二話
「仮にミレッタ侯爵令嬢が婚約を継続してくれたとしても、お前の王太子の地位が剥奪されることに変わりはありませんよ」
私が発言するより先にフェルナンド殿下にそう言ったのは、それまでこの騒動を静観されていた王妃様だった。
確かに事実確認もせずこのような断罪を行ったフェルナンド殿下は、次の国王となるには相応しくないだろう。
そう納得していた私の耳に、次の瞬間、信じられない言葉が聞こえてきた。
「軽率なお前が国王の器でないこともそうですが、ミレッタ侯爵令嬢もまた王妃の器ではないからです」
予想していなかった言葉に思わず目を見開いて王妃様に顔を向けた。そんな私に、王妃様は静かにおっしゃった。
「貴女は真実の鈴があれば潔白が証明できると言いましたが、別に貴女が妹を虐げていようがいまいが、真実などどうでもよいのです。今、社交界での貴女の評価はそうなっている。そのことこそが重要なのです」
「え?」
理解が追いつかず、そう漏らしてしまった私に向かって、王妃様は言葉を続けた。
「貴女は、妹に社交界での戦いに負けたのですよ。情報、心象を駆使して、自分の思い描いたことを事実にするという戦いに。そして、自分の悪評一つ覆せないような女性に、王妃という立場は務まりません」
王妃様は優しくすら見える表情で私にこうおっしゃった。
「真実の鈴は、その絶対の力故に無条件で使えるものではありません。それに、自分に不利な噂が立つ度に王家の秘宝を持ち出す訳にはいかないのです。悪評ぐらい自分で払拭できなければならないのです」
「た、確かに私は周囲の誤解を解くことはできませんでした。けれど、王太子妃としてこの国を支えるために懸命に自分を高めてきました。それは教育にあたってくださった教師の方々が証明してくださると思います」
「ええ、聞いております。予定より早く教育を終えそうなほど優秀だと」
王太子妃教育の教師の中には、誤った噂を信じ、私のことをよく思っていない人も多くいた。そのため、私の努力は王妃様の耳までは届いていないかもしれないと思っていた。
けれど、王妃様はちゃんと私の努力を知ってくれていた。真実を知ってくれている人もいると思わず安堵の息を漏らしたが、私がそう思えたのも束の間のことだった。
王妃様から私に告げられる言葉の厳しさは、その真実をもっても変わることはなかった。
「しかし優秀なだけでは、この人々の欲望、思惑、悪意の渦巻く王宮を取り仕切ることはできないのです。王妃にはそれらを御して、王の支え、この国を発展させることが求められるのです」
「……私にはそれができない、と?」
泣きそうな気持で、どうか否定してほしいと願いながら王妃様にそう尋ねた。しかし、私のそんな願いは叶えられることはなかった。
「ええ、残念ながらね。清濁飲み込めて、さらにそれすら利用する狡猾さも必要なの。貴女にはそれがないわ」
真摯な表情でおっしゃった王妃様のその言葉は、私の胸を大きくえぐった。
真っ直ぐ努力を積み重ねてきた。人に恥じない生き方をしようと自分を律してきた。それなのに、それなのにという思いが、ぐるぐると暴れ回った。
怒りなのか、悔しさなのか、掴みきれない感情が心をかき乱した。王族が臨席する場所でなければ、私はみっともなく泣き叫んでいたかもしれない。それぐらい気持ちは荒ぶっていた。今、大人しく両足を揃えて立っていられる自分が不思議なぐらいだった。
しかしそんな激情の中、思考の片隅はどこか妙に冷静だった。自分は負けたのだということを、他人事のように理解をしていた。
私は王妃にはなれない。エミリーの虚偽が、私の真実より勝った。
否定したい気持ちばかりだったのに、王妃様のお言葉の意味が理解できない自分ではなかった。理解してしまったその事実が、私を打ちのめした。
何とか留めていたはずなのに、渦巻いていた感情に押し出された涙が、知らぬうちに静かにぽたぽたと落ちていた。それらがドレスを濡らすのをどうすることもできずただ見つめていると、いつの間にか側まで来ていた王妃様が私の背にそっと手を添えながらこうおっしゃった。
「これまで真っ直ぐに努力してきた貴女の誠実さは評価されるべきものです。並大抵の者ではそうあり続けることはできなかったでしょう。ただ、貴女のその資質は王宮を統べる立場に向くものではなかった。それだけの話なのです」
今までずっと、卑怯なエミリーに負けてなるものかと思っていた。正しい私のことを、いつか周囲も認めるはずだと思っていた。
正しいことが、正しいはずだし、それが正解でなければならないと思っていた。そのためにも、私は常に正義でなければならないと思っていた。
けど、『向いていない』という王妃様のその言葉で、今まで認めることができなかった何かが、ストンと胸に落ちてきた気がした。目を背けて、向き合ってこなかったものを初めて真っ直ぐ見ることができた。
心のどこかで、自分がそうした謀略に向かないことに気がついてはいた。そして、それがこの社交界において重要なことにも。
それが分からないほど愚かではなかったが、かといってエミリーのように上手く事実を誤魔化したり、他人を誘導できたりするほど器用にもなれなかった。
彼女と自分との違いを感じれば感じるほど、しんどくなった。正しいのは自分なんだと思うことで、真っ当な努力を積み重ねることで、その事実を直視することから逃げてきた。
けれどこれは優劣の話ではない。正義の在りかを論ずるものでもない。向き、不向きの問題なんだ。
そう言ってもらえたことで、私はがんじがらめになっていた考えからやっと解放されたような気がした。
「貴女を王太子妃として迎えることはできないけれど、その高い教養を活かせる道はあるでしょう。貴女の能力を見極めるためでもありましたが、今日まで長くフェルナンドの婚約者という立場であってくれました。必要であれば、貴女が望む道を進めるよう私が後押しをしましょう」
私の進みたい道。今までずっと卑怯な手段に屈せず、私こそが王妃にならねばならないと考えていた。他の道のことなんて考えたこともなかった。
半ば意地にもなった『正しく勝たねば』という思いに押し潰されるように生きていた。けれどそれが晴れると、自分には色んな選択肢があるのではと思えるようになった。
「私がどうしたいかはまだ分かりません。けれど、これからしっかりと考えてみたいと思います」
そう答えると、王妃様は美しい微笑みを返してくださった。
それからしばらくして、王太子がフェルナンド殿下からレックス殿下に変更されたとの通知が王宮より発表された。
フェルナンド殿下の母親である側妃様は大反対をし、かなり抵抗をしたらしい。彼女を寵愛している陛下もフェルナンド殿下を何とか王太子のままにできないか画策をされたようだけど、今回の婚約破棄の騒動による影響をひっくり返すことはできなかったようだ。
表向きにはフェルナンド殿下に重大な病気が見つかり、地位を継ぐのが難しいため、その立場を退くのだと発表された。今後、彼は療養という名の下に、華やかな世界からは遠ざけられるそうだ。
そして、そのような状況であるため、私との婚約も白紙になったということになった。
彼の婚約者であった私も、同じくして社交界の表舞台からは距離を置くようになった。
あの婚約破棄を告げられた後、私はあの日のできごとをお父様にそのまま伝えた。
王妃様のお言葉についても伝えると、お父様はしばらく黙り込んだ後、絞り出すようにこうおっしゃった。
「愛する妻の忘れ形見であるお前は、素直で不器用で、社交界のどろどろとした部分には向かない子だとは分かっていた。それでもフェルナンド殿下を王太子にしたい側妃様の圧力に屈して、お前を殿下の婚約者にしてしまった」
「お父様も、私は向いていないと思われていたのですね」
「ああ、誰もが貴族らしい、腹の中を黒くせねばならない生き方ができる訳ではないのは知っていたからな。私の兄も、そうだったんだよ」
「若くして亡くなったという伯父様がですか?」
お父様に兄がいるのは知っていた。けれど、お父様の口から、その人の話を聞くのは初めてであった。
「実はな、兄上は病気で亡くなったことになっているが、それは嘘なんだ。本当は侯爵家の長男として生きることが嫌になり、お前が生まれる前にこの家を捨てて出ていってしまったんだ」
「家を捨てる、そんな決断をされたのですか。それは貴族という生き方が合わなかったからですか?」
「それも理由の一つだ。ただでさえ真っ直ぐで、貴族としては生きづらい人だった。それでも義務感で何とかやっていたのだが、兄上の愛する女性の家が潰されることになったときに、派閥やパワーバランスの問題もあり、兄上は彼女のために何もすることができなかったんだ。それが決定打となって、あの人はこの家を出ていってしまったんだよ」
私は意地になって戦い続けていたが、もし同じように心が折れるようなことが起こっていれば、伯父様と同じように全てを投げ捨てて逃げていたかもしれなかった。そう思うと、他人事として話を聞くことができなかった。そのせいか、ついお父様にこう尋ねてしまった。
「伯父様は、今は平民として穏やかに生活をされているのですか?」
「そうだったと聞いている」
「……そうだった?」
『だった』という言葉に引っ掛かって、思わずお父様に聞き返してしまった。
しかし過去形でおっしゃったということは、恐らく今は穏やかに生きられてはいないということを意味しているのだろう。当然だが、逃げた先が必ずしも安寧であるとは限らない。貴族から平民になるというなら、尚更だろう。そんなことを思っていると、寂しげな色を滲ませながらお父様がこうおっしゃった。
「兄上は既に亡くなっているんだ。元々合わない貴族としての生活の中で無理をしていて、体を壊していたんだ。けれど兄上は市井で、この家にいた頃より幸せそうに暮らしていたと聞いている」
そうおっしゃった後、お父様は何かを振り返るかのように少しの間口をつぐんだ。そしてその後に改めて私に目をしっかり合わせながら、こう続けた。
「エミリーがお前のイメージを落としていることには気づいていた。お前が苦しんでいることも知ってはいたが、私は敢えて何も手助けはせずにいた。貴族社会にいれば、いずれはそのような洗礼を受けることになるからな」
「はい」
「だが、お前が無理だと助けを求めてくれば、いつでもそれに応じるつもりでいた。その結果、お前が王妃になれなくても、それはそれでいいと思っていた」
「そう思ってくださっていたのですね」
「ああ、出奔前の兄上は見ているのも辛いほどだったからな。合わない社交界で無理を続けて、お前が壊れてしまうのだけは避けたかったんだ。今回、いいか悪いかはさておき、お前は社交界の第一線からは退くこととなった。貴族としては褒められたことではないが、一人の愛娘の父親としては正直ホッとしている」
「お父様……ありがとうございます」
「さて、これでお前は自由になった訳だが、これから先、何かしたいことはあるかい?」
お父様にそう問われ、私は王宮を辞してからずっと考えていたことを口にした。
「王宮での教育でも色んなことを学ばせていただきました。まだ自分のしたいことははっきりとは掴めていませんが、領地や領民のためにできることを模索したいと思っています」
「そうか。時間はある。じっくり考えなさい」
お父様は穏やかな表情で、そうおっしゃった。
そこから、久しぶりに父娘二人っきりでゆっくりと話をした。今まで話せなかった本音や、懐かしいお母様との思い出など、たくさんのことを語り合った。
その会話の最後に、私は気になっていたことをお父様に聞いた。
「今回の婚約破棄のことで、これから我が家にどのような影響があるのでしょうか?王家との繋がりがなくなる影響は小さくはありませんよね?社交界での印象はよくない私ですが、できることはしたいと思います」
その私の言葉を受けて、お父様は少し考えるような仕草をされた。そしてその後に、ゆっくりとこうおっしゃった。
「それなら問題ない。なぜなら、まだ公にはされていないが、エミリーがレックス殿下の婚約者に内定しているからだ」
エミリーがレックス殿下の婚約者?新たに王太子になった彼の?急な話に理解が追い付かない私に、お父様はこう説明を続けた。
「先日打診があって、お受けすることとなった。どうやらレックス殿下はエミリーを気に入ってくださっていたらしい。お前がフェルナンド殿下の婚約者であったためお気持ちを口にはされていなかったが、今回お前たちの話はなくなったため、正式に申し込みがあったのだ」
「では、あの子は王宮へ行くことになるの?」
「急ぎ教育を行いたいということなので、もう王宮に行っている」
「そう、そうなのですね」
お父様から聞いたその話は、お父様とのお話が終わって自室に戻った後も、私の頭の中にこびりつくように残っていた。
私が立つことのできなかった場所にエミリーが立つ。しかもレックス殿下は王妃様のご子息だ。王妃様も彼女のことを認めているということだろう。
王妃様のお言葉を借りれば、社交界の情報をあんなに巧みに操った彼女は『向いている』人間なのだろう。今更あの立場に未練がある訳ではないし、フェルナンド殿下に情があった訳でもない。けれども釈然としない何かが胸にしこりのように残った。
「ずる賢くても、結局勝った方が勝ちなのよね」
就寝前、ベスが髪の毛の手入れをしてくれている最中に、気を抜いていたせいか考えていたそんなことを、思わず口に出してしまった。
適当に言い訳をしようとしたが、ずっと私を見守ってくれていた彼女を誤魔化すことはできなかった。
「あの女狐のことですね。確かに世間的にはお嬢様の負けかもしれません。けれど因果応報で、卑怯な手を使ったものにはそれなりの報いがもたらされますよ!」
「そんなものかしら?けど、あの子がそんなヘマをするなんて、想像もできないわ」
私のためにそう言ってくれるベスに、「報いどころか、あの子は次期王妃様になるわよ」とは言えなかった。
「逆にお嬢様はあんなに頑張ってこられたのです!見ている人はちゃんと見てくださっているはずです。きっと幸せが向こうからやってきますよ!」
ベスは至って真面目な顔で私にそう言ってくれた。
お父様といい、ベスといい、私を思いやってくれる人がいる。王族の婚約者の地位なんかなくたって、私は充分幸せだなと思った。
「ありがとう、ベス。そうね、私らしく前を向いておかなくちゃね」
「そうですよ。ご自由になられて、早速領地へと視察に行かれるのでしょう?もしかしたらそこで幸せな出会いがあるかもしれませんよ」
「ふふ、ベスったらそんな上手くはいかないわよ。でも私の知らないものがまだまだあるでしょうからね。色んなことを吸収したいわ」
「お嬢様ったら。少しは気を抜かれてもよろしいでしょうに、真面目なんですから」
呆れた顔をしたベスに、私は鏡越しに笑いかけながらこう言った。
「でも、それが私らしいでしょ?」
するとベスはクスクスと笑いながら、そうですねと答えてくれた。
夜も更けようとしている時間だったけど、私たちはそこからも楽しいしおしゃべりを続けた。
そこから数日後、勉強のために領地に向かった私は、偶然ある男性と出会うことになる。このときの私は、まさかベスの言っていた『幸せな出会い』というのが、真実になるとは予想すらしていなかった。