侯爵“令嬢”、婚約破棄される!!
ずっと昔から、生まれる前から決まっていたこと。こわがった態度はだめ。
わたしはぎゅっと瞑っていた目を開いて、室内を見た。今まで住んでいた城とは比べものにならないくらい、豪華で洗練された調度品に、大輪の花が生けられた花瓶、繊細な雰囲気の絵画など、見ているだけでくらくらしてくる。これ、どれくらい金がかかってるんだろう。母上が見たら怒りそうだ……。
「アムラコーティア?」
はっとして戸口を振り返った。着慣れない、重たいドレスの裾が、わたしの足のまわりでわさわさと折り重なる。立った襟が咽にくいこむみたいで、不快だ。
戸口には、淡い金髪の美少年が立っていた。白っぽい、きちんとした上下を身につけて、上等なキャラメル色の肌をしている。きらきらした瞳は紺碧だ。歳は、八歳、と聴いていた。わたしの二歳上だ。
わたしはぎこちなくだけれど、なんとかお辞儀した。顔を上げると、あちらは頷いている。
美少年は、背後に大人を従えていた。儀仗兵が三人、従僕がふたり、侍女がふたり。貴族階級らしい格好の中年女性は、乳母だろう。わたしにもああいう乳母は居たが、ここにはついてきてくれていない。
美少年は大人達を従えて、部屋に這入ってきた。わたしはもう一度お辞儀しようとして、ドレスの裾に足を絡めとられ、つんのめった。
ぱっと、美少年が飛びだして、わたしを支えてくれる。「大丈夫か? アムラコーティア」
「……はい」
震えてか細い声が出た。わたしはしっかり両足で床を踏みしめ、まっすぐに立つ。「申し訳ございません、殿下」
殿下は重々しく頷いた。彼は王子ツィティアス、侯爵令嬢、アムラコーティア・レンデルの許嫁である。
レンデル侯爵家と、ツェルベーエス王国王家、サイレダイン家は、この数百年間友好関係を築いている。時折、レンデルの娘が、サイレダインの男児に嫁ぐのも、おなじみだ。
もともと、サイレダイン家の分家の、そのまた分家がレンデル家である。その後も婚姻で縁戚関係が維持されているのもあって、王子が避寒にレンデルの城を訪れたり、レンデル家の男児達が王子のおともで狩りに出たりするのは、特段不思議なことと思われてもいない。
ほかの侯爵家、それどころか公爵家よりも、レンデル家はサイレダイン家と親しい。だから今度のことも、ごく自然な流れでそうなったのだ。王家の長男と、レンデル家の長女を、結婚させる。どちらも生まれる前からの婚約だ。レンデル家はそれを違えることはできない。
「アムラコーティア……ティアと呼んでも? それとも、アムがいいかな」
「殿下のお好きなように」
殿下の隣に座っているわたしは、首をすくめていた。殿下のお顔を見るのがこわい。今回のことは、こわいことだらけだ。
殿下はかちゃっと小さな音をたてて、お茶のはいったマグを置いた。
「では、アム。これからは、十日に一度は会いましょう。学期がはじまったら、一緒に登校を。僕は、陛下のように、愛したかたと結婚したい。君をきちんと愛したいと思っている」
ぎゅっと目を瞑った。わたしは消え入りそうな声で、もったいないことでございます、と答えた。
「お嬢さま」
「それは、やめて」
わたしは寝台の上で、でろんとだらしなく伸びていた。殿下との顔合わせは、なんとかうまくいった。これから何日、いや何ヶ月、この状態が続くのだろう。もしかしたら、何年も……。
上体を起こす。侍女のサガイレがしかめ面になっている。
「お嬢さま、きちんとして戴かないと困ります。淑女はそのような格好はいたしません。ほら、きちんと脚を揃えて」
「別にいいじゃ」
「よくありません。常日頃からきちんとしていてこそ、大事な時にやるべきことをやれるんです。普段脚も揃えられないご令嬢が、学園にはいってまともにできるとでも?」
それをいわれると、つらい。わたしは口を尖らせ、脚を揃えた。サガイレが頷く。「それで宜しい」
口煩い侍女、サガイレ。寡黙な従僕、セイロー。教師のイルティス。
その三人が、侯爵領からわたしについてきてくれた大人達だ。三人とも、お父さまが子どもの頃にはもう大人だったくらいの大人で、サガイレはしわくちゃだし、セイローは腰が曲がっているし、イルティスは耳が聴こえづらいらしく声が大きい。
けれど、三人ともレンデル家にとって、凄く信頼できる人物で、わたしも安心して自分のことを任せられる。だから、今度のことに抜擢された。
わたしはお風呂場から出て、髪をサガイレに乾かしてもらっていた。サガイレはぶつぶついう。
「まったく、こんなに短い髪がありますか」
「のばすの?」
「淑女らしくない、と、何回申したらわかってくださいます?」
わたしは首をすくめた。
五日後、わたしは学園の制服である、立て襟の赤いドレスに身を包んでいた。細い黒のリボンを結ぶのに、苦労する。
まだ短い髪は、サガイレがなんとかピンで留めて、長い髪をまとめているように見せかけてくれている。セイローが調整してくれた靴ははきやすいし、イルティスが毎日五時間勉強を見てくれていたから、予習もばっちりだ。
ツェルベーエス王国の都には、王家や貴族の子女、それに優秀な一般市民が通う、学園がある。
というのは建前で、一般市民はほとんどおらず、実質王家と貴族の為のものだ。騎士家もはじかれがちである。
単純に、一般市民や騎士家というだけで、入学試験の点数が低くなるように調整されているのだ。あしきり、というらしい。
どうしてそんなことをするのかというと、不幸な事故を防ぐ為だ。別に、貴族や王家が特別偉いとか、優遇されているということじゃない。
ツェルベーエス王国にはしっかりした法律があって、王家や貴族の人間に不敬があると、むちで叩かれたり、酷いと死刑になってしまう。でも、王家や貴族の常識は、一般市民にはわからない。
それで、一般市民がそうと知らずに無礼を働いて処罰される、ということが、学園創設当時に頻発した。あしきりは、それを避ける為の措置だった。
けれど最近は、結局は一般市民を排除しているのにかわりはないからよくないということで、学園の敷地内に一般市民や騎士家の子ども用の校舎が新設され、貴族や王家とは分けてそちらにいれてしまう。
費用はなかなかのものだったけれど、有能な人材を発掘するいい場所だし、このところ西の魔境の活動が活発なので、そういった対応に踏み切らざるを得なかったらしい。
ただし、学園の敷地にあるけれど、学園扱いではないそうで、それは貴族院の意向なんだそうだ。そこのひと達は、一般市民が自分達の子どもと同じ場所で、同等の教育をうけるということが、我慢ならないらしい。
学園の創設理由は、若い世代の健全な交流を推進し、埋もれてしまう才能を見付けて芽吹かせ、将来的にツェルベーエス王国の為になる人材を育てる、というものだ。
王子達はかならず入学し、その生活態度を見られ、また人脈づくりに奔走する。要するに政争を大きなことにしない為の装置ですとイルティスは大声で断言していた。
わたしは居間の椅子にちょこんと腰掛けている。淑女はそういう座りかたをするらしい。勿論、脚は揃えた。
「いいですか、お嬢さま」
「それは辞めてってば」
「仕方ないでしょう。学園では、魔法の授業もございますし、礼法も学びます。きちんとして戴かないと、レンデル家のはじですからね。そうそう、お名前の綴りも間違えないでくださいよ。あれだけ練習したのに、まだアムラコーチアと書くのだから」
「仕方ないでしょ」
同じような口調で返すと、サガイレは目をくるっとさせた。でも、少し面白がっているふうだ。
ノックの音がして、わたしは鞄を掴んで椅子を飛び降りた。「お嬢さま、はしたないですよ」
見えてないならいいじゃん。
殿下は今日も完璧な美少年だった。
わたしは殿下に掴まって、学園の廊下を歩いている。女児は赤いドレス、男児は黒の上下。それが学園の制服だ。
殿下は美少年なので、どんな格好もぴったりだった。緊張していなかったら、そしてサガイレの好きな淑女だったら、これだけの美少年と腕を組んで歩いていることに、胸をときめかせているかもしれない。
でも、これは政略的なことであって、実際には恋愛は絡まない。殿下はきちんと愛したいとおっしゃったけれど、おそらく無理だ。
「アム、ここが僕らの教室だ」
「はい、殿下」
おしとやかに聴こえるように、苦労して声を出した。サガイレに猛特訓されたのだ。
明かりとりの大きな窓が目立つ、天井の高い部屋へ、ふたりで這入った。儀仗兵や従僕達は這入れない。
室内には、椅子が数脚並んでいて、その椅子が向いている壁には大きな木の板がかかっている。その板は、虫食いのような小さな穴が沢山あいていた。
殿下はわたしを椅子に座らせ、ご自分は隣の椅子へ腰掛ける。わたしと殿下は、ななめにかけた鞄から、帳面と鉛筆をとりだした。この鉛筆というのは、つかうと手が黒くてべたべたになるのだけれど、筆やペンと違ってインクを用意する必要がない。
すぐに、別の生徒と教師が這入ってきて、授業がはじまった。木の板には、小さな針で紙が停められ、その紙に書いてあることをわたし達は書き写した。
朝、殿下が迎えにいらっしゃる。ふたりで腕を組んで馬車へ向かい、馬車で学園へ行く。お昼は一緒に、食堂で戴く。授業が終わると、殿下と腕を組んで帰る。
毎日々々、それが続いた。殿下がいっていたことは、冗談でも嘘でもないみたいで、殿下はわたしを理解しようと頑張ってくれている。だからわたしも、殿下の話すことを真剣に聴いて、手を黒くしながらそれを帳面へ書き付けたりした。殿下には見えないように。
殿下ははじめ、子どもなのに大人のような態度でとっつきにくいというか、つめたい印象だったのだけれど、二月もするとそれが勘違いだとわかった。年相応の、やんちゃなところのある可愛い子だ。わたしが喜んで食べたお菓子を、次に会う時にわざわざ厨房に頼んでつくらせるくらいに、些細なことにも気が付くという面もある。
「アム」
その日は、男児は乗馬の授業があり、その時間女児は裁縫をしている筈だった。しかし、学園の手違いで、裁縫道具のはさみが複数行方不明になってしまい、女児は授業どころではない。かといって、帰す訳にもいかないと、わたしや女児達は別教室におしこめられていた。
すると、窓越しに声をかけられた。わたしは自分のこととは思わず、何秒かぼんやりしていたのだが、近場に居た伯爵令嬢と子爵令嬢が慌てた様子で目でわたしの背後を示しているので、振り向いた。
窓の向こうには、馬にまたがった殿下が居た。そういえば、この教室は校庭に面している。
わたしは慌ててお辞儀した。「殿下」
「かしこまらなくていいよ」殿下は栗毛の馬にのって、上機嫌だ。「この子はとてもおとなしいんだ。アムものせてあげたいと思って」
「ああ、ですが、あの」
「ほらおいでよ」
殿下はわたしの腕を掴み、どこにそんな力があるのか、引っ張り上げた。わたしは自由な腕で、制服の裾をおさえ、見苦しいことにならないようにと祈る。
殿下はわたしを横向きにして、馬の背に座らせ、両腕でわたしが落ちないように支えた。「庭をひとめぐりするだけだから、こわくない。掴まっていて」
殿下はそういって、手綱を操った。
馬がはしり、跳びはねる。殿下は楽しそうだし、わたしも楽しかった。制服が滑るので、殿下の首に両腕をまわして掴まっていたけれど、それが殿下の迷惑になってはいないと思う。きちんと、馬の動きに合わせてこちらも動いた。
「殿下、さすがです」
馬の速度が落ちると、近付いてきた伯爵の子どもが、亢奮した様子でいった。ほかにも、公爵や侯爵の息子達が、集まってくる。「女人をのせて、あんなに安定した走りを……」
「たいしたことではないよ」殿下はにっこり、完璧に笑った。「彼女が素晴らしいんだ、実際のところ。アム、乗馬をしたことがあるのかな? 君は馬に慣れているね」
伯爵の息子がこちらを見た。わたしは殿下を見詰める。
「あの、はしたないとお笑いになりませんか」
「女性が馬にのるのは、はしたないことではないよ」
「……少しだけ、あの、お父さまと一緒に馬にのったくらいですの」
伯爵の息子が、栗が割れたみたいににっこりした。「レンデル卿は素晴らしい乗馬の腕前と聴いたことがございます」
「ああ、そうだね。アム、わたしはお父上よりもうまかった? それともへただった?」
「父上のほうが上手でした」
ぽろっと口からこぼれ出た言葉を、拾うことはできない。
集まった男児達は唖然としている。わたしは震えていた。
けれど、殿下は嬉しそうに頷く。「僕もそう思うよ。レンデル卿の乗馬を見たことがある。子どものかなうものではない」
はさみは悪がきどもが隠していて、見付かったあとにこっぴどく叱られていた。許嫁に乗馬を見せたくて、裁縫の授業が中止になったらいいと思ったそうだ。
殿下はわたしを気にいったみたいで、お茶会の頻度は増した。
「アム」
声のほうを見ると、殿下が駈けてくるところだった。
わたしはお辞儀してそれを迎える。貴族の息子達が、殿下を追ってきたが、わたしには必要以上に近付かない。
淡い色の巻き毛が、わたしの顔のまわりで揺れた。あれからサガイレの助言どおり、わたしは淑女らしく髪を伸ばしている。くるくるとした巻き毛は天然だ。放っておくとこうなる。王都ではやっているのはまっすぐで湖面のようにつやつやした髪だから、わたしの頭は野暮ったいのだった。
「どうなさいましたの、お急ぎで」
「ああ。聖円祭の日、西の魔境へ行くんだ」
この五年ですっかりたくましくなった殿下は、わたしの腕を自然にとり、絡めた。わたしは微笑む。
「大丈夫ですの? この間は大変な目にあったと、元気な王子さまから聴きましたわ」
「僕も、巻き毛が可愛い侯爵令嬢にそんな話をした記憶がある」
殿下は屈託なく笑い、わたしの手の甲を優しく叩く。「だから、君に一緒に来てもらいたいんだ、アム。君は剣技にたけているだろう?」
「まあ」
少し離れたところから、伯爵の息子が気遣わしげにいった。「殿下。アムラコーティア嬢、僕らは停めたんですよ」
「いつも殿下が無理をいって、ごめんなさいね、ワブノムさま」わたしは伯爵の息子へそういってから、殿下へ目を戻した。「どうしてもとおっしゃるなら、お手伝いいたします」
「どうしても」
「殿下」
公爵の息子がたしなめたが、殿下は笑いながらそれを振り向いた。「これで、戦力は確保できた。支援を頼むよ」
聖円祭の日はすぐにやってきた。ぶつぶつ文句をいうサガイレに、わたしは身支度を手伝ってもらっている。
「仕方ないでしょう。殿下のご要望なのだから」
「だとしても、淑女が魔境へ行くなんて」
「アーオノーイでは王女がばけもの退治をしていると聴くけれど。ウールシュケルでも」
「アーオノーイやウールシュケルのような小国と、我がツェルベーエス王国を同列に語らないでください」
わたしは舌を出して、鏡台の前の椅子を飛び降りた。薬の詰まった鞄をななめにかけ、剣を佩く。サガイレにお叱言をこれ以上もらわないよう、部屋をとびだした。
淑女らしくない、というのは重々承知だけれど、こうやってたまに殿下のお誘いがあって、魔境へ狩りに行くのは、とても楽しい。自由になれるような気がするから。
殿下はわたしに、馬を贈ってくださっている。ばけもの狩りに行く為の丈夫なドレスも、殿下からの贈りものだ。
魔境までは移動用のポータルをつかった。ツェルベーエス王国と友好関係にある、ウールシュケルという国の技術で、遠く離れた場所まで一瞬で移動できるものだ。殿下とわたし、それに殿下と親しい貴族の息子達で、西の魔境のすぐ傍まで移動した。この便利な技術は、バルファやアースィファという大帝国に狙われているのだけれど、流出したことはない。
西の魔境には数回、来たことがある。わたしは剣をぬいて、弓の用意をする殿下を振り返る。
「どれくらい狩りますの?」
「ここで待ちかまえて、来るだけ倒そう」
伯爵の息子が咳払いすると、ほかの全員が黙る。伯爵の息子はすぐに、奇妙な声を出し始めた。彼はばけものを呼び寄せる声を出すことができる。魔法の力、ということではなく、ばけもの達が興味を持つ声を出せるのだ。
魔境の森のなかから飛びだしてきたばけもの達を、まず殿下の弓が仕留めた。仕留め損なったばけものは、わたしや貴族の息子達が、剣で切り伏せる。返り血は気にしない。ばけもの達を退治することは、国の為になるし、国民の為になる。
伯爵の息子の咽が枯れるまでばけものを呼び寄せ、狩った。死んだばけものの体は勝手に消えてしまって、あとには綺麗な石や、金貨、牙や爪などが残っている。それらを拾い集め、近くの村へ向かった。そこで宿をとるのだ。
わたし達は上機嫌だった。ばけもの退治はうまくいったし、伯爵の息子の咽はわたしが持っていった薬で癒えている。
わたしの少し先を行く殿下が、馬上で振り向いた。「アム、ありがとう」
「殿下の為に頑張ったのです。誉めてくださいませ」
軽くいう。殿下はにっこりした。
「アム、いいかな?」
寝台でごろごろしていると、廊下から殿下の声がした。わたしは慌てて体を起こし、肩掛けで上半身を覆う。「はい、殿下?」
錠を外してから扉を開けると、殿下はほっとしたような顔でいう。
「きちんと錠をかけているね」
「はい」
首をすくめた。はじめて西の魔境まで狩りに来た時、宿で錠をかけずにねこけてしまったのだ。
殿下は微笑んで、わたしの手を優しく掴んだ。
「今日はありがとう。君のおかげで助かったよ。彼らも強いのだけれど、魔法に偏っているから」
「ええ……」
「ところで、アム?」
俯いた。この声の調子だと、またあの話だろう。
殿下は小さく、溜め息を吐く。
「まだ、結婚はいやなんだね?」
「……申し訳ございません」
「ううん。君がいやがっているのに、結婚はできない」
殿下はそっとわたしの手を持ち上げて、手の甲に唇をおしあてた。「君に好きになってもらいたいな。どうしたらいいんだろう……」
別に、殿下をきらっている訳じゃない。
凄くいいひとだと思う。凄く誠実だとも思ってる。わたしが淑女らしくなく、馬をのりまわしたり、剣をふりまわしたりしても、殿下はなにもいわない。貴族院は、将来お妃になるのにあんなにおてんばでは困ると、許嫁をかえることを進言した。でも、殿下はつっぱねた。
だから、もどかしくて、申し訳ない。
翌日、殿下はよそよそしかった。当然だろう。結婚を断られるのは、二度目なのだ。
伯爵の息子が、なれなれしいと叱られるくらいの距離まで、わたしに近付いてきた。心配そうな顔をしている。「あの……アムラコーティア嬢?」
「なんでしょう」
低声に低声で返す。伯爵の息子は、ひとのよそうな丸顔を、哀しげにゆがめた。
「あのう、我が家にはよい医者がいます。もしなにかあるようなら、いつでもご相談ください。勿論、他言はいたしませんから」
小首を傾げる。伯爵の息子は、首をすくめて離れていった。
……そういえばあの子には、親しい姉妹が居たな。
もしかしたら、まずいかも……。
おそれていたようなことは起こらずに、更に二年が経過した。
学園に入学するのは十歳、卒業は入学から八年経った十七歳と決まっている。だから、わたし達が卒業する年になった。
このところ、殿下がよそよそしくて、西の魔境への狩りにも誘ってくれなくなってしまった。わたしはもともと、友達をつくってもいないし、殿下と喋らないので一日中口をきかずにすごすことも多くなっていた。口をきかないでいられるのは嬉しいのだけれど、殿下と一緒に居られないのは淋しい。
「お嬢さま」
サガイレが、すっかり長くなったわたしの髪を、丁寧にといている。
「卒業記念の宴は、殿下と一緒に行くのですよね?」
「当然でしょう」
鏡を見詰める。八歳の頃からかわらず、襟の立ったきっちりした印象のドレスを着続けている。身持ちの堅い淑女は、首をさらしたりしない。殿下の許嫁として当然だ。
「わたしは殿下の許嫁なの。殿下は、わたし以外を誘ったら、とんでもないことになる」
声は低く、おそろしげに響いた。自分の声なのに、他人のもののようだ。
殿下は、男爵令嬢との噂が、このところささやかれていた。東の新興貴族で、もとは商人だったという、ヤクシプ家の娘だ。おととし、編入してきた。名前は……たしか……エイメイルだったかな。桃色がかった淡い金髪で、けぶるような紫の瞳をもった、浮世離れした美少女だ。
わたしなんてかなわない。
だが、聡明な殿下が、わたしを放っておいて別の女生徒を宴につれていくなんてことは、ありえない。
今、ツィティアス殿下は、厳しい立場に立っておいでだ。
弟君のアインウォールブ殿下が、貴族院を味方につけ、有力な貴族のひとりである公爵の娘との婚約をとりつけた。ばけもの退治の回数も、アインウォールブ殿下はツィティアス殿下に迫ってきている。
もともとツィティアス殿下は、新興の男爵や子爵、それに騎士の子ども達とも分け隔てなく接したし、一般市民の子でも学園内ならば普通に言葉を交わした。そういう態度は一国の王子としていかがなものかと、貴族院はツィティアス殿下を苦々しく思っていたのだ。セイローやイルティスが教えてくれた。勿論、情報収集の得意なサガイレも。
その上に、わたしが結婚を渋っている。それなのにツィティアス殿下は、わたしとの婚約を破ろうとなさらない。
ここで、男爵の娘となにかあったりしたら、殿下はお世継ぎではなくなってしまう。もしかしたら、王子の称号さえ失うかもしれない。
そんなことをさせてはいけない。絶対に。
エイメイルは同じく新興貴族の娘達と、いつも一緒だった。わたしは彼女達を観察し、エイメイルがひとりになったところで、彼女に接触を試みた。
「エイメイル嬢」
エイメイルはわたしから話しかけられて、驚いたらしい。綺麗な色の髪を揺らして、ちょっと後退る。
「ごきげんよう」
「ご、ごきげんよう、アムラコーティアさま」
エイメイルの声は裏返り、目は泳いでいた。わたしは一歩、彼女に近寄る。彼女が数歩分わたしからはなれた。
「あの、なんのご用でしょう。わたし、アムラコーティアさまのような高貴なかたに、話しかけても戴く理由がございません」
「あら?」首を傾げた。「殿下のほうが、わたしよりも高貴なかただわ。その殿下と、あなたが、親しくしていると聴いたのだけれど」
エイメイルは血の気を失っている。鞄を抱いた両腕が、震えていた。わたしは微笑む。
「わたしは殿下の許嫁です。殿下が親しくしているかたなら、一度きちんとお話ししておくべきだと思ったの。なにかおかしい?」
「い。いいえ」
「それで、エイメイル嬢。勿論わかっていると思うけれど、殿下はお世継ぎなの。その殿下に、醜聞は、あってはならないのよ」
エイメイルが小刻みに頷いた。目に涙がうかんでいる。そこまで怯える必要はないと思うんだが……。
「エイメイル嬢、わかったら立場をわきまえて」
「わきまえるのは君ではないかな、アムラコーティア」
体がびくっと震えた。
右方向、廊下の奥から、殿下が歩いてくる。怒っているらしい。
「殿下」
「エイム、君は医学の授業があるだろう。行きなさい」
エイメイルがほっとした様子で、走っていく。わたしはそれを、呆然と見送った。エイム、だって?
殿下を見る。身長は、この二年で追いついた。目線はだから、同じ高さだ。
「殿下、みっともないことはおやめください」
「みっともない?」
「新興貴族の娘と」
「君はなにをしたいんだ?」
意味がわからず口を噤むわたしに、殿下は鋭い調子でいう。
「僕と結婚するのはいやがる。それなのに、僕が女性と一緒に居るのもいやがる。君はどうしたいんだ」
「それは。とにかく、殿下のお名前に傷が付くようなことは」
「なら、今すぐに結婚してくれ、アムラコーティア」
口を開いたが、言葉が出ない。
殿下はわたしから顔を背け、溜め息を吐いてわたしの腕をとった。わたし達は無言で、魔法理論の授業へ向かった。
殿下が自分以外と結婚する、というのは、いつかは訪れることだ。
それをいやがる権利はわたしにはない。
でも、あのエイメイルという娘はいやだった。新興貴族、それも男爵なのだ。釣り合わない。王子が結婚できる家格ではない。
だが、かといって別の、例えば公爵の令嬢なら納得するのかといわれたら、それもまた、心の底からの納得はできない気がする。
「サガイレ」
「はい、お嬢さま」
「お父さまから連絡は?」
返事はない。サガイレを振り返ると、彼女は哀しそうに頭を振っていた。わたしは頷く。「そうよね。いい加減、わたしは退場するべきみたい」
卒業記念の宴の日がやってきた。
わたしはあたらしいドレスを着て、会場の隅に立っている。俯けた顔には紗をかぶっていた。
今の時期、日はなかなか落ちない。外からさしこむ不思議に白っぽい光が、大広間を充たしている。殿下は結局、宴へ誘ってくださらなかった。
ちらっと見たところによると、殿下は陛下のお傍にもいらっしゃらないらしい。今回は、お世継ぎである殿下が卒業するというので、宴はいつもよりも規模が大きいものだし、陛下もいらっしゃっている。殿下の弟君もいらっしゃるのだけれど……。
深い緑のドレスをひきずって、天窓の下まで行った。各所に儀仗兵が配置され、陛下や殿下の身の安全を確保している。
エイメイルの、桃色がかった金髪が、人波のなかに見えた。あんな色の髪はなかなかない。もしかしたら、殿下が一緒ではないかと思って、わたしはそちらへ向かう。
誰かにぶつかった。
「これは失礼!」
「あ、ワブノムさま」
伯爵の息子だ。困った顔で、わたしの腕を掴む。
その態度に、わたしは危うく恐慌を来すところだった。ぱっと腕を動かして、手を振り払う。「酔っておいでなの?」
「アムラコーティア嬢、こちらへ来てください」
「やめて……」
伯爵の息子だけではなかった。ほかにも、貴族の息子達が数人で、わたしを広間のまんなかへとひっぱっていく。
そこには殿下が居た。険しい表情で。
「殿下」
「アム。話がある」
貴族の息子達がわたしからはなれていった。
「僕は、アムラコーティア・レンデルとの婚約を破棄する」
まっさきに反応したのは、傍のテーブルに並んだお酒を吟味していた、貴族の息子達だ。いつも殿下と一緒に居る子達ではなくて、殿下の弟君の派閥の人間である。
「ツィティアス殿下! 今なんと」
「殿下が、レンデル家との約束を反故に?」
わざとらしいくらいに驚きながら、大声でいう。わたしは今度こそ本当に恐慌を来した。涙をこらえようとしたが無理で、頬を伝う。
「殿下、なにをおっしゃいますの?!」
「もう一度いう。僕は、アムラコーティア・レンデルとの婚約を破棄する」
「ツィティアス」
陛下の重々しい声が響き、喧噪がおさまった。
顔を赤くした陛下が、儀仗兵を従えてやってくる。陛下の腕には、まだほんの子どもに見えるアインウォールブ殿下が、ぶらさがるようにして掴まっていた。「父上、兄上は酔っておいでなんです」
「違う、アイン」
殿下ははっきりと、いう。
「僕はアムラコーティア・レンデルと結婚したくない。ほかに好きなひとができた。だから婚約は破棄する」
「ツィティアス! この愚か者! 我が家にとってレンデル家がどれだけ大切だと……!」
陛下が儀仗兵の持っていた杖をひったくり、殿下を打擲した。悲鳴があがり、殿下が倒れる。わたしは殿下に覆い被さるようにして、陛下の杖をまともにせなかにうけてしまった。
目が覚めた時にはすべてが終わっていた。
殿下はお世継ぎの座から外れ、のみならず、わたしがおそれていたとおり、王子の称号も剥奪された。すでに王都を追放され、叔父にあたるラァヴィル卿の城に身を寄せてらっしゃるという。それ以上の沙汰がないように、わたしは祈った。
わたしはあばらを折り、身動きがとれない状態だ。王都にあるレンデル邸で、療養生活をおくっている。煩わしい髪を魔法で切ってしまって、サガイレに叱られた。
寝台でなにもできずに横たわっていると、伯爵の息子が見舞に来た。彼は、エイメイルを伴っていて、わたしにことの顛末を教えてくれた。
「やあ、アム」
西の魔境の近く、殿下……いや、ツィティアスさまは、以前よりも精悍な顔付きで馬にまたがっていた。
ひょいと降りて、こちらへやってくる。さしだされた手を掴むと、引き寄せられた。
「君にまた会えて、嬉しいよ」
「……本当に?」
「勿論」
ぱっとはなれると、ツィティアスさまは微笑んだ。
「その格好のほうがいいね。僕の妻になるひとは、随分立派な体格をしているなあって、ずっと思っていたんだ。このところは、突然無口になってしまったし」
わたしは……ううん。
俺は、苦笑いした。「ごめんなさい。声変わりしたから、女の子らしく喋ると、前みたいなちょっとの咽の痛みじゃおさまらなくて」
レンデル家と王家の約束は、聖円祭でかわされた神聖なもので、違える訳にはいかなかった。
でも、俺の二歳上の姉のアムラコーティアは、俺が六歳の時、突然死んでしまった。
それは、暗殺……らしい。貴族院は、王家とレンデル家の仲違いを目論んでいたのだ。
父上は俺をアムラコーティアの替え玉にして、王都へ送りこんだ。素直にアムラコーティアは死んでしまったといえばいいようなものだが、ことはそう簡単ではない。
アムラコーティアが死んでしまったとしても、次に女児が生まれれば、その子が王子の許嫁になる。ということは、その子が暗殺されるかもしれない、ということだ。
なら、レンデル家の男児として戦いを学んできた俺が、まだ見ぬ妹の盾になればいい。それが父上の考えだった。
アムラコーティアは辛くも暗殺を逃れ、王都へ行って王子と行動をともにしている。となれば、アムラコーティア=俺を狙って、暗殺者が放たれる。
サガイレ、セイロー、イルティスには、散々世話になった。三人は、ただの侍女や従僕じゃない。戦いにたけたサガイレとセイローに、毒を盛られた時に解毒してくれるイルティスが、俺が死なないようにずっとまもってくれていたのだ。
妹が生まれてからも、俺はその身代わりを続けていた。なにしろ、ツィティアスはお世継ぎだったし、ってことは「アムラコーティア」はお妃になる。それが、王都で死んだとなったら、父上が怒って王家と仲違いする……と、貴族院のやつらは考えていたみたいだ。
だから狙いは俺に集中していた。その分、妹が安全ってこと。
「いつ気付いたんですか」
「ワブノムがね」
ツィティアスは手綱をひいて、俺と並んで歩いている。俺は彼の髪に、幾らか白髪がまざっていると、その時はじめて気付いた。
「僕が君に結婚を申し込んで、断られたあとに、アムラコーティア嬢はまだ大人ではないんでしょう、といってきた。彼は医学を専攻しているから」
「ああ……」
その偽装をしていなかった。女が十五・六にもなって、年柄年中とびまわっていて平気なのは、たしかに違和感がある。王国では、そういう時にはおとなしくしている女性がほとんどだから。
「それで、おかしいなと思った。よく考えてみたら、君は錠をかけ忘れたり、大きく口を開けて笑ったり、ドレスをあまり新調しなかったり、かわった“令嬢”だったよ」
笑ってしまった。ツィティアスも笑う。
しばらく行ってから、いう。
「ツィティアスさま」
「ああ」
「まだ、俺を好きだと思っていますか」
「好きだよ」
ワブノムとエイメイルから聴いた話は、あばらを折った人間にはかなり衝撃的なものだった。いや、あばらを折っていなくてもそうか。
ツィティアスは王子を辞めたかったのだ。だから、わざと別の令嬢を噂がたつような行動をとった。エイメイルは迷惑しただろう。ほかにもいろんな令嬢と会っていたのに、彼女が特に美人だったので、彼女とだけ噂になったのだ。
俺は、男だからな。幾らサガイレが頑張ってくれても、背は高いし、肩幅はあるし、手足は大きく、骨張った体型で、女らしさなんてない。その俺ではなく、華奢で可愛らしいエイメイルと一緒に居るというのは、「浮気」として信憑性があった。
噂が充分ひろまって、陛下の耳にも届いた頃、ツィティアスは宴の席で爆発魔法をつかうような真似をした。婚約破棄、というやつだ。
でも、ワブノムが教えてくれたが、ツィティアスの言葉は俺をきらっているということじゃないらしい。
そうじゃない。「アムラコーティア」という令嬢ではなくて、俺を好きになったから、アムラコーティアとの婚約を破棄したかったんだ。
ツィティアスは俺の、少し前を歩いている。だから、表情は見えない。
「陛下や、お妃さまや、姉上や、可愛い弟達や……わたしは、素敵な家族にめぐまれているんだ」
「……ええ」
「家族のことは愛している。誰よりも大事だ。ほんというと、国民よりもね。だからわたしは、王には向かなかった。王は、自分のことなんて考えてはいけない。自分の大切なものをひいきしてはいけない」
ツィティアスは立ち停まる。俺もそうした。
「でも、君を知って、君を誰よりも優先したくなったんだ。ずっと、楽しく喋って、一緒に狩りに出て、なんでもないことで笑っていたい。そう思った。君が男だと気付いた時に、王子という立場も、王家も、捨てていいと思った。そうしてでも、君と……」
「……ツィティアスさま」
「君にとっては迷惑な話だろう?」
「いいえ」
ツィティアスが振り返った。驚いたような顔をしている。俺は苦笑いする。
「俺は、殿下……ツィティアスさまを、好いています。それが、どういう好きなのか、自分でもよくわからないんですけど、でもツィティアスさまと一緒に居ると楽しいし、離れたら淋しい。それは一緒です」
「アム……」
「友達で居てくれませんか、ツィティアスさま? もしかしたら、それ以上になるかもしれないし、そうならないかもしれない。俺の、わがままですけれど……」
虫のいい話だ。好きだといってくれた相手に、酷い提案だともわかっている。でも、真実、ツィティアスとまったく縁が切れるというのは、いやだった。
ツィティアスは頷きかけたけれど、辞めた。
「でも、レンデル家がアム……ああ、君の名前を」
「しばらくは、アムのままで」
遮った。「俺も、もう十年近くアムラコーティアをしているので、本名は忘れてしまいました。レンデルの家から、出てきましたしね」
「え?」
骨折が治る前に、貴族院へ司直の手がはいった。
実は、アインウォールブ殿下は、貴族院に近付いてその不正を暴こうとしておいでだったのだそうだ。その試みがうまくいった。ついでに、アムラコーティア暗殺計画の計画書まで見付かったそうで、数人は刑死する予定である。
その大混乱のさなか、アインウォールブ殿下は俺の妹と婚約した。陛下が、アムラコーティアと、とおっしゃったのだけれど、俺は、家を出て修道者になるといって、つっぱねた。
修道者というのは嘘だけれど、家を出るというのは本気だった。いい加減、囮生活はつらいしやりたくなかった。それに、どこぞの貴族令嬢と結婚しないといけないらしいから、それもいやだった。
俺には兄が居る。跡継ぎは兄がしてくれるから、問題ない。妹は、将来お妃さまだ。弟が居るから、もし兄になにかあっても大丈夫だろう。
ということで、俺は十年近い極秘任務の褒美として、レンデル家という重たい名前を放り出すことができた。
そんなようなことを説明すると、ツィティアスは口を半開きにしてしばらく黙った。その顔が面白くて、俺は笑う。
ツィティアスも微笑んだ。
「笑いかたは、かわらないね」
「そうですか?」
「ああ。……それで、これから、どうするんだい? アム?」
俺はくいっと首を傾げる。
「魔境の近くで狩りをして、生きていこうかと。なんでも、風の便りだと、金髪のやけに美しい青年が、この辺りをねじろにしてばけもの退治を請け負っているらしいんです。俺もその一味にくわえてもらおうかと」
「そりゃあ、いい。僕はずっとひとりで、この辺りのばけものを退治していたんだ。そんなひとが居るんなら、僕も一緒に仲間にくわえてもらおう。どこに居るかな?」
ツィティアスはそういって、俺の手をとる。俺はその手を握り返した。
今は、先のことなんてどうでもいい。ただ、友達と一緒に居られることを楽しもう。
ずっと前、生まれる前から友達だったみたいに、俺達は笑いあいながら馬にまたがり、魔境へと駈けていった。