終章、或いは始まり。
「おい、カナデ!」
俺は立ち去ろうとするカナデに声をかけた。
あの桜の樹の下、カナデが長い髪を揺らして振り返る。木漏れ日がカナデの髪の上を踊る。
桜に妖精というものがいたら、それはきっとこんな姿をしているんだろう。真っ直ぐで、蠱惑的で、儚い。
「何ですか?」
「もう帰るのか?」
「…だって私たち、遺産には関係ないですもん。依頼料だけ貰えれば、十分です。」
でも今回の依頼料は全部ワトの怪我の治療代で吹っ飛びますけどね、とカナデが報酬の入っているのであろう茶封筒を振りながら言う。
「そういえば…」
俺は言葉を選びつつ、言った。
「お前さ、何で叔父さんのこと許したんだ?」
カナデが一瞬息を止めて、それから瞳だけで笑う。
「私としては許したくなかったんですけどね、助手の頼みは聞いてあげる主義です。」
どんな主義だよ。
「その顔はまだ聞きたいことがある顔ですね?」
うんまあそうだけど、と言うと、カナデは
「聞きますよ?」
といった。
「…じゃあさ、お前らさ、誰に雇われたんだ?」
……。
私は依頼人の姿を頭に思い浮かべた。
彼の言葉と共に。
「カナデ?」
彼に訝しげな目を向けられ、我にかえる。
「!…あ、いえ、すいません。企業秘密ということにさせてください。」
「…あっそ。」
私と彼の間に沈黙が流れる。
その沈黙は、何故か居心地が良く感じられた。
桜の枝が風に揺れて、さわさわと揺れた。
枝の隙間から漏れる光が、私と彼の空間の間に、複雑な模様を描いた。
「.…私も質問、一ついいですか?」
「…?うん。」
「貴方が外にいるということは、帰られるのでしょう?結末を見届けなくて、いいのですか?」
そう言うと、彼は一瞬呆気にとられた顔をしてから、
口の端を持ち上げて、笑った。
「俺んとこ別にお金がいるようなこと何もねぇし、俺はそれで満足してるし。…遺産が誰の手に渡ろうがどーでもいい。」
「そうですか。」
遠くから、微かに車のエンジン音が聞こえてきた。
あと数十秒で、彼は帰ってしまう。彼の家族が待つ場所に。
そして、二度とその道が交わることはない。
私は名探偵として、
彼は医大生…未来は、医師として。
…なんとなく、寂しくなった。
だから、背を向け、歩き出した彼の背中に、叫んだ。
「手紙っ!送ってもいいですか?」
「 。」
彼が答えた。
私は、走り去るタクシーを見送った。
「カナデ?何処だい?」
私の助手が呼んでいる。
私は、ワトの声の方向に、走り出した。