プロローグ「夢のまた夢」
──いつだって、鮮明に思い出すことが出来る。
どくん、と。心臓が大きく跳ねていたと思う。
こぼれないように唇を強く結び、傍らの少女の手を取って走り出す少年の姿がある。
歳は10程。まだ幼いと言ってもいい程だ。
そんな少年のことを、僕はまるで空から俯瞰するように眺めていた。
時間は真夜中。草木すらも眠りこけてしまったこんな時間に、なぜ彼らは山の奥深くから駆けてきているのか。僕はそれを知っていた。
彼らは生贄だった。邪神を信仰するイカれた集団に目を付けられ、そして攫われた彼らは命からがらその根城から脱出し、今こうして逃げているところだった。
少年と、その手を握る少女の両手足には、鎖が半ばから腐り落ちたような枷が嵌められている。それは、僕達の自由を奪ったあの枷だった。
──これはいつも見る夢の一幕だ。
僕が犯してしまった罪の焼き直し、つまりもう起こってしまった後の、過去の夢。変えることは決して出来ない。それは許されないことだから。
あの少年こそが、僕自身だ。僕は、少女を、“ルポゼ”を救うことが出来なかった。
少年たちの後ろを見れば、そこにはやはり、いつもの夢と同じく、黒いモヤがあった。この世の全てを凝縮した上で、さらにその上に混沌を纏わせたような、そんな“汚い黒”とでも呼べそうな程に不吉なそのモヤは、少年たちを追うようにその身を漂わせていた。
いや、そのモヤは事実、少年たちを追っていた。
それは、可視化した邪神の呪い。
最高位を超え、文字通り神域に至った魔法の一つだ。触れたら最後、どうなるかなんて誰にも想像はつかない。
だからこそ、少年たちは必死にそのモヤから逃げるように山を下っていた。
「はぁ、はぁ……はぁっ! ……《アクセル》!」
少年が、力の籠った言葉を──《魔法》を唱える。
淡い水色の魔力が少年と少女を包み込み、彼らの“時”が一段階加速した。
「時属性の魔法使いは貴重だ」「滅多に発現することのない凄い属性なんだ」と。周囲の大人からちやほやされて育った。
だけど、そんなものは、この時の少年には何も関係が無かった。
彼には──僕には、“時を止める魔法”も、“時を戻す魔法”も使えやしなかった。
できるのは、ただ自分たちを加速させ、“時を速くする”ことだけ。それじゃあなんの意味もなかった。
時を速くしただけで、身体強化魔法の様に足が速くなる訳じゃない。走れば当然のように疲れるし、疲れれば速度は落ちる。
だから、僕の魔法なんてほんの気休め程度にしかならなかった。
そうして付かず離れずを繰り返していた命がけの追いかけっこにも、遂に終わりが訪れる。
それは唐突だった。
「──あっ」
ここだ。ここが僕の最大のミス。
言ってしまえば何のことはない。僕はこの時、足元にあった木の根の盛り上がりに気づかず、転んでしまったのだ。
命がけの追いかけっこをしていた僕達にとって、それは致命的の一言に尽きた。これさえ無ければ、逃げ切っていたかもしれないのに。なんて後悔が募る。
だけど、夢は僕の後悔なんか待ってくれなかった。
「クオン!」
クオン、と。僕の名前が呼ばれた。少女──ルポゼの声だ。
ルポゼは転けてしまった僕に気づき、起き上がらせようとこちらに近づいてくる。
ダメだ、と。逃げろ、と。そう叫びたかった。ルポゼだけでも助かってと感情に訴えるように。ルポゼの方が“治せる”可能性が高いだろうと打算的に。なんでもいいから叫んで、とにかくルポゼを逃がしてあげたかった。
でも、僕は、疲労と恐怖とで声を出す事ができなかった。喉にへばりついた言葉たちは、行き場を無くして離散してしまう。
そうして、ルポゼが戻ってきた。
きては、いけなかった。
「大丈夫、今治すからね……《ヒール》」
強い、強すぎるほどの桃色の光が、僕を包み込んだ。僕の膝の傷はあっという間に治療され、僕はまた直ぐに逃げるべく立ち上ろうとした。ルポゼの手を、取ろうとした。
「──危ないっ!」
立ち上がろうとした僕を再度突き飛ばしたルポゼ。危ない、という声に、嫌な予感がした。決して当たって欲しくない予感だった。
振り返ると、ルポゼがあの黒いモヤに包まれていた。この時の頭の中が真っ白になる感覚は、今でも忘れたいくらいに覚えている。
ルポゼは苦しそうにもがき、手や足をばたつかせて必死にモヤから抜けようとしていた。直ぐに助けようと近づくも、そこで何かに阻まれた。
《サンクチュアリ》。
ルポゼがそう呟くのが聞こえていた。決められた条件に該当するものしか入ることの出来ない結界を貼る、聖属性の魔法だ。
ルポゼが僕を拒んだのだと直ぐに分かった。結界を叩こうとするが、触れた瞬間に力が抜けてその場にへたり込んでしまう。
「ルポゼっ! ルポゼっ!!」
なんとかして魔法の解除をしようと、必死に頭を回転させる。幼かった僕に出来ることなんて本当に無いに近かったけど、それでもなんとか、ルポゼを救い出したかった。
だけど、そんな僕の決死も、ルポゼによって残酷に否定されることになる。
声は届かないが、こちらを見据えるルポゼの唇の動きを追うことはできた。
『こ、な、い、で』
そうして、自分は大丈夫だと言わんばかりにニッコリと笑顔を作った。それが、僕にとってどんなに辛いことか分かっていたのだろうか。
ルポゼの額には大粒の汗が何滴も流れており、眉はきつく寄せられていた。それでも口元だけは微笑んでいたが、それも次第に歪んでいく。
僕は、それをただ見ていることしか出来なかった。
しばらく、そうしていたと思う。
気づけば黒いモヤはルポゼに染み込むように吸収されていき、やがて綺麗さっぱり無くなってしまった。ルポゼの顔や身体には黒い斑点の痣が残り、遂に《サンクチュアリ》を維持する事すら困難になって気を失ってしまった。
地面に倒れ伏しそうになるルポゼに駆け寄り、強く抱きしめる。既に呪いはルポゼのものになっており、僕が受ける影響は何も無かった。
それがとても辛かった。
「ルポゼ、ごめん、ごめん……」
償いの言葉は誰にも聞かれることなく消えていく。
既に空には太陽が登っており、木々の隙間からは朝日が嫌になるほどに差し込んできていた。
その日から、僕の償いは始まった。
これが僕のいつかの罪の夢であり、僕はまだ夢の続きを見ているに過ぎない。今も僕はこの夢の中に囚われたまま、叶うことの無い夢を叶えようとしている。
今回の1行まとめ:主人公のクオンが昔の夢を見た
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