は堪らなくなってしまった。胸で膨らみ続ける幸せな気持ちに押し上げられるように、視線を彼の顔に戻した。
するとそのとき、この国の未来を担う夫婦を祝うための祝福の鐘が、聖堂に鳴り響いた。
ステンドグラスの色を纏った柔らかな光が降り注ぐ中で、私とクラウス様は見つめあった。まるで私たちも祝福されているみたいだなんてつい思ってしまうぐらい、幸せでならなかった。
エミリーたちの結婚式が終わると、その後は参列者たちとの挨拶を最低限だけ済ませて、私たちはその場を後にした。
挨拶の中で、昔のようにもっと『意地悪な姉』扱いをされるのかと思っていたけど、誰もが私に過去の話を向けてくることはなかった。
「君は今や未来の王妃様の姉だよ。君の機嫌を損ねるようなことをわざわざ言ってくる人はいないさ。それに、どうやらエミリー王太子妃側から、姉妹の不仲説を打ち消すような話も出ていたようだよ」
「エミリーから?どうしてかしら」
「うーん、姉妹仲が悪いというのも、そんなに聞こえのいい話じゃないからじゃないかな」
「そういうものなのかしら。やっぱり私、社交に向いてないわ。そういうの理解しきれないわ」
「まあ、何であれ君の悪評がなくなったのはいいことなんだし、その結果だけ受け取っておけば?」
「そうね、そうするわ」
正直に言うと、あの頃あんなに思い悩んだことも、エミリーの手にかかればあっさり解決するのかと複雑な気持ちになった。けれど、今さらこの問題を蒸し返す気もないし、クラウス様の言うとおり、結果だけを受け取っておくことにした。
エミリーたちの結婚式から数ヶ月後、私とクラウス様もこじんまりとした式を挙げた。
侯爵家としては最低限の式ではあったが、大切な人たちに見守られ、私たちは夫婦になった。
警護の関係等もあり、エミリーたちは式に少しだけ顔を出しただけであった。王太子妃となった彼女の顔を見るとどんな気持ちになるか不安もあったが、実際に会ってみると、特別何か気持ちが動くことはなかった。
妹として親しみを覚えることも、かつて私を陥れた相手として憎々しく思うことも、社交界の頂点にいる彼女を羨むこともなかった。
彼女はもう、私を大きく揺さぶる存在ではなくなっていた。
だって私の隣にはクラウス様がいてくれる。この先、彼と描いていきたいことがたくさんあって、エミリーのことなど考えている余地など、私にはもうないのだ。
クラウス様との未来を思い描き、幸せに浸っていた私は、結婚式に来たエミリーが私をじっとみつめていたことに微塵も気付いていなかった。